第2話 【箱の中のセカイ】
「マスカ、レイド……」
少女に差し伸べられた手を取って、未だに笑っている膝を叱咤して何とか立ち上がった迅は、少女の口から出た言葉をそのまま繰り返すしか出来なかった。
聞き覚えのある言葉ではある。
しかし、それでもこの状況とどう関わりがあるのか、情報の圧倒的に不足している迅には知る由もない。
すると、訳の解らないでいる彼の心境を察したのか、少女は周囲を見渡しながら、ええ、と頷いた。
「貴方、その様子だとたぶん初心者だろうから、教えておいてあげるわ。ここは、プログラム〝マスカレイド〟の中。普段私達が住んでいるのとは、別位相に存在する異空間よ」
「は……?」
少女の言葉を聞いた迅は、先程の恐怖とは全く違う理由で言葉を失った。
「異、空間……!?」
「そう。俄には信じられないことでしょうけど、ここはプログラムによって生み出された空間。鏡のように全てが反対になっているのを見たでしょう? それが、ここが現実の反転世界である証拠」
確かに、それは迅も実際に体験したことだった。
家にあった漫画だけではない。
街の商店街に軒を連ねる店の看板の文字なども、尽く逆になっていた。
なるほど、反転世界というのは的を射たネーミングだろう。
「信じるしか、ないのか……?」
そう呟きを漏らすが、信じるも信じまいも、迅は目の前で既に見てしまっているのだ。
男が、ロケットランチャーを射出する光景を。何もないところから、機関銃を現出させるのを。
男が――光となって消滅するのを。
それについて尚も問いを口にしようとする迅だったが、先に少女が口を開いたことで――何より、溜め息混じりに告げられたその内容によって、中断せざるを得なくなった。
「まあ、信じられなくても無理はないけれど……貴方、今すぐにでも思い知ることになるわよ?」
「は? それって、どういう……」
聞き返そうとしたところで、ズン!と大きい地鳴りと共に揺れが2人を襲い、迅は思わずたたらを踏んだ。
「ほぉら……来た」
「来た? 来たって……」
何が、と続けようと振り返った迅の目の前に、異様な光景が飛び込んできた。
いつもの街並みの景色の上――陸に、空に――無数の点が見えた。
それがただの点ではないことは、〝それ〟が段々とこちらに迫ってくることで明らかとなる。
「何だ、あれ……!?」
呆然とそれを見つめていた迅の目は今や大きく見開かれ、絶句していた口からは漸くそれだけが絞り出された。
無数の点に見えた物は、無数の異形。
あるものは、悪魔のような凶悪な体躯とコウモリのような翼を宿し。
またあるものは、巨大な蜻蛉のような姿をし、巨大な複眼でぎょろりと辺りを見渡していたり。
また空からだけではなく、地上からも〝彼ら〟は押し寄せる。
触手を体中に伸ばした磯巾着のような生き物や、一周りも二周りも大きい狼のような生き物など、ありとあらゆる〝非日常〟が2人の下へ迫りつつあった。
「……貴方、マスクは持っているわね?」
「マスク?……あ」
少女の言葉に、何をこんな時に、などと思いながら身体を探ると、〝それ〟は自身の腰についていた。
それは、昼間学校で何故か鞄の中に入っていた、出所不明の紅の仮面。
この反転世界へ来ても全く代わり映えしないように見えるのは、仮面が非対称ではない所為か。
それをこの世界へ来て触った覚えもなければ、身に付けた覚えもない――が、今はそんなことを気にしている余裕すらなかった。
「それをつけなさい。……死にたくなければね」
それだけ言うと、少女は自身の仮面――薄紫色のそれを手に取ると、再びそれを装着した。
