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Log-in 〝War〟ld  作者: 神崎はやて
第1章
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第1話 【日常に忍び寄るモノ】

以前にも触れたが、嶺原高校は市内でも学力的にも実に平凡な高校である。


県内全域での最難関校には足元も及ばない―――が、それでも市内に限れば数少ない進学校だ。

世間一般的に見れば、学力は凡庸なレベルであると形容する他ない、至って普通の高校なのである。中学3年になっていよいよ受験生という頃、どうせ自分はこれまでと変わらず、いつものように自宅から通学路を通ってこの高校へ通うのだと、迅は信じて疑っていなかった。


けれどそんな中、1つだけ意外なことはあった。天然少女なお隣さん、雛の進路である。


成績優秀な彼女のことであるから、てっきり上述の〝県内最難関校〟へ進むものとばかり思っていたのに、あろうことか彼女は自分と同じあの平凡な学校を受験した。


当然、やや危なっかしかった迅と違って難なく合格して見せた雛だったが、どうして嶺原を選んだしたのかということは未だに謎だった。


「迅君、クッキー焼いてきたんだよ。お昼に一緒に食べよ?」


「あー、そうだなー……」


クリーム色の髪をふわりと揺らしながら、今日も通学路を2人して歩く。

歩く度に揺れ動く髪をぼんやりと見つめて、迅は気のない返事を返した。


あの井出 宗次郎の一件以来、迅はどこかぼんやりと日常を過ごしていた。


あの一件で、彼が受けたショックは深い。それ以来、マスカレイドへのログインはおろか、マスクを手にすることすらどこか忌避するようになっていたが、それも当然の感情だろうか。それほどまでに、よく見知った者の死は、迅の心に大きな痛みを与えていたのだ。


ノルマももうどうでもいい、とまでは言わない。けれど少なくとも今だけは、忘れていたかった。母親に叱られた子供が、食事を拒否してまで接触を拒むのと同じことだ。生命を保つために必要なこと、それを欲する本能的な欲望さえも、激情は時に凌駕して見せる。人の意思というものは、ただの理性や本能の産物ではないのだ。


ここ数日、非日常との間を行き来していた迅は、ほぼ完全に日常の住人へ戻っていた。


「迅君、最近元気ないね。どしたの?」


「別に、そんなことねぇよ」


心配する雛の言葉にも、このようにぶっきらぼう極まりない台詞しか吐けない自分に迅は毒づく。いつもなら気の利いたことを言って頭でも撫でてやるところだが、そんな余裕すらなくしたか―――。


自分で考えている以上に深い精神的ダメージにまたも内心で毒づくと、迅はせめて雛の歩調に合わせる努力くらいはしようと努めながら、学校へ向かった。


校門を潜り、正面口の下駄箱で上履きに履き替える。いつもしている、当たり前の動作に何となく安心感を覚えていることに気づき、迅は嘆息する。


と、その時だ。


「どうした、雛?」


ふと、下駄箱を開けた雛の様子がどことなくおかしいことに気付いた迅がそう尋ねると、雛はびくりと身を震わせて、「ううん、何でもないよ」と言い残して逃げるように立ち去っていく。


何が何だか理解出来ず、呆けるしか出来ない迅はふと、眼下に一枚の便箋を見つけた。


「おお、あいつも隅に置けねぇな」


下駄箱を開ければラブレター、という通例はすっかり過去のものになってしまったとばかり思っていた迅だが、未だにこんな形で思いを伝える猛者がいたとは。


そんな妙なことに感心しつつ―――また、小さい頃からずっと一緒にいた可愛い幼なじみもついには恋文を貰うような年頃になったかと、まるで風呂を初めて拒否された父親のような、どことなく感慨深い一方でちょっぴり寂しい思いを味わいながら、迅は落ちていた便箋を拾った。


