第6話 【消失】
校庭の外の闇夜が、少しずつ校庭の白昼のような明るさを侵食してくるかのような錯覚すら感じられた。夜の学校というのは、総じて怪談にも使われる程の不気味さを兼ね備えているものだが、今は決してそれだけではなく、恐怖以外の重苦しい雰囲気を体現しているように見える。黒いペンキを塗りたくった上に、白い絵の具で描かれたような校舎は、まさしく重苦しい〝黒〟が基調であるようにすら思えた。
それほどまでに緊迫したものを感じているからか、流れ落ちる冷や汗に構う余裕すらない迅は、未だ冷たく神秘的に光る銃口をこちらへ向けたままの鈴奈へ向けて、重く閉ざされていた口を開いた。
「……どうしても、戦うって言うのか?」
「貴方がその人を信じるかどうかは、貴方の勝手よ。でも、私は違う。倒さなければ、私が消されるの」
「風上君、どきたまえ。君には関係のない話だ」
迅にしてみれば、形や抱く感情は違えど、2人はいずれも自身を導いてくれた存在には違いない。
それに元来、迅は人の命をもって事を終わらせるようなやり方をよしとしない善良な人間だ。鈴奈と井出、どちらも傷つけたくないに決まっている。
けれど。目の前で2人は、既に戦うことを止められずにいる。本当は解り合えるはずの2人が、殺し合おうとしている。
そんな状況に、彼が我慢できるはずがあろうか。鈴奈のように破壊や殺戮に心を壊してまで目的を遂行することを選んだわけでも、井出のように、差し迫った死に形振り構うことすら出来なくなったわけでもない。
彼は未だ、日常にも非日常にもなりきれていないのだから。
「……解った」
俯いて、低い声音で言う迅に、鈴奈は深く溜め息をついた。
鈴奈としても、迅のような人間を撃ち殺すには抵抗があるのだ。ましてや彼は、彼女と多少なりとも接点を持ってしまった。
この街で出会った、最初のマスカレイド関係者。ただでさえ、常人には到底信じられないような非日常の世界だ。半分その中で生きているような人生を送っている鈴奈にとって、関係者との―――それも、彼のような良識をもったビギナープレイヤーを発見できたことは、大きなプラス要因であった。
だから、殺してしまうことはなるべくなら避けたい。けれどもし、彼が目的を果たすための障害になるなら―――その時は、たとえ彼を討ってでも進むつもりだった。
それは、とても悲しいことだ。だから、「それをしないで済む、漸く分かってくれたか」と、安堵の溜め息をついた鈴奈は考えもしなかったろう。
次の瞬間、この少年がとった行動を。
「なら、俺は益々ここを退くわけにはいかないな」
「……は?」
「何……!?」
迅は退かなかった。先程と同じように、鈴奈と井出の間に立って行く手を阻んでいる。
先程と違うのは、若干萎縮したような低姿勢が、堂々とした仁王立ちに変わったこと。
そして、井出を庇うように鈴奈と対峙していた身体を、暗闇に閉ざされた校舎の側へと向けたことだ。
けれど当然、鈴奈にとっても井出にとっても、彼の姿勢の変化などどうでもいいことだった。
思わぬ対応から我に返ると、一斉にその中心にいる少年へ叫びが飛ぶ。
「あ……貴方、正気!?」
「何を言ってるんだ、風上君!」
その場の誰もが、迅の言うことを非常識と考えた。
実際に、迅の側に置かれたファクターには不利な条件が多過ぎる。
例えば、井出の存在。親しい人間と解った以上、迅が本気で拳を向けられるような相手とは言い難い。
そして、鈴奈。親しい人間以前に、圧倒的実力を備えるベテラン。たとえ井出と2人がかりでも勝つ可能性は限りなく低かったというのに、その井出を敵に回してまで勝てる可能性は万一にもなかった。
けれど、迅は自分の言い出したことを非常識とは考えていない。
彼の表情には、緊張はあっても不安はない。まるで、自分は何も間違ったことをしていないと言外に叫んでいるかのような、曇りのない表情である。
「俺は正気だぜ、鈴奈。アンタ達2人共退かないって言うなら、俺は2人共止めるだけだ」
