第6話 【信をもって生を成す】
宝石銃の吐き出す閃光が、漆黒を青く照らし出す。幾重にも爆ぜる弾丸の残滓が散る度に、まるでイルミネーションのような輝きが周囲を彩る。
見るからに美しい舞いの中心にいるのは小波 鈴奈と、異形の巨躯、キュラス。紫の毒々しい肌に宝石銃の光弾が浴びせられるのも、もう何度目になるだろうか。鋼鉄のような防御力を誇るキュラスの体表は銃撃を受けてもびくともせず、僅かに焦げ跡を残すだけに留まっている。乱射により発生した煙が晴れ、何事もなかったかのようにその中から現れる巨躯の姿に、鈴奈は舌打ちした。
(まだ……まだよ、鈴奈っ!)
ここで自分が弱音を吐くわけにはいかないと、鈴奈は己を鼓舞して際限なく銃を撃ち続ける。元よりこの戦いは、勝利を目的としたものではない。あくまでも狙いは、迅がキュラスの主たる迷彩マスク、岩島秀信を打倒するまで無粋な横槍が入らないよう足止めすることだ。岩島が倒れれば、キュラスも彼の支配から解き放たれ、自分が打倒するまでもなく跡形もなく消え去るだろう。
尤も、不安材料が全くないわけではない。迅の実力は今やビギナーと呼ぶには過小評価とも言える程に成長しているのは鈴奈自身認めるところではある。問題なのは、彼の情だ。
自分もそれに救われたのだから、今更彼のそれを否定するつもりはない。しかし、相手は嘗ての迅のクラスメイトだそうではないか。それもただ席を連ねただけではなく、それなりに仲もよかったことが彼の様子から鈴奈にも伝わってきた。彼が岩島打倒を躊躇い、返り討ちにあってしまうかもしれない。そんな不安が、全くないわけではなかった。
しかし。
「……っあ?」
自分でも間抜けと解る程気の抜けた声と共に、鈴奈は不意に足を止める。
見上げると、キュラスの巨躯もまたその動きを止めていた。辺りを包む静けさもあって、まるで時が止まったかのように周囲の景色全てが停止している。鈴奈も、キュラスも。辺りの全てが物音1つ立てぬ無音のまま数秒が経ち――ややあって、思い出したかのようにキュラスの右腕が揺らぎ、どさり、と大きな音を立てて地面に落下する。
「グ……グガアアアアァァァァァッ!?」
苦しげな、断末魔の如き獣の悲鳴が漆黒の天にまで木霊する。否。それはまさしく、断末魔に違いなかった。見れば醜悪な巨躯の崩壊は、右腕だけに留まらなかった。右腕に続き左腕、翼、そして全身の外殻と、広範囲に及び異形の身体が崩れていく。それを呆然と見つめながら、鈴奈は確信した。
彼が、ついにやってくれたのだ。
膨大な量の粒子となって、散っていくキュラスの身体。あれほどの巨大な身体が数秒の内にもう殆ど消えてなくなっている光景に妙な虚しさを覚え、鈴奈は銃を握っていない左手を胸元へ当て、固く握った。
やがて、巻き上がる大量の粒子は空高く上がって消えていく。これが、この世界で死を迎えた者の末路。毛の一本すらその後には残らない。完全な消滅を前にして、鈴奈の心がざわついた。消滅の瞬間を目にすること自体は初めてではない。けれど彼女の心に今去来するものは、彼女がこれまで経験したどんなものとも違う。
鈴奈は最後の1粒が天へ昇っていくまで、黒ずんだ藍色の空をじっと見上げていた。
☆★☆★☆★☆
「岩島……」
もはや原型もとどめないまでに崩壊した羽鳥邸の瓦礫を踏み分け、迅は倒れた岩島の下へ駆け寄った。
これほど派手に壊しても、それでも現実世界には何の影響もないのだ。それが解っていても、見知った家が、部屋が粉々に崩れているのを見ると心が痛んだ。