しかし―――。


「……何だこりゃ」


肝心のその中身は、迅の想像を遥かに超えて、根深い問題を孕んでいたのだった。







☆★☆★☆★☆







「「ストーカー!?」」


「馬鹿、声が大きいっつーの」


昼休み。迅は場所を移し、校庭の片隅にあるベンチへ絢香と零次を招集していた。


昼休みというのは得てして休息に使うべき時間であることは迅も理解しているが、こればかりは彼らに相談しないわけにもいかないと考えたのだ。


こんなだだっ広いグラウンドの隅の木陰などで聞き耳を立てている者などいないだろうが、開放的な空間であることも手伝ってか、迅は咄嗟に口元でしー、と指を立てた。


「……た、確かなのか?」


「ああ、これを見ろ」


零次の恐る恐るといった問いに頷くと、迅は紙切れを取り出してベンチの上に広げる。


それは、朝彼が拾った便箋だった。

ただのラブレターなら、少し寂しく思う程度で、迅もここまで事を荒立てるつもりもなかったろう。しかしながら、それは到底ラブレターと形容できる内容から逸脱した代物だったのだから、幼馴染としても黙って見逃してやるというわけにはいかなかった。


「えーと、何々……? 『君と僕が愛し合い、結ばれることは運命です』?……うはぁ、冒頭から気持ち悪くなる文句垂れ流しですか」


「弁当リバースするなよ、絢香?」


「解ってるってば。てか、アンタに言われなくてもこっから先読みたくないわ、これ……おぇ」


迅が広げた便箋を拾い上げて読み上げようとした絢香だったが、冒頭からして背筋に嫌なものが走ったのを感じたのか、それ以上口にすることなく便箋を静かに、嫌味なほど丁寧にベンチへ置いた。しかも最後には、合掌のおまけ付きである。


あの絢香にしてそう言わしめるのだから、相当の代物であろうことは理解出来たので、零次は手紙を見ることすらせず、自分のパンへ噛み付く。


「てか、あの子がストーカーなんてものに遭ってたなんてねぇ……知らなかったわ」


「羽鳥って、元々あまり厄介事は自分から人に話さないタイプだからな。我慢すれば大丈夫ー、なんて思ってたんじゃねえの?」


「あの馬鹿……俺にも相談しねぇなんて」


各々の朝食を口へ運びつつ、口々に雛の損気について語る。


確かに、雛は昔からいろいろと溜め込むタイプだったが、まさかストーカーなどという事態が起きてもそれが適用されようとは思いもしなかった。


まあ、本当に何かあったのならさすがの彼女も迅くらいには打ち明けるだろうから、実害はまだないのだろう。それが唯一の救いである。

けれど、だからといってこれからも何もないとは言えず、結局のところ早急に対策を立てねばならぬ現状に変わりはなかった。


「で、どうすんの?」


「それをお前達に相談しようと思ってさ。こうして来てもらったんだ」


「いや、それならまず警察だろ。なんで俺達なんだよ」


零次の言うことは正論だった。が、迅はしれっとした顔で言い放つ。


「警察なんかあてになるかよ。俺達の手で、犯人を捕まえるんだ」


「……言うと思った。けど、そうは言ってもねぇ。こう手掛かりがないんじゃ、始まらないでしょ」


嘆息しながらの絢香が指摘するが、内容は的を射たものであると言えよう。

迅達が現在持っている情報は、精々ストーカー被害の証拠品となるこの紙切れ1枚くらいのもの。犯人に繋がる証拠には、未だ何1つ出会えていない。


けれど、手掛かりがなければ探せばいい。既に迅の中では、犯人を絶対に逮捕するという決意は固まっている。その程度で諦めるつもりはなかった。


「……おい、2人共。今夜、空いてるか?」


「は?」


「ああ、まあ。一応空いてるっちゃ空いてるけど……って、アンタまさか」


唐突な問いに、思い至ることがあったのか露骨に嫌な顔をする零次と絢香。

その2人の視線の先で決意の表情を浮かべている迅を見て、その考えが的中したことを悟って、頭を抱えた。


「……張り込むぞ」







☆★☆★☆★☆







「……それで。どうして私まで来なければならないのかしら?」


すっかり日も暮れ、夜の帳が降りた町。


騒がしく賑やかなネオンの光が満たしている街中から離れた住宅街も、全く光がないわけではなく、街頭や家屋の明かり、月の光など、昼には目立たなかった様々な〝光〟で満ちていた。


そんな光のいずれも届かぬ物陰に、一行の姿はあった。その中の1人―――この中に混ざるには少々違和感のあるクールビューティーガール、小波鈴奈が、隣で羽鳥邸の様子を伺う迅へ問う。