男と戦っていた時の少女の姿は、黒のタンクトップにミニスカート、そしてそれを覆う黒のロングコートという黒づくめの妖艶な出で立ちをしていたが、今はどこかの制服らしいセーラー服一式に変わっていた。
それが、仮面を付けることで再び元の姿へ戻ると、少女は駆ける。
一瞬にして姿が掻き消え――気付いた時には少女は遥か前方、まさにモンスターと定義すべき異形達の群れと激突しつつあった。
「……これを、つければいいのか?」
迅は、未だ頭を支配している混乱を必死に鎮め、その手に握った仮面――マスクを見つめた。
彼女が言うには、これを付ければこの場は助かる。
それは、今の彼女のように力を得ることが出来るということを表している。それは理解できる。
しかし。
(俺は……まだ怖い)
正直、膝なんかいつまた笑い出すか解らない。
(俺は、まだマスカレイドとかいうもののこと……何も知らない)
何も知らないまま戦うのも――怖い。
(……でも)
でも、このままでは自分は死ぬ。
彼女は、大丈夫なのかもしれない。でも、あれほどの大群、自分を守りながら捌ききれる数ではないだろう。素人目ながら、そう考える。
自分がなんとかしようとしたところで、駄目かもしれない。
でも、それでも何もしないで後悔するよりはよほどいい。
そう思うと、何だかやらねばならないという気持ちになってきた。
やれるのではなく、やらなければならないのだ。
この場を、生き残るために。
「……くそっ。止めだ、止めだ!」
柄にもなく、物語の主人公のような思考になってしまった自分を振り払うかのように頭を振る。
そして、もう1度マスクを見つめた。
相変わらず、自らを鼓舞するかのような紅を放つそれの目が、鈍くも、雄々しく輝いて見えた。
「これで何も起きなかったら……承知しないからなっ!」
声を張り上げ――そして、一息にマスクを自らの顔に宛てがった!
すると。
「おわっ!?」
途端に、マスクが彼の頭に纏わりつく。少し引っ張っただけではびくともしない程に、しっかりと彼の目の周りを覆い尽くした。
それだけではない。
先程まで着ていた真っ黒な学生服は消え去り、代わりに現れた漆黒の燕尾服を身に纏う。
背には、紅を裏地とした、燕尾服と同じ漆黒をしたマント。
まるで、変身ヒロインものの物語に有りがちなヒーローのような姿に変身した迅は、緊急事態にも関わらず自分の身体を触りながら姿を、感触を確かめていた。
しかし。自分の目の前にも怪物の群れが迫っていることに気付くと、舌打ちして踵を返す。
変化には、すぐに気付いた。
「あ……身体が、軽い……?」
それは、明らかな変化だった。
いつもより格段に早い脚力で、周囲の景色がどんどん後方へと流れていく。
常人では決して得られない身体能力に、迅は少女の言葉とマスクの力が真実であることを理解した。
しかし、それをもってしても怪物は完全には振り切れなかった。
空から襲い来る、悪魔とも龍とも似つかない容貌の魔物が、その鉤爪を振り下ろす。
「くっ、そおおおぉぉぉっ!」
逃げられないことを悟り、半ば自棄になって、迅は拳を魔物へ振るう。
魔物の力が、見掛け倒しでないなら――また、迅の身体能力が常人と何ら変わらないのであれば、まず間違いなくその拳は怪物へは届かない。
ある種、賭けだった。もし通じなければ、迅の身体は鉤爪に貫かれ、瞬く間にその命を散らしていただろう。
だが。結果は、迅の勝利という形で表れた。
動きが見える。
まるで手に取るように、本来速いはずの怪物の動きが解る。
それを半ば無意識に躱し、懐に飛び込むと、渾身の力でストレートを放った!