「な、何を馬鹿な……その意味が解っているのか、風上君!?」
「解ってますよ。確かに2人と戦ったら、俺に勝ち目はないでしょう」
「だったら!」
迅ははっきりとした口調で自身の決意を述べたが、それでも井出は納得しなかった。彼にしてみれば、迅のことを巻き込みたくなかったからこそ、あのファミレスで突き放したはずだったのだ。
しかしそれでも、来ないで欲しいと願っていた教え子は、こんな戦場にのこのこ出向いてきてしまった。なんとかして離したいと考えているのに、彼は引かない。その現状に、井出は焦れた。
「でも、俺は戦うなんて言ってませんよ? 先生とも……鈴奈ともね」
「は?」
「いや、しかし今……」
しれっと訳の解らぬことを言い出した彼の言い様に、井出だけでなく鈴奈も怪訝そうな表情のまま声を上げて小首を傾げる。
確かに今、彼は言ったのだ。「自分達2人を止める」と。
「お前も言っただろ、無理に戦う必要なんてないって。俺はそれを実践しているだけだ」
「それは……。でも、訳が解らないわ。そもそも、彼は私を襲って……!」
「それは、先生がノルマに切羽詰って焦っていたからだろ。本当なら、先生は人なんて襲いたくないんだ。ノルマの問題を解決してしまえば、先生はランブルを狩るだけでよくなるんだよ!」
「そう、上手くいくだろうか……」
井出のノルマの問題は、確かにそう簡単に片付く問題ではない。もう期限は迫っている上に、本来ならばプレイヤーで賄わねばならない程戦績も不足している。
この世界で戦績を稼ぐ方法は、プレイヤーかランブルを井出が倒すことだが、プレイヤーの可能性を廃するのなら、手段は自ずとランブル狩りに限定される。けれどランブルはプレイヤーに比べ、得られる戦績は微々たるものだ。だからこそ井出は鈴奈へ戦いを挑み、先程の緊迫した状況を生んだというのに―――。
解っているのか、という視線を浴びつつ、しかし迅には策があった。
「お前、忘れてないか。〝これ〟を」
「これ、って……」
迅が指さした先を、鈴奈もまた目で追った。
彼の人差し指が指し示していたもの。それは、校庭の地面だった。
それも、ただの地面ではない。先程まで鈴奈が調べていた、謎の陣である。
それを見て、鈴奈もまた合点がいった。
「まさか……今のランブル大量発生を利用して……!?」
「そう。今この世界に出るランブルの数は異常なんだろ? 塵も積もれば山となる、だ。先生を助けながら、その異常な数のランブルを狩っていけばいい。そのついでに調査も行えば、一石二鳥だ」
普通なら、ランブルの大量発生というのはゲーム世界のバランスを崩しかねない異常事態だろう。力の使い方も解らぬ初心者にとっては、下級ランブルですらも、数が揃えば十分な脅威となる。それは、初めて迅がマスクを着けて戦ったあの時のことを考えれば、既に解りきったことだ。同じく初心者である井出がこれまでランブルに倒されることなく生き延びることが出来たのも、運と、ログインの頻度が極端に少なかったことに起因しているのは間違いない。尤もそれが今自身の首を絞めることになってしまっているのだから、彼の行動の是非は判断しかねるが。
兎も角、迅の案はそれを逆手にとったものだった。1体では得られる戦績も少ないランブル。しかし、彼の言う〝塵も積もれば山となる〟とはよく言ったもので、1つ1つは小さな積み立てでも、数をこなせばそれだけ大きな成果に繋がる。ランブルが大量発生している今はまさに、それを迅速にこなす好機に他ならなかった。
「なるほど。それなら確かに、短い期間でもぎりぎりノルマを達成することも不可能じゃないかもしれないわね……全く、貴方らしい発想だわ」
「それは嫌味ととっていいのか、褒め言葉ととっていいのか俺には解らないんだが?」
「好きに解釈なさい」
溜め息をつきながらも、鈴奈は一応は迅の考えに賛同する。
この異常事態を逆手に取るというのは、なかなかどうして、大胆な発想だ。これまでの経験から鈴奈は、ノルマが差し迫った人間は、他プレイヤーでしか足りない戦績を精算出来ないという固定観念に囚われていた。