ちなみに他の2人は、別の場所で張り込んでいる真っ最中である。


「そりゃお前、アレに関係することかもしれないからだよ」


「……ストーカー、と聞いているけれど」


「これ」


そう言って迅が差し出したのは、またもや昼間に零次達にも見せたあの便箋。


内容に似つかわしくない、可愛らしい花柄の便箋に目を走らせる度に不快気に眉を顰める鈴奈に内心で戦々恐々としながらも、その中に書かれているであろうとある一説を声に出した。


「ここ。熊のぬいぐるみって書いてあるだろ?」


「ええ。それが?」


「確かに、雛の部屋には熊のぬいぐるみはある。けど、確か置いてあった位置は窓から見えるような場所じゃないし、盗撮写真に写ったとは考えづらい。……じゃあ、犯人はどうしてそれを知ってるんだ?」


家には、雛とはうって代わってしっかり者の姉、風華もいる。それにいくら雛が天然娘といっても、見るからに怪しげな男を部屋に上げたりはしないだろう。


では、何故その事実を知っているのか。無論、彼女と親しい間柄の人間や、直接、或いは間接的にその事実を聞いていた人間の犯行という可能性も捨てられはしないが、或いは―――。


「マスカレイドの仮想空間にある彼女の家へ侵入して、情報を得た……?」


「可能性はあるだろ?」


「……なるほどね。断定は出来ないけれど、確かにその線もなくはない、か。けれど、ここで見張っていても、ストーカーがもし本当に仮想空間の彼女の部屋へ侵入したとしたなら、現実のこの部屋へ来るかしら?」


「来る……と、思う」


「その根拠は?」


「ストーカーの心理なんて知らないし、知りたくもないけどな。ただ想像してみると、仮想空間の誰もいない、生活感のない部屋に入ったところでそれに意味なんてあるのか? そういう奴らは、やっぱり雛本人が好きでストーカーなんかやってるわけだから、あいつの〝存在している〟現実世界でのアプローチは絶対あると思わないか?」


いかに精巧に作られた贋作であろうと、現物のブランドの使い心地、価値を知っている人間が掴まされれば誰でも嘆くだろう。結局のところ、本物の味を知っている人間は、偽物では満足出来ないのだ。


マスカレイドの仮想空間も同じこと。どれだけリアルでも、そこには雛が生活しているという生活感はおろか、少しの温もりも存在しない。大きな事件が起きた際、報道番組が事件の起きた部屋を再現したミニチュアを作ることがあるが、仮想空間は、それをよりリアルにしただけのものと喩えることも出来る。


ならばストーカーも、仮想空間の部屋を物色するだけでは飽き足らず、より本物を感じ取りたいと願って姿を現すに違いない。そう、迅は考えていたのである。


「何もないならそれでいい。けど、もし本当にストーカー被害があるなら……そしてそれがマスカレイド関係者の仕業なら、俺は止めたい」


「また情で動く。嫌いではないけれど、そういうのは早死にするわよ」


しっかりと釘を刺すのを忘れない鈴奈の言いようにむっとしながらも、言い返すようなことはせず、迅は意識を羽鳥邸へ向けた。


しかしそんな迅へ、珍しくも今度は鈴奈の方から問いが飛んだ。


「それで……これは私の個人的な興味なのだけど」


「何だよ」


「あんなことがあって、まだたったの数日よ。にも関わらず、マスカレイドの陰がちらつくこの一件に首を突っ込む気になった、その心境の変化は何なのかしら?」


マスカレイドは迅にとって、親しい人間を死に追いやった忌まわしき死のゲーム。このストーカー事件に対してそこまで推測出来ているのであれば、そのマスカレイドが関わっている可能性のあるにも関わらず首を突っ込む彼の心境が、鈴奈には解らなかった。