「グギャアアアァァ!?」
拳が怪物の紫色をした体躯に突き刺さり、やがて吹き飛ぶ。
その凄まじい威力に、迅は唖然とした。
「何だよ、この力……!」
自らの手に入れた力に、訳も解らず手の平を見つめるが、怪物達は彼にそれ以上考える時間を与えようとはしなかった。
迅の拳に吹き飛び、動かなくなった仲間の身を案じる気もないようだ。
一斉に、死骸へ群がる蟻のように迅1人へ突っ込んでいく様はおぞましいものがあったが、迅は1つ1つの攻撃を的確に避け、拳を繰り出す。
元々、喧嘩殺法のようなもので形式ばったものではないが、腕っ節には自信のあった彼だ。未だ力の振るい方には雑な部分が多く見られるものの、とりあえずこの場を切り抜ける程の力は見せ始めていた。
「いける!」
拳を振るい、また1つ、巨大な甲虫のような姿をした怪物を吹き飛ばし、背後から棍棒を持って襲いかかろうとしていた、醜悪な姿をした人型の怪物を裏拳で沈める。
そのどちらもが、拳を受けた部分を大きくひしゃげて、弾丸の如く川の土手に激突して――その後は、微動だにしなかった。
もうそこからは、迅の独壇場。
獲物は狩猟者に、狩猟者は獲物に。
両者の立ち位置が、完全に変わった瞬間だった。
拳が、蹴りが、全てを屠り蹂躙する。
恐怖心の欠片もない――といえば、無論嘘になろう。
むしろ今振るわれている拳1つをとってみても、目の前の命の脅威に対し抱く恐怖心が、形になったものに他ならない。
だが、今はそれこそが、生きたい、死にたくないと恐怖する心こそが、今の彼の身体を動かす唯一の原動力となっていた。
やがて、辺りから魔物の息遣いが消えた。
あるのは、動くことを止めた――否、止めさせられた異形の残骸ばかり。
そして、その中心にいるのは迅。
息を切らし、今にも恐怖に震え上がりそうになりながら、高揚する心を抑えるべく、必死に息を整えようとしていた。
「終わったようね」
声と共に、迅のすぐ傍に降り立つ少女。
マスクを付け、身に纏う妖艶な黒装束には解れ1つ見えない。
付け焼刃で、ただ本能の赴くままに拳を振るっている迅とは雲泥の差だった。
何しろ、人生で初めて〝命のやり取り〟というものを経験したのだ。そこにあったのは、現実に訪れる絶対的な〝死〟。
いろいろな感情がごちゃ混ぜになって、少女の言葉にも、いつもどおり返事を返すことも出来なかった。
それを理解してか、少女は迅の沈黙に特に何も言うことはなく、代わりに現状についての説明を始める。
「今の貴方は、力に目覚めたばかりでそれを満足に使えずにいる。……それでも、あれだけのランブルの軍勢を蹴散らしたのには驚いたけれど」
「ラン、ブル……?」
「あの化け物達の名前。彼らはこの世界に住み着いて、この世界に訪れた参加者達を襲っている。ゲームで言う、モンスターみたいなものかしら」
あの、宝石のような輝きを前面に放つ銃を腰のホルスターに収めながら、少女は淡々と説明を続けていく。
自分とさほど歳に違いはなさそうな身でありながら、この状況にそこまでの冷静さを見せる彼女を心の内で賞賛し、それでも漸く幾分かは落ち着いてきた動悸を未だ必死に宥めながら、迅は尚も疑問を口にした。
「この世界は……一体何なんだ?」
「さっきも言ったでしょう? ここは異世界。まあ、正確に言えば、マスカレイドが作り出した仮想空間、と言った方が正しいのかもしれないけれど」
「その、マスカレイドっていうのは?」
「マスカレイドのことは、私もまだよく解っていない。解っているのは、あれが私達に戦いを強いるシステムであるということだけ」
「戦いを……強いるって……」
つまりは、強制的に戦わせられるなんらかのシステムがあるのだということ。
その中身を知らない迅はただ呆然とするが、それを見た少女は明らかなため息をついた。
「な、何だよ」
「……貴方、〝規約〟は読まなかったの?」
「ルール?」