けれど、迅は違う。
彼は初心者なのだ。これまでの経験など端から持たない彼だからこそ、現在の状況を客観的に見て判断し、立案し得た策であると言えた。
「……君達、協力してくれるのか?」
と、そんな声を上げたのは、2人の様子を呆気に取られた様子で見ていた。
信じられないのは当然だろう。あれほど関わるなと言った少年はそれでも退かず、先程まで敵意を剥き出しにしていたはずの少女までもがいつの間にかその剣呑とした刺すような気配を引っ込めている。まるで、新手のドッキリに遭った直後のような妙な空虚感―――自分だけが蚊帳の外に置かれていたかのような感覚を受けて、井出は立ち尽くした。
「そうです。一緒に頑張りましょうよ、先生!」
「仕方ないわね。解りました、今回だけは協力します」
「鈴奈……」
実のところ、鈴奈がこれに乗ってくれるかが一番の賭けだった。彼女が申し出を拒んで宝石銃の引き金を引いていれば、その時点で全てがおじゃんとなっていたのだから。
だから、渋々といった様子ながらも彼女が肯定してくれたことに、迅は心から安堵した。
「……さて。解れはじめた空気に水を差すようで申し訳ないのだけれど」
「あ? 何だよ?」
早くも、どうすれば井出のために効率よくランブルを狩ることが出来るかに思考を移していた迅へ、鈴奈が腕を組みながら落ち着いた口調でそう言ったことに、迅は訊き返しつつ鈴奈の方へ顔を向けた。
そんな彼女の顔は、迅の方へは向いていなかった。迅でもなく、その傍にいる井出でもない―――どこか別の、具体的には彼らの背後を見ているように見える。
「どうやら、お客さんのようよ?」
「客?……って、うおわっ!?」
鈴奈の言葉に周囲を見回すことで、迅は漸く自らに近付きつつあった無数の気配に気付いた。
―――見渡す限りの異形、異形。
悪魔に蟲に、魔獣に―――ありとあらゆる異形達が、3人を包囲している。
「こいつら……一体、どこから沸いて来た!?」
目の前のランブルの群れを怯えたように見据え、棍を構える井出のへっぴり腰を、「年長の癖に」と笑うことは迅には出来なかった。テレビゲームなどで、所謂モンスターと呼ばれている存在を見慣れているはずの迅ですら、未だ相対するには恐怖が伴うのだ。
未知の脅威を前に、井出が感じる恐怖は想像もつかなかった。
けれど、こうなってしまってはもはや戦うしか道はないだろう。蟻の這い出る隙もないほどに埋め尽くされたランブル達の包囲網に、一見穴は見受けられない。しかもその輪も、段々と狭まってきている。
翼を持つランブルが押し寄せ照明を叩き壊し、辺りを完全に闇が覆った。鈴奈がオーラで即席の明かりを作ったことで視界を失うことはなかったが、照らされきれていない異形達が蠢きながら徐々に近づいて来る様は、まるで月のない浜に押し寄せる波のように見えた。
「いつの間に……!?」
「やっぱり、この魔法陣……!」
3人は背中合わせに立ち、それぞれ異形と相対した。
鈴奈の点けた灯りとは別に、血の如く紅いルビーのような輝きを放ち続ける魔法陣を見、彼女が何事か口にしているのが聞こえたが、それを気にしている余裕は迅にはなかった。
鈴奈のオーラの青白さと、魔法陣の紅が、まるでこれから怪しげな儀式を執り行うかのような不気味なコントラストを醸しているのだ。その中で蠢く異形。気の小さい者であれば、逃げ出していてもおかしくない程のおぞましい光景であった。
「どうする、片っ端から殴り飛ばすか?」
「待って下さい。そんなことしたら、あっという間にあの波に飲み込まれますよ」
「じゃあどうすればっ!?」
棍を構えながら冗談混じりに言う井出を宥める鈴奈だが、確かにこう取り囲まれてしまっては、思うように動けないのもまた事実。
2人して、焦る頭でどうすればいいかと考えているところへ、迅が不敵に笑みを浮かべながら呟いた。
「……方法なら、あるぜ」
「……は?」