「被害に遭っているのが、幼なじみの子だからかしら?」


「……そうかもな。けど、それだけじゃないかもしれない」


確かに雛のことは、幼馴染みとして大事に思っている。けれど、それだけではない気がした。


もし犯人がマスカレイドの関係者であれば、話をして―――可能なら、その呪縛から解放したい。心の内には、そんな思いも確かにあったのである。


「……相手は犯罪者よ」


けれど、彼女には見抜かれていた。


甘い考えも、何もかも。


「……解ってるさ」


もう、あんなゲームにこれ以上誰かが殺されるのは見たくない。だから、たとえ相手が犯罪者なのだとしても、ゲームに殺される前に助けたいと思った。


ならいいわ、と会話を切って、鈴奈は目の前の羽鳥邸へその視線を移した。


今頃、夕食とシャワーを終えて、居間でテレビでも見ている頃だろうか。電灯の点いた室内からは滾滾と光が漏れていて、それと共に微かに賑やかな声が聞こえてくる。


結局その後数時間に渡って張り込んだにも関わらず、ストーカーはその姿を見せることはなかった。







☆★☆★☆★☆







「ふわ~あ……」


翌朝。


一時限目の授業を受けながら、迅は口元を巧妙に隠しながら大欠伸をした。


結局あの後、待てど暮らせどストーカーらしき人影を目にすることは叶わなかった。

日が悪かったのかもしれないということで昨夜は解散となったが、その後どうしても気になった迅は、自宅のパソコンから仮想世界へアクセスし、雛の家へ入ってみた。


―――結論から言えば、彼の考えは当たっていた。

仮想空間の雛の家に、誰かが入り込んだような痕跡を発見したのだ。


これで、犯人がマスカレイド関係者だということはほぼ確定したようなものだろう。


(どうすればいい……)


再び湧き上がってきそうな欠伸を噛み殺して、迅はストーカーの犯人について想う。


まだ初心者である迅にとっては、初めてマスカレイドを受け入れた人間との邂逅だ。それが本人が望んだことか、或いは諦観に因るものか、まだ推測すら叶わないが、いずれにせよマスカレイドの秘匿性を利用して、雛にストーカーを致したことは事実。


話し合い、その命を縛るマスカレイドという名の鎖を緩めたとして、自分は犯人を許せるだろうか―――。


「おい羽鳥、寝るな。ここはベッドじゃないぞ」


「うにゅう~~……もう食べられないれすぅ……」


「なんつーテンプレな寝言を……」


迅の悩みなど露知らず、机に突っ伏して気持ち良さそうに眠る雛を、席と席の間を歩いて生徒の様子を見回っていた国語教師が注意する声と、夢の世界にダイブしたまま返って来ない雛の、如何にもテンプレートどおりな寝言にクラスのあちこちから上がる笑い声で、迅は我に返って、雛の方を一瞥した。


(とりあえず、あいつだけは守ってやらねぇとな……)


迅自身、全てを救ってやろうなんて無茶なことを考えちゃいない。そんなことが不可能な、ことくらい解っているつもりだ。


ストーカーのこともある。けれど今は、雛をストーカーの恐怖から救ってやることが重要だと判断した。


窓の外の春空は、憎らしいまでに爽やかな青を湛えていた。







☆★☆★☆★☆







「風上」


「はい?」


一日の授業が全て終了し、蜘蛛の子を散らすように人という人が去っていく教室の中で、最後の授業を担当していた化学教師、松村 理香の凛とした声が、同じく帰宅しようとしていた迅を呼び止めた。


胸元を着崩したスーツの上に白衣を来た出で立ちは、スタイルのいい身体つきと相まって妖艶。それでいて、眼鏡の奥の鋭い眼差しは見る者を威圧する。


美しくもきつそうに見える外見に反して彼女自身の性格は良く言えば気さく、悪く言えば男勝りで、そんな女性にしてはさっぱりとした性格からか、良くも悪くも学校内では有名な御人であった。


その理香があろうことか、自分に話しかけてきた。そんな状況になれば、他の生徒なら何か落ち度があっただろうかと今日1日の己の行動を思い起こすところだろう。ちょうど今、迅の隣で何とも言えない表情を浮かべたまま固まっている零次がいい例である。


けれど、迅はそんな彼女の言葉にも臆することなく受け答えた。それは別に迅が特別図太いというわけではない。とある事情から、彼と理香は生徒と教師の垣根なく、話し合える仲であった。

無論、迅の友人である零次はその事情を知っていたが、それでも彼女が近づいてくれば思わず身構えてしまうのは仕方のないことなのかもしれない。


そんな零次には構いもせず、理香は真っ直ぐに迅のところへ歩み寄ってきた。


「お前、大丈夫か? ここのところ、授業中にも覇気がないようだったが」


「あー……やっぱり解っちゃいますかね?」


「当然だ、私はお前の教師だからな」


いい意味でも悪い意味でも、理香には遠慮というものがない。悪い意味を除きいい意味に限定して語れば、それこそが彼女が面倒見がいいということに繋がっているのだ。下手をすれば、どこか気の抜けた中年男性である迅のクラスの担任教師よりも、一番生徒達のことを知り尽くしているのは、あるいは彼女なのかもしれない。