「マスカレイドプログラムを立ち上げた画面に出ていたはずよ。この世界から出たら読んでおきなさい。この先も、死にたくなければね」
「またそれかよ……」
先程からそうだが、この少女の対応はどこかどっちつかずだ。
情報を与えてくれているのだから悪い人間ではないのだろうが、これほど無感情にただ与えられる情報に、迅の思考は、刻々と変化する状況から未だ置いていかれたままだった。
そうして少女に訝しげな視線を浴びせていると、件の彼女は不意に踵を返し、歩き始める。
ちょうど、迅が歩いてきた方の方角へ。
「お、おい! どこ行くんだよ!?」
「家」
「……は? でも、この世界の家って、俺たちの世界とは……」
「ええ、勿論この世界の建物は私達の世界にあるものをそのまま反転させて存在しているに過ぎない、巨大なミニチュア。私達マスカレイドの参加者は、マスカレイドプログラムにログインしたパソコンからしか元の世界には戻れない。……今の貴方では、おそらく雑魚ランブル相手にもそう長くはもたない。私が送ってあげるわ。家はどこ?」
「あ、家って、そういうこと……」
てっきり、彼女自身の家のパソコンへ向かうのだと勘違いをしていた迅は、現在唯一頼りに出来る存在に出会えた奇跡に感謝した。――と同時に、まだ全てが終わっていないにも関わらず、思わず力が抜けそうになった。
と、そんな彼の内情を知ってか知らずか、少女は構わずさっさと歩き出す。
「あ、ちょっと待てって!」
慌ててその後を追う迅。
こうして迅は、初めての反転世界で、初めての仲間との邂逅を果たした。
☆★☆★☆★☆
「はっ!」
一閃。
クリスタルの銃から放たれた銃弾が、下級悪魔の姿をしたランブルを撃ち抜く。
迅と少女の2人は現在、商店街を進んでいる最中だったが、ただ素通りというわけにはいかなかった。
商店街には悪魔系のランブルが巣食っていて、進路を阻み、襲いかかってくるものは一瞬にして少女の鉛玉の餌食となる。
少女がランブル達を蹴散らしていくその後ろから、燕尾服にマントという、現実にいたら仮装と間違われるか、異様なものを見る目で見られるかのいずれかであろう姿をしたままの迅が続いた。
(凄い……)
前を走る少女の背中を見つめながら、迅は心の中でそっと彼女を賞賛した。
攻撃には一切の迷いもない。
銃弾は全て吸い込まれるようにランブル達を真芯から捉え、その全てを無力化させていく。
加えて彼女の力、〝刹那の支配者〟。
彼女によれば、マスクにはそれぞれ特殊な能力が1つ設定されており、刹那の支配者は彼女のマスクの力。
その正体は、一定時間、常人より遥かに速い時間の流れに身を置くこと。
長時間の維持は身体への負担が大きいらしく、そう長くは発動状態を保てないそうだが、それでも十分に強力な能力であることは、迅にも十分に理解できた。
一瞬でも加速して敵の死角に回り、銃を当てられればそれでもう終わってしまうのだから。
能力のことを聞いた今なら、男と戦った時のあの少女の動きのトリックもまた、容易に理解することができた。
そうして、今は守られながら先を行く彼女の後ろを駆け抜けながら、彼女が偶然撃ち漏らしたものを、拳で殴りつけて吹き飛ばしていく。
やはりというか、全てが全て、一撃で屠れるというわけではないらしい。
中には全力で殴っても倒しきれないものもいて――しかし、吹き飛んでいくそれらをそれ以上深追いはしない。
今ここを走っているのは、彼らを倒すこと自体が目的ではないのだ。
「この先、もうちょっといけば商店街を抜けて住宅街に出る。そこの、空色に塗られた外壁の家が俺の家だ!」
「解った」
迅の指示に少女は短く返しながら銃を撃つ。
そうして真っ直ぐに駆け抜けた先に、元来た閑静な住宅街が見えてきた。
尤も――。
「グゴオオオォォォォォォッ!」
その中に聳える巨大な影に、いつもどおりの様相を呈しているはずの町並みも、もはや見る影もなかったが。
「で、デカい……!」
現れたのは、家ほどの大きさもある石で出来た巨人。
