第5話 【執着の咎】
そこは、月の光すらも差し込まぬ暗い屋内。迷彩マスクは誰もいない羽鳥 雛の部屋の中へ侵入するとすぐ、窓を閉め切り、全ての出入り口を塞いだ。荒くなった息を整え、へなへなと魔法陣の上にしゃがみこむ。まるで塞ぎ込んだ子供のように体育座りすると、自身の膝へ顔を沈ませた。
「雛ちゃん……僕達の間には、壁が多過ぎる」
と、不意に顔を上げた彼は、何もない真っ白な壁を見つめながらそう呟く。
「何故なんだ……。僕達は、運命で繋がった仲じゃないか。君は僕のものなんだ。僕は君を、絶対に幸せにしてみせるって誓ったのに……!」
手を伸ばすが、彼の言葉に答えてくれる者は誰もいない。ここは仮想空間。人の温もりなど感じられぬ、冷たい血に彩られた世界。そこにあるのは弱肉強食という摂理に見合う、血を血で洗う戦いだけだ。ただ己の欲望に従い、敵を出し抜き、貶めて。そうやって生き残ってきた彼に、この空間で抱きしめてくれる存在などいようはずもない。
もし、いるとするなら―――。
「……見つけたぜ。ここまでだっ!」
彼を憎み、その行いを邪魔せんとする存在くらいのものだろう。
部屋のドアを勢いよく開け放ったレッドマスク―――風上 迅は、まるで天に慈悲を乞うかのように手を上げた姿勢のまま微動だにしない迷彩マスクへ、拳を突きつけた。そのすぐ後ろには、宝石銃を手にした鈴奈の姿も見える。
「……君達か。随分早かったな」
一方の迷彩マスクは、彼の〝城〟にいた時までの威勢が嘘のように覇気を失った声で答え、ゆらりと立ち上がった。
迷彩マスクと迅達2人の距離は、まさに目と鼻の先。互いに互いが間合いの中にいる。もしこの瞬間に互いに仕掛けようものなら、リーチの差で僅かに迷彩マスクが有利というところだろうが、構えているのは迅のみで、実際にそうなった時どちらの得物が先に相手へ届くのかは未知数だ。
それに気付かない迷彩マスクではなかろうに、しかし彼は鉤爪を嵌めた手を無気力にだらんと下げたまま、上げようとはしなかった。けれど、全く戦う意思がない、というわけでもないのだろう。事実、迷彩マスクはまるで番犬のように魔法陣の上から離れようとしない。まだ、魔法陣に希望を持っているのだろうか。
「……もうやめようぜ。なぁ、〝岩島〟」
そんな時、不意に迅が口にした名に、迷彩マスクはマスクの下で瞠目する。ぴくりと肩が震え、驚愕の眼差しで迅へ問う。
「……気づいてたのか」
「お前言ったよな。〝中学の時、テストで100点を1回しか取ったことない〟って。テストの点数なんて、よっぽど仲のいい友達と家族くらいにしか話したことねぇからな。雛以外に話したことある人間っていったら、仲が良かったお前くらいのものさ」
「そうか……くっく、君の言うとおりだな。つくづく僕は喋りすぎた」
迷彩マスク―――否、岩島はそう自嘲した。
「……何でだっ。どうしてお前が雛を……!?」
あって欲しくはなかった、そんな思いから迅は岩島を問い詰める。訳が解らなかった。本当に、彼はいい友人だったのだ。雛とも仲良くしていたけれど、それは本当に〝仲のいい友達〟の域であって、こんな大それたことをする人間にはとても思えなかったのだ。この前会った時も、あの頃のまま変わらぬ彼だと思っていたのに。
けれど、胸ぐらを掴まれながら、そんな迅を岩島は嗤う。
「僕だからこそ、さ。僕はね、雛ちゃんが好きだったんだよ。ずっとずっと……中学生の頃からね」
「嘘、だろ……!? だってお前、今まで一回もそんなこと……」
「言えるわけないだろ!……全く、妬ましかったよ君が。僕と同じで度胸もない、おまけに超も付く程鈍感な君が、ただ幼馴染ってだけで彼女とどんどん仲よくなっていくのを見ているのはねっ!」
言葉を荒らげる岩島の態度に、その言葉が本当に嘘ではないのだと悟り、迅は呆然とする。まさか、あの岩島が雛のことをそんなふうに見ていたとは思いもよらなかった。
親友だと思っていた彼が、実は自分を妬んでいた。岩島のことだ、これまで関係を壊すまいと溜め込んできた思いが、マスカレイドのプレイヤーとなったことで爆発し、今回の凶行に走らせたのだろう。