あまりにはっきりとした声音に、思わず鈴奈は間抜けな声を上げて訊き返す。迅がすかさず彼女へ考えついた作戦について説明するが、それを聞いた鈴奈は呆れたように頭に手を当てた。
「全く……いかにも貴方らしいというか、なんというか……」
「だが、確かに今はそれしかないだろう。我々の持つ手札の中では、最も確実な方法だ」
呆れる鈴奈に対し、井出は迅の案に妥協して、早くもおっかなびっくり構えを取った。それを見た鈴奈もまた、より一層深い溜め息をつきつつ、迅の立てた作戦に沿って準備に入る。
宝石銃の銃口の先に光が宿り、やがてバスケットボール程の大きさの青白い球体を象っていく。代わりに彼女が生んでいた青い光が消え去ったが、魔法陣の光のおかげで光源が消えることはなかった。
銃口の球体は、時を追うごとにさらに大きく肥大していく。
力を溜めている最中で、鈴奈は動けない。そこへ、蟲のような甲殻類のような、どちらともつかない1体のランブルが襲い掛かった。
けれど。どんなに硬い鋏を持っていようと、届かなければそれは意味を成さぬ醜い装飾に過ぎない。
「やらせるかよっ!」
瞬時に鈴奈とランブルの間に割り込んだ迅が、腰溜めに構えた拳を解き放った。
単純な右ストレート。けれど、マスクの力で強化された拳は異形の鋏を弾くには十分で、堅牢な手甲は迅の右手へ一切のダメージを残さない。
返す動きで放たれた裏拳に軟らかい部分を打ち抜かれたランブルは、力無く倒れた後、光の粒子と化した。
「後少し! 持ちこたえて!」
「おうよっ!」
見れば、蟲の後にも多くの異形達が我先にと迫り来るのが見えた。その蠢きようたるや、先程の波という表現が似つかわしくないまでに激しく変化していた。
もはや波など生温い。激流に近かった。
「ははっ……より取り見取りだな、チクショーッ!」
自らを鼓舞するように叫びを上げながら、迅は跳んだ。
手甲を着けた右手が唸る。鈴奈の銃に宿るものと同じ、青白いオーラのようなものを宿した拳が悪魔を貫き、脚が蜥蜴兵士を蹴倒した。
そこでふと、迅は後方で戦っているはずの井出の姿を探す。
―――いた。自分より相手にしている数こそ僅かなものの、棍1本で異形達を相手に奮戦しているのが確認出来る。
この戦いを終えた後、井出はどれほどの戦績を積み上げたことになるのだろう。もしかすれば、このままノルマに届かせることも不可能ではないかもしれない。そう思うと、異形を殴る拳にも力が篭った。
「……チャージ完了。下がって!」
鈴奈の叫びを受けて迅は振り返り、ぎょっとした。
鈴奈の握る銃の先に形作られていた球体は、いつの間にかバランスボール程の大きさにまで膨れ上がっていたのだ。
あまりの大きさに、これが解き放たれれば一体どんなことになってしまうのか、想像すらつかない。
「おい。一応念の為聞くけどよ、それ撃って現実世界は……」
ここでふと、迅は現実の世界のことが気になった。
仮想空間とはいえ、あまりに現実と酷似していることが、彼にそう思わせたのだろう。そう理解した鈴奈は、嫌がることもなくその問いに答えた。
「ここはあくまで、現実世界に似せて作られた仮想空間よ。たとえ星1つ消し去ろうが、現実世界に一切影響はないわ」
「よぉし、やれっ!」
一切の影響はない。だから遠慮はいらないのだと理解した迅は彼女の答を聞くなり、叫びながら眼前の異形を殴り飛ばし、直ぐ様後方へ大きく下がった。
直後、準備が整ったのだと悟った井出もまた、戦っていた異形達を滅茶苦茶に棍を振り回すことで蹴散らし、引き下がる。
図らずとも最初と同じ、3人で背中を合わせる格好となったが、決定的に違う点は、鈴奈の宝石銃に滾る途方もないエネルギーの塊。鈴奈の身長程もある青い輝きは、魔法陣の紅をも押しのける程の光と共にバチバチと帯電している。
それを鈴奈は、眼前―――校庭の出口へ向けて、一挙に解き放った。
「………ッ!!?」
ごう、と大気の層を貫いて、光の弾丸―――否、大砲が空間を突き進んでいく。
そのあまりの衝撃に鈴奈の身体が吹っ飛ばされそうになるのを、後方にいた迅が支えた。