現実世界のゲームに喩えるなら、ゴーレムとでも呼称すべきだろうか。
ともかくそのゴーレムが、天を見上げ、大きく咆哮を上げ、アスファルトの道路を闊歩しているのだ。
これまでのランブルもそうだったが、現実の風景とファンタジーな魔物達とのコントラストは、迅の目には実に奇妙に映った。
「……あら、ランクB」
「は? ランク?」
「ええ。ランブルにもランクがあるのよ。貴方が漸く倒していたランブル達は皆、最低ランクのランクD」
「あ、あれで一番弱いのかよ……」
必死に拳を振るって倒したものが、最低ランク。
彼にとってはこれが全くの初陣であるということを考慮に入れても、迅はその事実に決して小さくない衝撃を感じていた。
しかも彼女の話によれば、目の前のゴーレムのランクはB。
迅が相手にしていたランブルのランクを、2つも上回る。
「でも……おかしい。ゴーレムがこんなところに現れるだなんて。あれほど大量に集まったランブルといい、一体、何が起きているというの……!?」
何が気になるのか、そう考え込む少女。
彼女の言葉からして、これほど沢山のランブルが現れるのは彼女にとってもイレギュラーな事態のようだが、そんなことを気にしている余裕は迅にはなかった。
この辺りに他のランブルはいないようだが、目の前には進路を塞ぐようにゴーレムが陣取っており、背後には溢れるほどの下級ランブル。
迂闊には踏み出せないが、逃げることも困難。まさに、背水之陣と形容すべき事態だ。
ともなれば、目の前のゴーレムを突破してなんとかして家に転がり込むのが最善なのだろうが、果たして少女の銃と自分の拳だけで、あの石の巨人を相手に出来るのだろうか。
「なあ、どうする?」
不安をかき消すように、迅は少女に意見を求めた。
この世界とマスクの力に関しては、彼女の方が詳しい。
故に何か解決策を聞ければと問いかけたのだが、それに対する少女の返答は実に単純明快、シンプルなものだった。
「下がってなさい」
「……は?」
てっきり、何か気の利いた策を弄してくれると思っていた迅は、思わぬ返答につい間抜けな声を挙げて問い返してしまう。
「私がやるから」
「私がやるって……お前、あの巨体相手にその銃1つで向かってくつもりかよ!?」
「そうよ」
無茶だ。勝てるわけがない。
そう考えてしまうのも、この体格差と石の硬さを知っているからか。
しかし迅はこの後、その心配が全くの杞憂であり、その読みが、状況から得られる先入観に過ぎないことを知る。
見てなさい、とだけ言い残し、少女はゴーレムの前へ悠然と歩いていく。
それに気付いたゴーレムは再び1つ咆哮を上げると、ゆっくりと右腕を振り上げ、そのまま重力に任せて振り下ろした!
「おいっ!?」
アスファルトが、拳が当たったところからクモの巣状に罅割れるのを見て、迅は思わず声を上げた。
あんなものが、もし直撃でもしようものなら――。
そう考えるとぞっとした。
だが、迅の心配を他所に、砂煙に紛れて少女の姿が現れる。
瞬間的に刹那の支配者を使ったのであろうことは、迅にも予想は出来た。
あれ程の巨体だ。
拳1つ引き戻すにも数秒のタイムラグを要するらしく、その間に瞬間移動が如く彼の目の前に躍り出た少女は、銃を構えた。
銃口は、真っ直ぐにゴーレムへと向けられている。
何をするつもりなのか、憂う視線で見つめる迅の目の前で、少女の身体が僅かに光を帯びた。
青白く、どこか神秘的にも見えるその光は銃にも浸透していき、空色の銃身を一層の青に輝かせる。
そして。
「ガアアアァァッ!?」
突如銃から放たれた、彼女が纏うのと同じ色を帯びた光の弾丸が、ゴーレムの胴を貫通。悲鳴にも似た咆哮を上げて、ゴーレムは風穴の空いた胴を庇うようにしてたたらを踏んだ。
効いている。
迅に理解出来たのは、そこまで。
彼女が何をしたのか、何が起こったのかなどということは頭にない。
ただ――勝てるかもしれない。生き残れるかもしれない!