そんな彼女には、やはりというか、迅の様子がいつもと違うことも見破られてしまったらしい。


マスカレイドと雛のストーカーに関わることは口外するつもりはないため、迅は適当に誤魔化すことにした。


「ほら、最近暑いでしょ? それで最終講義ともなると、どうにも……」


「何だ、だらしのない。お前の成績なら……まあ、試験は問題ないだろうが、気を抜くと足元を掬われるぞ」


やれやれ、と溜め息をつく理香には、特に不審に思った様子もない。


なんとか誤魔化せたかと内心安堵しつつ、すみません、と迅は苦笑した。


「しかし、お前はともかく問題は羽鳥だな。あそこまで堂々と寝られると、呆れを通り越してその図太さに敬意を表したくなってくるよ」


「あはは……我が幼馴染ながら、お恥ずかしい限りです」


結局あの国語の時間だけでなく、先程終わったばかりの化学の授業でも、雛は心地よさそうに夢の世界へ旅立ったままだった。

授業終了と同時に絢香が起こさなかったら、授業を終わったことにも気付かずに1人眠りこけていた可能性すらあったのだ。


無論、普段の彼女であれば眠そうにしながらもちゃんと起きているから、その睡魔の原因がストーカーから受ける精神的ダメージから来る寝不足に違いないことは、迅にも、また少し離れて話を聞いている零次にも容易に推測出来たことであった。


「今度俺からも、一言言っておきますよ」


「そうしてくれると助かる。彼女のことだから成績は問題ないのだろうとは思うが、他の生徒への影響もあるからな」


「解りました。じゃあ、俺達はこれで」


「ああ、引き止めてすまなかったな」


ひらひらと手を振る理香へ一礼して、もうすっかり人影のなくなった教室を、迅と零次は2人して後にした。


やっと終わった、とでも言いたげな微妙な表情をしながら、教室を出るなり零次は大きく息をつく。


「あー、何度見てもあの先生は苦手だよ俺は……」


「お前が好きな美人だろ。零次、出来る女は守備範囲外だったっけ?」


「いや、そういうわけじゃねえんだけど……なんかこう、もっとお淑やかな方がいいよな。大和撫子的な、さ。そういう意味じゃ、お前んとこの母ちゃんなんかまさにストライクなんだが」


「笑えない冗談言うなっつの……」


確かに自分の母は年齢に反して若すぎる外見と美貌を維持していると、迅は息子ながらに自負してはいるが、綺麗だと評されるくらいならまだしも、友人に恋愛感情など持たれては洒落にならない。


冗談だと解っていても、引かざるを得なかった。


しかしそんな迅の胸中にも構わぬこの友人は、そんなことはどうでもいいとばかりに話題を変える。


「俺はそれより、羽鳥の方が気になるけどな。どうするんだ、迅?」


「昨日張り込んでいても、犯人は現場に現れなかった。日が悪かったのかもしれないけど、さすがに毎晩皆で見張るわけにもいかないだろ」


「てことは、当番制だな。よし、解った! じゃあ今夜は、この零次様が引き受けてやるぜ。ちょうど今夜は、見たいアニメもなくて暇だったからな」


「そうか? じゃあ、お言葉に甘えさせてもらおうかね」


「その代わり、今度何か奢れよ?」


「はいはい、無事に犯人が捕まったらなー」


いつもどおり馬鹿に騒ぎながら、途中寄り道しながら家路につく。


そんな変わらぬ〝いつもどおり〟に、迅は心の内で感謝しつつ、暫し零次との戯れに心を癒すのだった。







☆★☆★☆★☆







一方、自分のために迅達が奔走していることなど夢にも思っていない雛は、今日も近所の学習塾へ通っていた。


それほど建物は大きくはないが、教え方が丁寧な教師が多く、成績のいい生徒を幾人か輩出しているとあって、入りたいと願う生徒は数多くいるという。


やや薄汚れた階段を上がった上にある教室のドアを開け、雛は自分の席に腰掛ける。

外観のイメージに違わず、それほど室内は広くない。けれどそれに反比例するように生徒数は多く、必然的に隣同士の席との感覚は近くなっていた。


「や、やあ。羽鳥さん」


塾で配られたテキストを机の上に広げていた雛へ、話しかけてきた人物がいた。雛の右隣の席の生徒で、名は田島 (あずま)