人1人の踏ん張りではどうにもならない程、大きな衝撃。それほどの多くの力を消費して放たれた1撃は、当然のことながら、絶大な効果を発揮した。
光の奔流が、その射線上にいたランブル全てを蒸発させていく。
そう。〝撃破〟ではなく、〝蒸発〟である。貫かれ、粒子になるプロセスを経ることもない。断末魔を上げる時間すら与えられず、異形達は何が起こったのかすらも解らぬままその身を蒸発、消滅させていった。
「と、とんでもねえな……」
ランブルだけでなく、後ろにあった街路樹や、その更に奥のマンションすらも粉々に粉砕していく鈴奈の渾身の一撃を目の当たりにして、迅の顔が引き攣る。
この場から脱出するためとはいえ、果たしてここまでの火力が必要だったのか。そんな疑問すら残ったが、それでも今、彼女の塵1つ残さぬほどの砲撃のおかげで、確かに道は開かれた。
輪を作って彼らを包囲していたランブルの網に、穴が出来た。今なら、ここを通って脱出することも可能だ。
「さあ、早く行きましょう……」
迅の手から離れた鈴奈は、率先して歩きだした。
しかし足取りは覚束無い。声にもいつものような凛とした様子はなく、どこか弱々しいその姿に、迅は彼女の背中越しに訊ねた。
「おいおい、ふらついてんじゃねえか。大丈夫かよ?」
「平気、よ……これ、くらい……」
強がっているのは、迅の目から見ても明らかであった。
あれだけの力を使った直後だ。相応の消耗があったとしても、不思議ではないが―――。
(涼しい顔して無茶しやがって……)
彼女は、このことを話さなかった。
その理由に関しては、大体察しがつく。打ち明ければ、迅は必ず反対する。たとえそれが、迅自身が考え出した作戦でもだ。その上で、何か他の方法を考えると言うに決まっていた。鈴奈もまた、そのことを理解していたのだろう。
あの状況では新しい策を講じている暇もなかったし、ならば自らの身の負担に関しても形振り構ってはいられなかったのだろうと理解は出来ても、自分はそれで納得出来るような人間かと問われれば、迅は即座に首を横に振ったことだろう。
「きゃっ!? ち、ちょっと貴方……!?」
いきなり感じた浮遊感に、鈴奈は戸惑いの声を上げた。
見上げれば、そこには屑折れそうになっていた身体を支えた、迅の顔がある。「ちゃんと掴まってろよ」という言葉と共に、2度目の浮遊感が鈴奈を襲った。
「先生も遅れないで!」
「あ、ああ!」
そんなやり取りの後、漸く迅の手によって抱きかかえられているのだという事実に頭が追いついた鈴奈の顔に、かっと赤みが差す。
けれど、彼女はそんな羞恥心などおくびにも出さず、綺麗に舗装されたアスファルトの向こうへと遠ざかっていく異形の集団を、迅の腕の中からじっと見つめていた。
これも偏に、マスクにより強化された脚力あってこその逃走劇である。さすがに、こうも疲労した鈴奈1人を庇って、あの数を相手にすることは不可能という判断だ。
少しでも井出の戦績の足しになればと思っていたが、彼もあの時、それなりの数を狩ることに成功していたようであるし、仕方ないかと納得してとりあえず近くの小さな公園へ逃げ込むと、そこで鈴奈をベンチへ下ろした。
ランブル達が追いかけてきている気配は、感じられなかった。
「やりましたね、先生!」
「ああ。風上君、本当にありがとう。何と礼を言ったらいいのか……。君もだ。そんなになるまで手伝ってくれて……ありがとう」
いえ、と短く素っ気ない返事をする鈴奈に苦笑している迅へ、井出は手を差し出した。
年配らしい、しかし彼自身の厳しくも朗らかな性格にはあまり似つかわしくない、ゴツゴツとした手。それを不思議そうに見る迅へ、井出は微笑みかける。
「これからも、宜しく頼む」
「………はいっ!」
望んでいた申し出を得られた事実に歓喜した迅は、彼の手を握り返した。
解ってくれた、という安堵と、秘密を共有する仲間を得ることが出来た喜び。その2つの歓喜が、彼の満面の笑顔に表れていた。