そのことだけが、少年の思考をすっぽりと被っていて、その生がどういった形でもたらされるかなど、その時は全く興味すら湧かなかったのである。
苦しみに震えながら、ゴーレムは引き戻した拳を再び振り下ろした。
しかし少女は冷静にそれを見据えながら、再び刹那の支配者の力を使い、最低限の動きと発動時間で避け、お返しとばかりに銃弾を放つ。
今度は、肩。
支えを失ったゴーレムの右腕が、大きな音を立ててアスファルトに崩れ落ちていった。
「凄い……!」
思わずそう呟きを漏らし、迅はそっと息を呑んだ。
テレビアニメやゲームなどで、幾度となく見てきた〝フィクション〟の世界。それが今、目の前で〝現実〟として繰り広げられている。
まるでそれは夢のようで――しかし、ゴーレムが暴れることで巻き起こる衝撃は間違いなく本物だった。
眼前で、次々に解体されていくゴーレムの巨躯。
それを迅はしばし、希望の見えた歓喜に口元を笑みに歪めながら眺めていたが、ふと視線を移すと、異様なものが目に飛び込んできた。
(何だ、あれ……)
ゴーレムの巨躯に気を取られて今まで気付かなかったが、ゴーレムの脇に、不自然な石のブロックが見えた。
最初は、家の塀の類だと思っていた。が、ここで長いこと生きてきた迅には解る。
あの家の軒先に、あんなものはなかった。あの家は確か、蛇腹式のゲートを経て道路に面していたはずなのだ。
だとすれば、あれは――。
「これでっ……!」
そんなことを考えていると、ふと見れば、少女の側はゴーレムを粗方無力化し終えた後で、一層大きな光弾を放つ直前だった。
すると、それを狙っていたかのように、ガラガラと音を立てながら、脇にあった石のブロックが急速に形を変えていく!
「危ないっ!」
「っ!?」
石の塀は変形し、もう1体のゴーレムとなって、少女を掴み上げようと手を伸ばす。
物音と迅の叫びに、少女も漸く事態に気付いた。
が、遅い。
既に銃のエネルギーはゴーレムへ向けて集束を完了しており、今更新手を迎撃する手は残されていない。
また、新手のゴーレムの迎撃へ銃を向けたとしても、唯一残った左腕を今まさに振り下ろさんとするゴーレムを迎撃しなければ、どの道彼女の身が危ない。
「ちぃっ!」
気づけば、己が身も顧みず、迅は飛び出していた。
完全に、無意識の間の行動。
しかし迅の身体が今少女と塀のゴーレムとの間に割り込んでいるのは現実であり、迅には既に、その石の腕を迎撃するしか道は残されてはいなかった。
≪はあああああああぁぁぁぁぁぁぁっ!≫
2人の咆哮が重なり、拳と光弾、本質を違える2つの閃光が煌めく。
光を纏ったのは、少女だけではない。迅の拳もまた、淡くはあるが青白い光を纏っていた。
同時に巨躯を捉えられた2体のゴーレムは、やがてその双眸から光を失い――大きな音を立てて、崩れさっていった。
「……っはあ、はぁ……!」
緊張の糸が切れたのか、迅は拳を振りかぶった体勢を崩し、尻餅をつく形で後ろ向きに倒れ込んだ。
死ぬかもしれない状況で、無我夢中だった。が、不本意そうであったとはいえ、自分の命をここまで助けてくれた少女が目の前で死ぬのは見たくない光景であった。
それを考えると、彼女を守れたのだという実感が、確かな充足感となって満ちていくのが解る。
安堵した途端に足腰立たなくなった自分の姿は情けなかったが、最大限の努力が実った実感と喜びだけは、確かなものだった。
「大丈夫?」
声にそちらを向けば、口元に微笑みを浮かべながら、少女が手を差し伸べてくれていた。
迅は一瞬迷った後、自身の状態を思い出すとそれを手に取って立ち上がった。