迅の呼び掛けに、ボロボロの状態で仰向けに倒れていた岩島は、やがて罅割れた仮面の隙間から目をうっすらと開け、視線を移さぬままそれに答えた。
「迅君……さすがだね、まさかここまで完膚なきまでにやられるとは思ってもみなかったよ」
自嘲する岩島に、迅は無言で首を横に振った。
迅にしてみれば、岩島の思いの強さこそが驚くべきものだった。それほどまでに彼が今回の計画に全てを賭けていたのだと知り――また、それほどまでに彼の雛への思いが強かったことを知り、迅はただただ圧倒されるばかりであった。
戦っている最中に大声で怒鳴ったのも、本当はただ戸惑っていただけなのかもしれない。言葉は間違いなく本心でも、その更に奥深くでは、彼の本当の心に気づけなかった自分への自責の念が渦巻いていた。
だから迅は、彼の賞賛に素直に頷くことは出来なかった。
「もっと……俺達、もっと他にやりようはなかったのかな?」
悔しげに迅の口から紡がれた言葉に、今度は岩島が首を振った。
「きっと、いずれはこうなっていたに違いない。今回のことは、僕の心の弱さが招いた結果だ。自分の欲望を抑えることも出来ず、雛ちゃんの気持ちも考えないで……結局、君を傷つけてしまった」
「……俺のことはどうだっていいんだ。けど、今度現実世界へ戻ったら、また3人で仲良くやろうぜ。それで今度は、ちゃんと雛に今回のことを謝って……それで改めて、告白でも何でもすりゃいいじゃないか!」
努めて明るく、迅は岩島へと語りかける。
岩島にとって、彼の言葉はとても心地よいものだった。まるで、楽しかった中学の頃に戻れたような気がしたから。騒がしいクラスメイト達、馬鹿なことを言っては笑っていた迅、そして――いつも向日葵のような笑顔を浮かべていた雛。昨日のことのように脳裏に蘇ってくる記憶。それは間違いなく、岩島 秀信にとって最も光り輝く宝物であったに違いなかった。
けれど。それでも岩島は、首を縦には振らなかった。
「ど、どうしてっ……!?」
思いもよらぬ彼の返答に、迅は絶望に表情を歪めた。これだけ言ってもまだ解ってくれない、それほどまでに雛を力づくでも自分の物にする欲望を捨てきれないのか。そんな絶望に、迅の声が震える。けれど、そんな闇を抱えている人間には到底思えない程、眼下にある岩島の表情は晴れやかだった。
「もう、遅いからさ……」
そう言って、岩島が指差した先を見て、迅は瞠目した。そこはちょうど、迅の拳がヒットした箇所。ボロボロになった奇術師の衣装が、まるでバグったデータのようにぶれ、その奥からあの光の粒子が漏れ出ている。
ランブルの消滅を既に見たことのある迅には解る。親友の命が、もう僅かしか残されていないということを。
「雛ちゃんは、北区の廃工場の二階にあるロッカーの中だ。現実世界へ戻ったら、出してあげてくれ……」
「ああ……ああ! それは解った! けど、お前はっ……」
「僕、はね……確かに、妬ましかった。君も、雛ちゃんも……」
悲痛な迅の言葉を遮って、苦しげな呻きから途切れ途切れになりながらも、岩島は最後の力を振り絞って語りかける。
「心のどこかで、あそこにいるのが自分だったらって……ずっと考えてた。けど……こうなってみて、やっと解った。君達には、君達の居場所があったんだ。それを壊すようなことは、絶対しちゃいけなかったんだ、って。……死ぬ間際までそれに気付かないなんて……本当に馬鹿、だったんだなぁ、僕ってば……」
「岩、島……」
何か言葉をかけようとするが、見つからない。先程までの激情はもはや影もなく、心の内でどんどんと絶望が広がっていくのを迅は感じていた。それは、先程のように友人が闇に蝕まれていくのを止められない苦痛とは違う。それよりも更に桁外れな絶望が、頭の中を侵食していく。