「じゃあ、私はこれで帰るよ。私はいつも、自宅からログインしていてね。すぐ近くで助かった」
「そうですか。お送りしましょうか?」
「いや、結構だよ。もう本当にすぐそこだしね。君達も、奴らに見つからない内に早く帰りなさい」
「そうですね……解りました」
そういえば、この公園の近くには彼の自宅もあったなと、迅は今更ながらに思い出す。
この公園を出た先にある角を曲がれば、もう目と鼻の先にある距離。確かにこれなら、ログアウトする前にランブルに見つかる心配も皆無だろう。
そう思い至った迅は、彼の言葉に素直に頷いた。
「先生!」
じゃあ、と去っていく井出の背中へ、迅は呼びかける。
振り向いた井出へ、迅は微笑みかけながら言った。
「また明日、作戦立てませんか? ノルマを少しでも早く、達成出来るように!」
「……ああ、そうだな」
迅の申し出にも、もはや井出は突き返すような真似はしない。彼は仲間だ、そう認めてくれたのだと嬉しくなって、迅は一層嬉しそうに笑った。
そんな彼と井出のやり取りをベンチに身を預けながら見ていた鈴奈は、ふとこれからのことに思いを馳せる。
(プレイヤー同士の友情、か……)
心の内で、馬鹿馬鹿しいと吐き捨てる。
作戦は成功した。しかし、果たして本当にこれでよかったのか、鈴奈には想像もつかない。
そもそも、これは敗北した者が死に至る、文字通りのデスゲーム。そこには何1つ、慈悲など存在しない。あるのは、欲望に塗れた現実だけだ。全てが真っ黒な欲望という汚物に塗りつぶされた、混沌の世界。それが呪われし仮面の舞踏会―――マスカレイドなのだ。
全てがその者の欲望のままに動き、全ての希望が他者の欲望という名の魔物に食い尽くされていく。鈴奈自身もその汚物の1つであること。それを否定する術を、もはや彼女は持っていない。
この世界に、真の救いなど有り得ない。
何故なら、この世界の絶望とは―――ゲームのルールだけとは、限らないのだから。
☆★☆★☆★☆
人間が最も油断する瞬間とは、一体どんな時だろうか。
現代社会に生きている人間であれば―――しかも、軍属でない一般人であるなら尚更のこと―――日常に潜む危険の全てを認識出来る人間など、数が知れている。特に危機意識の欠如している人間が思わぬ大事故を引き起こし、結果として残酷な結果を生んでしまうことは、平和な島国とされている日本でも十分に起こりうることだ。
転じて、ここは仮想空間。
現実では起こり得ぬ摩訶不思議な力が、さも当然のように跋扈している世界。
ゲーム〝マスカレイド〟により作り出された非常識は、常識の中に生きている人間の〝当たり前〟を容赦なく破壊していく。
では、そんな常識の中に生きていた人間が、非常識の世界に放り込まれたらどうなるのだろうか。
危機を察知しようにも、まずその知識がない。故に、他のプレイヤーに異能による奇襲を受けても、その対処法が解らない。
まさに、現在の井出がその状態であった。
迅達と別れ、公園を出て、後は真っ直ぐ家に帰るだけ。そう思っていたのだ。明日は、迅とどんなことを話そうか。いずれは彼だけでなくて、共にいたあの無愛想な少女とも上手く付き合っていけたらと、そう思っていた。
けれど―――その展望も儚き夢に過ぎないと知ったのは、自宅の前まで来た時だった。
「どこ行くんです?」
家の中へ入ろうとした井出を、呼び止める影があった。
奇術師のような奇抜なコスチュームに身を包んだそれは紛れも無く人であり、迷彩服のような緑の色をしたマスクを着けていることから、マスカレイドの参加者であろうことが推察される。
「おや、君か」
それを見た井出は、何を警戒するでもなく、至ってフレンドリーに言葉を返す。
ブラウンマスクの下には、笑みすら浮かんでいた。
「風上 迅はどうしたのですか?」
「彼は私の教え子だ。彼も快く協力してくれると言った。……そんな彼を手にかけるなど、私には出来んよ」
井出の心はここへ来て、大きく変わっていた。迅と共にノルマを果たす。そして生きていくのだと、彼の心から自棄になっていた頃の殺伐とした雰囲気は消え去っていた。