ふらついた身体を、すかさず少女が支えてくれる。
「はは……情けないよな。一回ぶっ放したくらいでこれだ」
「いいえ。初めて戦いを経験したのだもの。これくらい当然よ。……ううん、それどころか、あの状態で動けたこと自体が奇跡に近いわ。ありがとう」
「あ、ははっ……」
乾いた笑いが自然に溢れる。
彼女の礼に対する喜びと、命を勝ち取った安堵が綯交ぜになった末の、苦しい笑みだった。
「さあ、これで邪魔者はいなくなったわけだけれど。貴方の家はどこかしら?」
「あそこだ。もう見えてる」
迅の指さした先にあるのは、紛れも無く彼自身が飛び出してきた自宅。
少女に担がれながら、迅はゆっくりと玄関を目指した。
傍から見ればこの上なく情けない格好であるとは解っていたが、仕方なかった。
未だ腰は立たず、自力ではまだまともに歩けそうになかったのだ。
玄関を抜け、誰もいないリビングを通り過ぎ、階段を上がるまでをたっぷり5分費やし、漸くのことで2階へ上がると、自室のドアを開けた。
「へえ、案外片付いてるのね」
「放っとけ」
部屋に入るなり、表情も変えず率直な感想を述べる少女にすかさずつっこみをいれながら、迅はベッドに倒れ込むようにして座り込んだ。
その、いつも感じていた布団の柔らかな感触が、非日常に塗れかけていた思考を癒してくれるような気がして、迅は深く溜め息をついた。
「で、これからどうするんだ? パソコンはそこにあるけど」
そう、思考を落ち着けたところで、迅は改めて少女に問いかけた。
机の上のパソコンは、相変わらずマスカレイドの起動画面を表示したまま、画面から光を発し続けている。
唯一この世界に来る前との相違点といえば、ログインの文字がログイン中になっているところくらいだろうか。
「簡単よ。マスクを、画面にかざせばいい。逆に現実世界からこの世界へ来たい場合も、同じようにマスカレイドプログラムを起動させてから、マスクを画面にかざせばいいわ」
「こんな世界、2度と来たくないよ……」
おどけたように肩を竦めてみせる迅。
しかし少女はそんな彼の言葉に同意することはなく、首を横に振った。
「それは無理ね」
「……は? どうしてだよ?」
「言ったでしょう? このマスカレイドは、戦いを強制するシステム。たとえ戦いたくなくても、それを強いるだけの仕組みが備わっている」
「それって……」
何だ。
そう続けようとして、ふと自分の身体が光に包まれていることに気づき、言葉に詰まった。
何が起こっているのか、それはすぐに理解した。
立ち上がった拍子に仮面が無意識のうちにパソコンの画面の前にあり、ログアウトとみなしたマスカレイドプログラムが反応しているのだろう。
やがて全身が光に包まれた迅の身体は、僅かな光の残滓を残したまま、この世界から尽く消え去った。
「……はぁ」
1人残された部屋の中で、少女は1人溜め息をつく。
それは、不可抗力とはいえ話の半ばで去ってしまった彼の無礼に対してのものか、それとも無事彼を送り届けることが出来た安堵故のものか。そればかりは、彼女にしか解らない。
少しの間穏やかな静寂に身を預けると、やがて少女は静かに風上家を後にした。
☆★☆★☆★☆
翌日。
現実世界へ戻ってきた迅は、いつものように通学路を歩いていた。
隣にはこれもいつもの如く、愛らしい笑顔で並び歩く雛の姿がある。
昨日あれほどのことがあったというのに、現実の世界はそんなことを歯牙にもかけず回っていた。
魔物で溢れかえっていた街は、今では代わりに人が埋め尽くしている。