「ねえ、君は生きてくれよ……?」
「え?」
不意に、力なく肩に置かれた岩島の手にびくりと身を震わせる迅に、岩島はぎこちなく笑った。まるで、世話の焼ける友人を諭すように、岩島は迅に語りかける。
「僕に勝った男が、なんて顔してるんだよ。……君は、この程度で負けちゃいけない。雛ちゃんを泣かせるようなことになったら……その時は、僕が許さないんだからな」
「岩島、俺はっ……!」
残酷にも、時は迅を待ってはくれなかった。岩島の身体はどんどん粒子と化して消えていき、やがてその存在そのものも希薄になっていった。身体全体が透け始め、終わりが近いことを示している。
己の死を悟ったのか、岩島はそっと目を閉じた。
「ああ……まだ、死にたくなかったなぁ」
迅が必死に逝くなと叫ぶも、崩壊は止まってはくれない。やがて光に包まれる岩島の表情は、まるで己の死に一片の恐怖心も抱いていないかのように穏やかなものだった。身体の全てが粒子と化す最後の瞬間まで、岩島は憑き物が降りたかのように静かに〝その時〟をじっと待っていた。
そしてついに、その時は訪れた。彼の体が完全に粒子の塊と化し――やがて、弾けた。それらの光は、まるで吸い込まれるように天空へと登っていき、やがて見えなくなっていく。
「……」
その光景を、少し前に到着していた鈴奈が黙して見守っていた。消えていく岩島の姿を。そして、それを看取る迅の背中を。
つい数分前までは、敵対していたはずの2人。己の得物を携え、それをぶつけ合っていたはずの2人が、死の間際、ほんの少しの間だけ親友に戻ることが出来たと、そう鈴奈には思えた。だからこそ、それを失ってしまった迅の背が酷く儚げなものに見えて、鈴奈は自分でも気づかぬ内に、彼の背中を抱き締めていた。
首へ腕を回し、そっと抱きしめる。腕の中で彼が僅かに震えたが、子供をあやす母親のように、鈴奈は彼に囁やきかけた。
「……終わったわ。帰りましょう」
「……ああ」
消え入りそうな声で答えながら、迅は頷く。
今、この時――迷彩マスク、岩島 秀信が、マスカレイドより脱落した。
☆★☆★☆★☆
その後、反転世界からログアウトした迅は、岩島との話を聞いていた鈴奈を伴って零次、絢香、風華、警察へと連絡をとると、岩島が言っていた場所へ向かった。
果たしてそこへ着いてみると、古ぼけたロッカーの中で縛られた状態で眠っている雛を発見したのだった。目を覚ました時の第一声が、「あれ? もう朝ご飯の時間?」だった時には、皆揃って脱力したものである。
その後の警察の説明によれば、今後も雛を攫った誘拐犯の捜査は引き続き続けるということだった。迅自身も、何故彼女の居場所を知っていたか、など聴取を受けたが、「犯人からの電話で知った。変声機で声を変えていて、誰かは解らなかった」と、ありそうでその実では酷く出鱈目なことを並べ立ててやり過ごした。本来の事実を知っている迅としては申し訳ないという思いもあったが、おそらくお宮入りになるであろう事件を追い続けねばならない彼らに、内心で労いと謝罪の言葉を述べた。
事情を知った学校側は数日間の休養を勧めたが、雛自身それほど疲れている様子もなかったのと、彼女自身が学校へ行くことを希望したことから、1日置いた明後日、雛は見事平常通りの日常に帰っていった。
けれどやはり――彼女は岩島のことを忘れていた。彼女だけではない。嶺原には迅達以外にも中学校の頃同級生だった友人が数人いたが、綺麗さっぱり彼のことだけ記憶から消えていたのだった。迅としては、せめて雛にだけは覚えていて欲しかったと思っていただけに、首を傾げる雛の前で、居た堪れない思いを抱きながら固く拳を握り、思わず涙が出そうになるのを必死に堪えた。