どれほど食料を胃に詰め込んだらそうなるのかという程に腹を膨れ上がらせた巨漢で、脂ぎった顔でニタリとした笑みを雛へ向けていた。


「こんにちは、田島君。今日も早いね~」


あまり関わり合いになりたくないという人も多いかもしれない、そんな出で立ちをした田島からアプローチを受けても、雛は全く動じることなく笑顔でそう返事をする。この辺りはさすが天然少女だという他ないが、彼女に笑いかけられて嬉しそうに気色悪く笑う田島を、快く思っていない人間も少なからずいた。


その内の1人は、雛を挟んで反対側、雛の左側の席にいる。


「やめてくれないか、田島君。君のせいで、羽鳥さんが汚れるんだ」


「う………」


雛の左側で、雛と同じくテキストを鞄から出しながらそう田島を睨みつけたのは、田島とは正反対のひょろひょろとした細身の男だった。田島とは逆に、まともなものを食べているのだろうかと心配になる程の細さである。


「千堂君もこんにちはー♪」


「あ……こ、こんにちは……」


一方、どうして彼が怒っていたのか理解が出来ない雛は一瞬首を傾げたが、すぐに笑顔になって彼に会釈をする。


そんな彼女の仕草に顔を赤くしながら、変わらず田島の行動1つ1つに目を光らせている彼の名は、千堂 要。雛、そして迅とは中学時代の同級生であり、高校へ進学するにあたり離れ離れになってからも、雛とはここで勉学を共にしていた。


ちなみに彼の通う高校とは、例の県内トップ校である。


「遠いのに、毎日大変だよね~」


「あはは、そうだね。けど、やっぱりここが一番解りやすいし……」


「うんうん、私もそう思う! いろんなとこ行ってみたんだけど、やっぱり私もここがいいかなって」


もはや田島のことなど眼中にも入っていないのか、息を荒らげながらじっと熱の篭った視線で見つめる視線には構いもせずに、雛は千堂との会話に華を咲かせていた。


その後、時間になるとすぐに教師が来て、授業が始まった。この塾の授業は多対1方式で行われており、それぞれ教員が個別に課した課題をこなした生徒から帰ることが出来るシステムになっている。つまり、優秀な者ほど早く帰ることが出来、いつまでも飲み込めない生徒はいつまで経っても帰ることが出来ないのだ。


他の生徒が問題と睨めっこしながらうんうんと唸っている横をすり抜け、ひと足早く教師のOKを貰った雛は、彼女よりも更に早く課題を終えて早くも帰宅準備に入っていた千堂に笑いかけた。


「千堂君、お疲れ様。今日は先越されちゃったなぁ」


「何言ってるのさ、君だって早かったじゃないか。今日のは難しかったし、皆時間かかりそうだって思ってたからね」


「えへへ。……あ、そうそう。クッキー作ったんだけど、余っちゃったんだ。よかったら食べる?」


「ほ、本当かい!?」


そこが他の生徒がまだ問題に取り組んでいる真っ最中である教室であることも忘れて思わず叫んでしまう千堂に、教卓でパソコンのキーボードを叩いていた教師から「五月蝿い!」と怒号が飛ぶ。


それにすみませんと頭を下げる彼へ、驚いた雛は小声で彼の言葉へ答えた。


「う、うん。まあ、昼間迅君と一緒に食べちゃって、残ってるっていってもそんなにいっぱいはないんだけどね」


「そうか……相変わらず仲がいいんだね、風上君とは」


「うん。とーーーっても大事な、幼馴染だよ♪」


ニッコリと笑う雛へ、千堂もまた楽しそうに笑う。


「そうか。……ありがとう、帰って家で味わわせて貰うよ」


「うん。よかったら今度、感想聞かせてね。そしたら、今度は千堂君の分も作ってくるから」


「ああ、楽しみにしてるよ」


小声でありながら、2人の話し声は楽しげに弾んでいた。雛の声音にも、ストーカー被害に遭っていると感じさせる陰は少しも見受けられない。本当に、楽しそうな笑顔に見えた。