いつもどおりであるはずなのに、あまりにも非常識な昨日の光景が頭から離れない所為か、迅の目にはそんな日常の風景さえも、異彩を放って見えた。
「どうしたの、迅君?」
「……あ?」
ふと、笑顔を浮かべて歩いていたはずの雛が、きょとんとした顔で迅の顔を見上げているのに気づき、迅は歩を止めて彼女を見た。
「なんだか、さっきからぼーっとしてるよ? 具合でも悪いの?」
「あー、いや。そういうわけじゃねえよ。ちょっと考え事しててな」
「そうなんだ。迅君がそんな考え込むなんて珍しいね。私でよかったら相談に乗るよ?」
「ああ、大丈夫。大したことじゃねえから」
あくまで〝いつもどおり〟を装って、いつもどおり、自分より少し背の小さい彼女の頭を撫でる。
その、日常と非日常が混在し矛盾した行動をとりながら自嘲した笑みを浮かべている迅と、そうとも知らず目を細めてそれに従っている雛の下へ、景気のいい声が投げかけられた。
「やあやあ。毎度のことながらお熱うござんすなぁ!」
「あ。絢香ちゃん、おはよー」
迅に撫でられた姿勢のまま、元気よく手を挙げて、後ろからひらひらと手など振りながら歩いてきた絢香へ挨拶する雛。
それとは対照的に、胡散臭いものを見るような目をしながら、迅は絢香の言葉を否定する。
「だから。何度も言ってるけど、こいつと俺はそんな関係じゃないんだっつーの」
「むふふ、むきになって否定するところが余計に怪しいなー♪」
「はっ。乗せられやすい誰かさんじゃあるまいし、誰がむきになんてなるかって」
「何をーっ!?」
「ほら、な」
「あ……」
まるで漫才のようなやり取りを交わす2人に、雛は頭から離れていく迅の手を物足りなさげに眺めながら、呟いた。
「2人共、相変わらず仲いいね」
「雛……私達のそれも、ちょっと違うかなー、なんて……」
「ああ、それについては俺も同感。どっちかっていえば、腐れ縁って感じだよな」
「?」
2人の言っていることがいまいち理解出来なかったのか、きょとんとしたまま小首を傾げる雛に、迅と絢香は揃って溜め息をついた。
それから3人は、揃って学校まで何気ない雑談をしながら歩き、教室へと歩いていく。
「そういえば、転校生が来るのって今日だって言ってたよな、絢香?」
「ああ、うん。そういえばそんな話したっけ」
「え、転校生が来るの?」
「うん。どんな子かなぁ」
言いながらいつもの如く迅の机に集まり、雑談をして過ごす。
今日はいつもより少々遅く家を出たので、ホームルームまでの空き時間はそれほど長くはない。
話し始めてそれほど経たない内にもう予鈴が鳴り響き、雛と絢香は自分の席へ帰っていった。
(さあて……噂の転校生の顔、拝ませてもらおうかね)
そうほくそ笑んでいると、やがて教室のドアが開いて担任の教師が中へ入ってきた。
転校生は――まだ外だろうか。
「はい、静かに。今日はホームルームを始める前に、転校生を紹介しよう」
担任教師の言葉に、噂を聞いていなかった者も、聞いていた者も等しく沸き立った。
ざわざわと喧騒が広がり始めた教室を、大きな声で再び鎮めると、担任教師は廊下へと呼びかける。
「いいぞ。入ってきなさい」
「はい」
(……ん?)
廊下から、やけに存在感をもって耳に届いてきた凛とした声に、迅の思考が止まった。
まさか。そう思うも、あの透き通った声と、流れるような長い黒髪は忘れるはずもない。
すました顔で教室に入ってきた少女が、すらすらと黒板に名前を書いていくのを、迅は呆然と眺めるしかなかった。
「小波 鈴奈です。宜しく」
無表情に短く自己紹介を済ませた少女――小波 鈴奈は、紛れも無く、非日常の世界で出会ったあの少女だった。