そして。決して少なくない傷を迅の心へ残したストーカー事件から、数日が過ぎたある日――。
「おいおい、どこへ行く気だよ」
「さあ、どこかしら?」
澄まし顔で――それでいて、どこか楽しそうに――歩く鈴奈の横で、呆れ顔でそれに続く迅の姿が街の商店街の中にあった。
今日は日曜。世の人間にとっては貴重なお休みであり、迅も本来ならばそれを謳歌するはずだったのだが、今朝方いきなり彼女から呼び出しのメールを貰ってしまったのだ。迅としても彼女にはいくつか訊きたいことがあったので、会うこと自体は吝かではなかったのだが、待ち合わせ場所で出会うなり「着いてきなさい」と半ば問答無用で連行され、現在もその真っ最中である。
「……お前さ、1つ訊いてみたいことあるんだけど」
「何かしら?」
目的の場所とやらへ連れて行かれるまでの退屈凌ぎにはなるか。そう考えて問いかけた迅へ、鈴奈も前方へ視線を向けたまま答える。
やや熱く感じ始める日差しがさんさんと降り注ぐ中、商店街独特の喧騒が徐々にその勢いを増してきている。そんな中においても、小波 鈴奈という少女の存在感は少しも埋もれることはなかった。
「お前がこの街に来たのって、やっぱりあの……ブラッドマスクを探すためだったのか?」
「ええ、そうね。全国津々浦々を渡り歩いて、ブラッドマスクを探す旅の途中……といったところかしら」
ブラッドマスク。彼女が追い求めている仇の名。反転世界にいた時の彼女の動揺から、それを安易に口にするのははばかられる思いがあって、後半はやや口篭ってしまった迅であったが、存外彼女はあの時のような動揺を示すこともなく、冗談を言う余裕さえ見せた。
そのことに素直に驚いていると、それに気付いた鈴奈は唇を尖らせる。
「何よ。貴方が言ったのよ? 少しは頼れ、って。私は貴方を信じることに決めたの。だったら……隠し事はない方がいいでしょう?」
「まあ、そりゃそうなんだけどな」
取り越し苦労に溜め息をつく迅。これでは気を遣っていた自分が馬鹿みたいだと嘆息していると、鈴奈はそれにしても、と隣を歩く迅を見上げた。
「……貴方がまさか、あの迷彩マスクを倒せる程強くなっていたなんてね」
「大したことじゃねえだろ。あいつに勝てたのは、あいつの戦闘力自体があまり強くなかったってだけだからな。幻影のトリックに気づけたのだって、あいつがペラペラ喋ってくれたおかげだし」
事実、あの迷彩マスクは、ブラウンマスクこと井出 宗次郎よりも戦闘力は劣っていたように思える。幻影のトリックに気付くことが出来なければ解らなかったが、それを看破出来た後となっては、迅にも勝算は十分にあったのだ。
けれど、おそらくそれは鈴奈も理解しているだろうに、彼女は首を縦には振らなかった。
「それでも、〝それ〟に気付けたのは貴方の力よ。もっと誇っていい。……ううん、誇るべきだわ」
「そ、そうか」
真っ直ぐに見つめてくる、吸い込まれそうな黒い瞳に思わずドキリとする。澄んだ瞳は彼女自身が思っている程汚れているとは到底思えず、そこにいるのはあのような死地に幾度となく踏み込んだとは想像もできない、1人の少女にしか見えない。
白い肌は透き通るようで、艶やかな黒髪はよく手入れされていてさらさらと風に靡いていて――。
(……って、おいおいおい……待て待て待て待て待て。あの鈴奈だぞ? 冷血女なんだぞ? 何ドキドキしてんだしっかりしろ俺!)