「……そうですか、よく解りました」
それを見た迷彩マスクは、溜め息をつきながらそう頷いた。
それに、安堵と共に笑みを浮かべた井出は、すぐに気付くことが出来なかった。
腹が熱い。焼けるように熱い。その感覚はすぐに意識の表層にまで登ってきたが、その熱がどうして齎されてきたのか。それを理解するのには、たっぷり数秒を要した。
「……っあ……!?」
血は出ない。代わりに口から噴き出したのは、ランブルが消滅する際に立ち上る光の粒子。
血ではない。しかし、まるで血のように噴き出たそれを見ると同時―――漸く彼は、自らの腸ごと腹を貫く、鋭い爪に気付いた。
「……貴方はもう、僕には必要のない人間になったということが、ね」
「が、はぁっ……!?」
腹部に食い込んだ爪が一気に引き抜かれて、傷口からは血潮の如く夥しい量のの粒子が溢れ出る。
爪は、迷彩マスクの手に嵌ったグローブから伸びていた。5本の指にはそれぞれ鋭いナイフのような鋼の爪が1つずつ付いていたが、その全てが井出の腹に突き刺さったというのに、血の1滴も付いていなかった。
「やれやれ。あのまま同士討ちしてくれれば、効率よく敵を減らせたのに……結局、僕自ら出向かなきゃいけないのか。まあ、1人分の戦績を獲得出来たことと、あの変な女の情報を得られたというだけでも収穫と思うべきかな」
倒れ伏し、立ち上る粒子と共に徐々に形を失っていく井出には既に興味すら湧かないのか、まるで古い玩具に飽きて、次の新しい玩具を求める子供のように、迷彩マスクは笑みを浮かべる。同時に、グローブから伸びていた鋼の爪はその姿を消していた。
さて、と辺りを見回す迷彩マスク。そんな時、その背後に、蝙蝠の如き翼を宿した異形が天空から降り立つ。
「……そうか、ご苦労」
迷彩マスクの言葉に異形は小さく頷くと、一陣の風と共に多数の蝙蝠となって姿を消した。
家屋と月の明かりだけが辺りを照らす闇夜に相応しい、妖しげな光景。その中心にいる迷彩マスクは、飛び去っていく蝙蝠達にも劣らぬ程に妖しく口元を歪ませる。
そんな彼のすぐ傍―――井出の家の表に立てられた表札から、中学教師、井出 宗次郎の名が静かに消失した。
☆★☆★☆★☆
翌朝。迅は、意気揚々と学校への道を走っていた。
彼の心は今、とても軽かった。殺し合うことになるかもしれない。そう思っていた恩師と、共に戦っていくことが出来るようになったのだ。否応なしに、彼の気分は高まっていた。
そんな迅は今、午後の約束をフライングして、井出の家へと向かっていた。
特に用があるわけではないし、どうせ今行っても教師である井出がこの時間に家にいるわけがない。けれど、居ても経ってもいられなくなった迅は、いつもどおり家の前で待っていた雛に適当な理由をつけて先に行ってもらうと、彼の家へと足を運んでいた。
井出の家の前には、程なくして着いた。元々、井出の家の傍にある中学校は以前にも自宅から通っていた母校であるし、今通っている高校の方角にも合っているから、ついでに立ち寄るにしても負担にはならなかった。
高揚した気分で、久々に美人の奥さんと話でもしてから学校へ行こうか。そんな、普段の彼なら絶対にしないであろう思考に自嘲しながら、インターフォンを押そうとして―――気づいてしまった。
「……え?」
一目見て、「おかしい」と思った。
井出の下の名前は〝宗次郎〟だが、奥さんと子供の名の上に書かれているはずの彼の名がない。全く知らない、別の人物の名がそこには刻まれていた。
この前会食した時には、しっかりと彼の名がそこに刻まれていたはずであるのに。
離婚したのか。―――否、彼との会食はつい数日前。こんなに短期間に離婚して、更に再婚するなどと、まず有り得ることではない。
「これって、どういう……!?」
どういうことか解らない。そんな様子を見せていながら、しかし迅の中では今、1つの可能性にたどり着いていた。
まさか、まさか、まさか―――!