笑いながら出口のドアに向かっていく2人の後ろ姿を、まだ課題を終えていない田島が終始見つめていたことに、2人は最後まで気付かなかった。







☆★☆★☆★☆







迅が家へ帰ったのは、まだ日が落ちきっていない夕方だった。


茜色に染まる空と、それを映し出して輝く川の水面(みなも)を眺めながら歩けば、彼の住む住宅街の入り口が見えてくる。


そこからさほど奥へも行かないところに、彼の家はあった。


(くだん)の雛の家を通り過ぎ、もはや飽きる程見た自分の家の門を潜り、玄関の戸を開ける。ここまでは、これまで幾度となく繰り返してきた動作であり、迅自身気にも留めることはない。


雛の家の前を通る時、さり気なく周囲に目をやったりもしてみたが、怪しい人影を目にすることはなかった。


さて。確かにここまでは日常的な光景であったが、この日に限って、ここからは幾分違ったモノが目の前に飛び込んできた。


とはいっても、目の前に広がるそこは紛れも無く風上家の玄関であるから、特別何かが変わっているわけではない。


変わっているのは、足元。


既に帰っていたらしい妹と母の靴が整然と置かれている隣に、丁寧に揃えられた紅い靴が置かれているのに気づいたのだ。


「……誰か来てるのか?」


見慣れない靴は妹の凛のサイズには合わないし、母である咲夜の靴にしては小さすぎる気もする。


一体誰のものだろう、近所のママ友達でも来ているのだろうか。そんなふうに思案していると、ちょうどいいとこにリビングから凛が出てくるのが見えた。


「あっ……」


「おう、凛。誰か来てるのか?」


凛もどうやら迅の存在に気付いたようで、ずんずんと歩いてきて靴を脱いだばかりの迅の腕をがっと掴み、何なんだと抗議する彼を無視して小声でそっと耳打ちする。


「お客さん」


「お客さん?」


「そ。お兄ちゃんに」


「俺に? 一体誰が……」


今日は、誰とも約束はしていなかったはずだが。零次は張り込みの準備とかで早々に家へ帰ったし、絢香や雛も思い当たる節はない。


そう思い返しながら、迅は戸口からそっとリビングの中の様子を伺い―――。


「近所の方にいただいたお煎餅なんだけど……お口に合うかしら?」


「いえ、お気遣いなく」


―――瞬間、音も無く一瞬にして顔を引っ込めた。


母と仲良く談笑している、黒髪の少女は間違いなく〝彼女〟だ。


もう、何故自分の家を知っているのだとかいう疑問は湧いてくるわ、妹は妹で先程から隣で先程から彼女は誰だ、どういう関係だ、と何故か必死に訊ねてくるわで訳が解らない。誰かに訊ねたいのはこちらの方だ、と心の内で叫びを上げ、迅は深く嘆息した。


家に帰るなり遭遇した混沌とした状況に思わず頭を抱えたくなりながら、迅は意を決してリビングに足を踏み入れる。


「……おい」


「あら、お帰りなさい。遅かったわね」


さり気なく批難を織り交ぜたつもりで放ったドスの効いた第一声であったが、どうやらこの少女―――小波 鈴奈には通用しなかったらしい。涼しい顔で、咲夜に出されたらしい紅茶を音も立てずに啜っている。