心の中で起こった動揺をなんとかして鎮めようと、心の内で叫びながら迅は深呼吸を繰り返す。そんな彼の様子に訝しげな視線を送っていた鈴奈だが、ある店の前まで来たところで不意のその足を止めた。
「さ、着いたわよ」
「はぇ?……って、ここって……」
動揺していたところへ不意に声をかけられたせいか、思わず奇妙な声を上げてしまった迅は、鈴奈の言葉に、彼女の視線の先を辿った。
明るいカラフルな文字の周囲に、何やらオシャレな漫画のイラストが描かれた一軒の二階建ての建物。商店街から出たことで増えてきた周囲のビルに比べれば明らかにこじんまりとしているが、住居に比べれば大きい部類に入だろう。
果たして、その建物とは――。
「……ここ、ネットカフェじゃねえか」
「さ、行きましょう」
呆然と立ち尽くす迅を置いて、鈴奈はさっさと1人で中へ入っていってしまう。いつまでも入り口に突っ立っているわけにもいかないので、迅も中へ入ることにした。
透明の自動ドアをくぐると、そこには異空間が――あくまでも、迅から見た場合の感想だが――広がっていた。何せネットカフェなど入るのは人生で初めてなのだから、迅にしてみれば、まるで知らない世界の片鱗を覗いているような気分であったのは間違いなかった。まずカウンターが左手にあって、その奥にフリースペースらしき空間が、右手の奥の方の通路の脇には個室のものらしきドアが幾つも並んでいる。カウンターで鈴奈が手馴れた様子で手続きを済ませ、それが終わると迅の方へ向けて手招きする。
再び溜め息をついて、迅は彼女の求めに答えた。
「何だよ」
「ここ。サインして」
「サインって……おい、ちょっと待て、俺はネットカフェの会員になんかなるつもりはないぞ。たぶん、これからも」
パソコンなら自宅のそれで間に合っているし、むしろそちらの方が操作も手馴れていて安心である。マスカレイドだって、これまでどおりそこからログインすればいいではないか。そんな迅の心境を察したのか、鈴奈はそっと耳打ちする。
「ログインする場所が一緒の方が都合がいいのよ。これから貴方の能力を徹底的に鍛え上げるのだから。ログアウトのポイントが同じ方が、安心でしょう?」
「……はっ?」
今何か、聞捨てならない言葉が聞こえてきたような気が――。言葉も出ず呆然としている迅へ、鈴奈はニヤ、と悪戯っぽく笑った。
急なことで、何が何だか訳の解らない迅。だが、1つだけは辛うじて理解できた。それは、ああ、やはり彼女は〝小波 鈴奈〟なのだということ。どれだけどれだけ心を許そうが――彼女の根源的な部分、不遜な小波 鈴奈という名の魂は何1つとして変わることなど有り得ない。先程の胸の高鳴りを返して欲しいと声高に叫びたい思いの迅であったが、そんなことをして赤っ恥をかくのは自分なので実行に移すことはない。だがせめて文句の1つでも言ってやろうと、迅は口を開く。
「お、お前なあっ……!」
「あら、力になってくれるのでしょう? だったら相応に強くなってもらわないと」
非常に彼女らしい不遜な言いように、迅は再び口を開きかけて――止めた。どの道この少女に口で勝てないことは、これまでの経験が嫌という程証明しているではないか。それを思い出した迅は、喉元まで出かかった言葉をやっとのことで飲み込んで、代わりに大きく息を吐くと、渋々ながらカウンターの上で今か今かと待ち受けている書類にペンを走らせる。
その様子を嬉しそうに笑いながら見つめている鈴奈には最後気づかぬまま、迅は最後の一筆を書き終え、書類を店員へ渡した。手続きは程なくして完了し、店員から手渡された会員証を迅は財布の中へしまう。
「……まさかこんな形で、世の波に乗っかるとは思ってもみなかったよ」
「流行に乗れて何よりじゃない。これで終電を逃そうが、いつでもここを寝ぐらに出来るわね」
「その時が永遠に来ないことを祈りたいものだけどな。俺としては」
尤もこのネットカフェから自宅までは電車がなくとも行ける距離であるから、冗談ではなく本当にその時が訪れることは永遠にないのだが。
店員に指示された空部屋の前まで歩いていく。幸か不幸か、2人の部屋は隣同士に位置していた。
「いい? これから貴方には、他のどんなプレイヤーとも戦えるだけの力を身につけてもらうことになるわ。私の目的のために……何より、貴方自身が生き残るために」