そんなはずはない、信じたくないという思いばかりが動悸と共に膨れ上がって、震える手で迅はインターフォンを押した。スピーカー越しに「はーい」という返事が返ってきて、やがて玄関の黒塗りのドアが開き、井出の妻であるはずの女性―――井出 文代が姿を現した。
「あ……」
よかった、と安心したのもつかの間。
次の瞬間、文代の口から出た言葉に、迅は凍りつく。
「えっと、どちら様……かしら?」
「……え?」
きょとんとした顔をした文代は、迅のことが本当に解っていないようだった。
それは解ったが、しかしどうしてそんなことになっているのかが理解出来ない。確かに井出の世話になったのは数年も前の話だが、時々買い物で近所のスーパーにいるところに出くわしていたりしていたから、彼女が自分のことを忘れているはずはないと思った。
だとすれば―――。
「え、えっと……すみません。間違えたみたいです」
心にもないことだった。
ここは井出の家。そして自分は、ここを目指してやってきた。それに間違いなど無い。
けれど、迅はそれを無視した。これ以上の事実を知るのが怖かったから。
自分の推測が外れていてほしいと、そう思っていたから。
たとえその推測が、ほぼ間違いなく当たっているであろうと考えていたとしても。その思考から目を背けることしか、今の迅には出来なかった。
そうしないと、自分の中の何かが壊れてしまいそうで怖かった。
パタン、とドアが閉まり、不思議そうに首を傾げた文代の姿がドアの向こう側に消えていった後も、迅はその場を動けずにいた。それだけ大きな衝撃が、迅の心を駆け巡っているのだ。
だから。声をかけられるまで、いつの間にか背後に立っていた人影にも気付かなかった。
「……消えたのね、彼」
「………鈴奈」
いつもと変わらぬ、冷静な瞳でこちらを見る鈴奈の名を呼ぶ迅の声は、震えていた。どうしてここにいるのか等、普段の彼なら訊きたいことが山ほど喉を突いて出ていただろうに、彼の口からはそれ以上の言葉が発せられることはなかった。
それよりも、心の内で辿り着いていた可能性をあっさり肯定され、迅の心が揺れる。
「消え、たって……お前、どういうことだよ……!?」
「そのままの意味よ。この世から消えたの。跡形もなく……その存在すらも」
「存、在……!?」
「そう。マスカレイドで消去された人間は、その存在そのものをなかったことにされる。覚えているのは……マスカレイドの関係者だけ」
消えた。存在ごと消された。
その事実だけが迅の頭の中を巡って、訳が解らなくなる。
否、本当は解っているのだ。ただ、その事実を認めたくないだけ。
もう、あの厳しくも優しい言葉を聞くことは―――出来ない。
「あ、あああ……ああああああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁーーーーーーーーーっ!?」
慟哭が天に響く。
その頽れた姿を、鈴奈は僅かに表情を歪ませながら、黙って見つめていた。
己の命を賭けたゲーム、マスカレイド。
ブラウンマスク、井出 宗次郎―――脱落。
はい! というわけで以上、序章が完結であります。
どうも皆様、こんにちは。神崎はやてと申します。
この作品を書き始め、既に幾月……途中大分空いてしまいましたけれど、またこうして更新していけたらと思っておりますので、宜しくお願い致します。
さて。ここまでは序章ということで、マスカレイドの基本について触れていきました。それと同時に、今後への布石もこれでもかと散りばめておきましたが、皆様はどれだけお気づきになられましたでしょうか。
全部気づいちゃった?……だとしたら、修行が足りませんね。精進せねば。
まあとりあえずは、上げて落とすこの作品特有の絶望具合が出せていたのであれば、序章の掴みとしては大成功でございます♪
これからもこのように、テンションが上がったり下がったりと忙しいことになると思いますが、どうか最後までお付き合い頂けましたら幸いです。
では。また次章でお会いしましょう。神崎でした。