ここは欧米ではないのだから、そこまで音を気にする必要もないだろうに。形から入るタイプなのか、それともきちんとした作法を習ったことでもあるのか。


そんな半ばどうでもいいことが一瞬頭の片隅に浮かんだが、すぐにそれを棄却して、鈴奈と対面になるようにどっかりと椅子に腰を下ろした迅は、本題へと入った。


「どうしてここにいるんだよ」


「貴方に少しばかり用があったのよ。……ここでは話しづらいでしょうし、上へ行きましょうか」


「お前が言うな、お前が」


おそらくは迅の部屋を指しているのであろう、上を向いた彼女の細く真っ白な人差し指を呆れた眼差しで見つめつつ、迅は席を立った。


続いて、(はな)からそのつもりであった鈴奈が続き、2人は階段を上がって迅の部屋へと向かう。


「ここで話しづらいことって、何かしらっ」


「お、お兄ちゃんまさか……!? きゃーっ! ついにお兄ちゃんも、大人の階段を登り始めたんだねっ!」


―――残された家族2人が、そんな勘違いも甚だしいガールズトークを展開しているなどとは、全く知る由もなく。







☆★☆★☆★☆







「ふーん……案外片付いてるのね」


「悪かったな、殺風景な部屋で」


部屋に入るなりきょろきょろと品定めするように室内を見渡す鈴奈の方を見向きもせずに、迅は溜め息をついた。


確かに迅の部屋は男の1人部屋にしては急な客を迎えても差し支えない程度に片付いてはいるが、何となく彼女に言われると嫌味に聞こえてしまうのは、迅の被害妄想だろうか。


「素直に感心しているの。評価としてとっておきなさい」


「へいへい……」


勧めてもいないのにふかふかのベッドの上に腰を降ろす鈴奈に再び嘆息しつつ、迅は机の椅子に腰を下ろした。


「さてと、じゃあその話とやらを早速聞かせてもらえないか?」


「……この前の井出 宗次郎の事件の時、校庭に浮かび上がっていた魔法陣、覚えているかしら?」


井出の名を出された時、僅かに迅の肩が震えたのを鈴奈は見逃さなかった。

が、迅はそれを表に出すことなくぐっと拳を握り締めて堪えると、静かに頷く。


「ああ、まあ……」


「今日、マスカレイドへログインして調べてみたのだけれど。あの魔法陣とほぼ同じタイプの陣が、〝仮想空間の羽鳥 雛の部屋で〟発見されたわ」


「……なんだって?」


聞捨てならない言葉が耳に入り、迅は怪訝に眉を顰めた。


雛のストーカーとあの時の魔法陣が、今回の件に関連しているということか、或いは偶然か。


いずれにせよ、まだはっきりとしたことは何1つ解らない。答はまだ全て、広大な仮想空間に隠されたままであり、それは到底、ここで考えていても導き出せるものではない。


「……どうするの?」


「どうするもこうするも、調べるしかないだろ」


「いいの? それは即ち、〝それ〟を使うということでしょう? 貴方にその覚悟はあるのかしら」


鈴奈が指さした先、机の上に無造作に置かれた真っ赤な仮面を見て、迅の表情が強ばる。


やはり、彼の中からまだあの恐怖に似た絶望は抜けきっていなかった。

当然だ。これは人の生き死にに関わる問題なのだから。そう簡単に割り切れたら、それはよほどの戦闘狂や欲望に忠実な人間ということになる。


少なくとも迅には、そういった人間であるという自覚はなかった。


けれど、一方で己の状況も理解している迅は、いずれは向き合わねばならぬ問題であることは自覚していた。


ノルマを果たさなければ、自分は消える。井出のように、その存在自体をなかったことにされるのだ。


ならば、躊躇っていられる時間はそう長くはない。


「……正直言うと、まだ怖い。けど、行かなきゃ事件は解決の道は見えて来ないから。だから、俺は行く」


言いながら、迅はマスクを手に取った。


あの時以来1度も触れたこともなく無造作に置かれていたそれは、光沢を一切失わぬ美しく情熱的な紅の色をしている。


パソコンを起動させ、憮然と様子を伺う鈴奈の前で、迅は静かにマスクを画面に翳した。幾何学模様が彼の身体の周囲を渦巻き、やがて迅の身体を包み込んで消える。


まるで、マスクに己というものを捕らえられたように。


「……やれやれね」


1人部屋に残された鈴奈は、深く深く溜め息をつきながらマスクを取り出した。


長く使い続けたものであるにも関わらず、藤色の仮面の表面は傷1つなく、迅のレッドマスクと比べても遜色のない光沢を放っている。

彼女の心はもう幾度となく傷ついたというのに、それを齎した仮面には傷の1つもない矛盾。マスカレイドが壊すのは、身体だけではない。それよりも先に、心が砕ける。


「彼は、どこまで耐えられるかしらね……」


誰もいない部屋で1人呟いた鈴奈は、藤色のマスクを画面へ翳した。


迅の時と全く同じ幾何学模様達が少女の身体を包み、その長く艶やかな黒髪の1本すら残さずに―――その姿を消した。


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