「そりゃ、ベテランのお前にご教授いただければありがたいけどな……。けど、いいのか? 俺が強くなるってことはだ、もし俺がお前の敵になった時、俺はお前にとって凄く厄介な敵になるってことなんだぞ?」
「言ったでしょう? 私は貴方を信じることに決めたの。家族を殺されたあの日から、一度も人を信じてこなかった私が、初めてそう思えたのよ。貴方のこと、信じてみたいって。その思いを……無駄にしないで頂戴」
彼女は、全てを覚悟の上で迅を受け入れようとしている。あのような血塗られたゲームの中を生きる者同士――いつ裏切られるかも解らぬ中で、鈴奈は自分を信じてくれると言っているのだ。それに答えないことは、迅には到底できそうになかった。
ならば自分も、覚悟を決めよう。彼女を助け、時に助けられながら、あの絶望の中を生き抜いてやろう。確かに恐怖はある。けれど、少なくとも今の自分は1人ではないのだ。その事実が如何に心強いものか、迅は己の心に熱いものがこみ上げてくるのを感じ、拳を握り締めた。
「あっちでまた逢いましょう。じゃあね……〝迅〟」
はにかみながら先に隣の個室の中へ消えていく鈴奈に、一瞬驚いて迅は目を見開いたが、やや間を置いてやれやれと苦笑した。
「……初めて名前で呼んでくれたな」
思えば最初から、彼女から自分を呼ぶのはいつも〝貴方〟だった。それを思えば、少しは打ち解けてくれたのだろうか。そう思うと苦笑を浮かべずにはいられなかった。
ひと足遅れて、迅もまた個室のドアを開けた。中は、想像していたよりも広い。おそらく迅の自宅の部屋をやや狭めれば、これくらいになるであろうという程の広さだ。さすがにカフェの名を与えられているだけあって、寛げるくらいのスペースは確保してあるということなのか。どこのネットカフェもこうなっているのか、初めての利用である迅には解りかねた。
そして、ネットカフェなのだから当然だが、中央には据置型のパソコンが1つ。鈴奈によれば、マスカレイドプログラムはマスクを手にしていさえすれば、どのパソコンだろうが呼び出すことが可能らしい。則ちそれは、このネットカフェ備え付けの端末でも可能であるということである。鈴奈に予めマスクを持ってくるよう言われていた迅は、手提げからマスクを取り出した。鮮やかな赤のマスクが、ネットカフェの照明を照り返して輝き、妙に神々しく見える。
ややあって、迅はそれをパソコンの画面へ向けてかざした。未だにどのような理屈なのか想像も出来ないが、リーダーも何も付いていない癖に、やや古ぼけた印象を受ける据置パソコンはマスクの情報を正しく読み取り、あの血のように赤いウインドウを出現させるのだった。
これから自分の人生がどのような軌跡を辿るのか、それは解らない。井出のように消されてしまうかもしれないし、岩島のように、膨大な己の欲望に呑まれてしまうかもしれない。けれど、既に運命は決定したのだ。逃れようのない大きな運命に、既に飲み込まれてしまっている。
ならば、最後まで抗ってやろう。それこそが残された道ならば、進むしかないのだから。
そして。レッドマスクのバトラーは、今日もまた死地へと赴く。誰がためでもなく、彼自身が明日の日常を生きるために――。
どうも皆様、お久しぶりです。序章の後書き以来ですね。
普段から交流をしていただいている方にはこんにちは。どうも、神崎です。
Log-in 〝War〟ld第1章、お楽しみいただけましたでしょうか。
今回の章は雛の誘拐事件について描いたわけですが、読了いただきました方にはお解りのとおり、実質的には鈴奈との和解の章であったりもするのです。これから2人で戦っていってもらうためには、どうしても必要な章でありました。
そして更にもう1つ、何気に迅としては初めての対プレイヤー戦。勝利しても、それは結果的に親友を殺めたことに他ならない……。こんな後味の悪さも、Logの特徴の1つだと個人的には思っています。
さて、次ですが。1.5章と銘打ちまして、次の事件に移るまでの閑話を書きたいなと思っております。要するに、日常編ですね。
このLog-in 〝War〟ldで描きたかったことの1つに「日常と非日常の世界の対比」があるので、こういった日常話は何気に外せない回なのです。
非日常を生きる鈴奈と、日常を生きる雛達クラスメイト。そして、日常と非日常の間をさ迷い続ける迅。この3グループが今後どう絡んでいくのか、執筆する神崎自身も楽しみにしているところでございます。
では、次章の後書きでまたお会いしましょう。