では、この魔法陣はやはり―――。
「間も無く、僕の計画は最終段階に入る! 雛ちゃんは……雛ちゃんは僕と一緒に、永遠にこの世界で暮らすんだ!」
「仮想空間と現実世界を行き来出来るのは、プレイヤーだけよ」
狂気的に叫ぶ岩島の言葉に、これまで静観を決め込んでいた鈴奈が口を挟んだ。冷静さを取り戻した鈴奈の姿に僅かに眉を顰めながら、岩島はそれを否定する。
「それが出来るんだなぁ。この術式を使えば、電脳世界を通じて現実世界とコンタクト出来る!」
「まあ、〝彼〟という前例がいる以上、全く有り得ないことではないということは理解できるのだけれど。けれど……解らない。貴方の能力は〝魔物使い〟のはずでしょう? 能力を2つ以上持つプレイヤーなんて……」
「それはそうさ、僕のこれは能力じゃないからね。これまでの戦績に見合った対価……褒賞で得たものさ」
「……アップデートデータ」
岩島から帰ってきた答に、鈴奈は微かに目を見開いて驚いた。これまでの経験上、マスカレイドから与えられる褒賞は決まって金など、主に現実世界での生活に関連するモノが多くを占めていた。
しかし極稀に、USBメモリという形で、マスカレイドをアップデートすることができるパワーアップアイテムが送られてくることがある。おそらく岩島はそのパワーアップアイテムを用いて、現実世界とコンタクト出来る魔法陣の組成を知ったのだ。元々〝魔物使い〟は魔法陣を用いた戦いに長けた能力だ。組成さえ理解できれば、作成は容易だろう。
鈴奈の呟いた言葉、それこそが正解だというように、岩島は黙して肩を竦めた。
「……さて、お喋りはここまでだ。準備も間も無く終わる。誰にも邪魔はさせない……させてなるものかぁっ!」
それまでのまるで観念したかのように穏やかな表情から一変、狂気の表情を浮かべて岩島は吠える。白い壁に紅い魔法陣が一瞬にして描かれ、そこからキュラスが飛び出してきて岩島の隣に立った。突然の登場には、迅だけでなく鈴奈も身構えたが、異形の騎士はまるで微動だにせず岩島の隣に威風堂々と仁王立ちする。
「僕に残った手駒は、ついにこいつ1体だけになってしまった。……けどねっ!」
まるで大層な芸術を愛でるようにキュラスの胴を撫でた直後、岩島は彼の胸に手を突き立てた。そこを中心に一気に魔法陣が広がっていき、キュラスの身体はまるで雷に打たれたかのように引き攣った。キュラスから上がる苦しげな呻きが、それが決して心地のいいものではないことを如実に表している。
「何をっ!?」
迅が戸惑い叫ぶ視線の先で、キュラスの身体がどんどんと膨れ上がっていく。メキメキと、まるで何かが千切れるような嫌な音と共に、人並みの体躯がみるみる内に、外見上も人ならざるモノへと変化していく。
変化が始まったのも唐突なら、終わったのもまた唐突であった。元々は成人男性程であった体躯は、今では熊のように膨れ上がっている。準備は整った、とばかりに、キュラスは轟くような咆哮を上げた。
「使役するランブルは、こうやって強化することだって出来る。……さあキュラス! お前の力でこの邪魔者達を踏み潰してしまぇぇっ!」
人の背丈の倍程までに大きく膨れ上がったキュラスが、耳障りな程大きな咆哮を上げた後背の翼をはためかせ、迅と鈴奈の2人を巻き込んで外へ突っ込んでいく。
「ぐぁっ……!?」
「がっ……!?」
壁を巻き込んだその先でコンクリートの上に直接叩きつけられ、2人は同時にうめき声を上げた。そのすぐ目の前に、キュラスの巨躯が降り立つ。2本の脚によって踏みしめられたアスファルトは、その重みに耐え切れず蜘蛛の巣状に罅割れた。
「くそっ、なんてパワーだこのデカブツ……!」
毒づきながら、痛みを堪えて迅は立つ。隣で同様に苦渋の表情で立ち上がる鈴奈を一瞥し、直後にキュラスが拳を構えているのに気付いた迅は次の瞬間、その彼女に突き飛ばされた。キュラスの拳が突き刺さった場所が、大きく陥没する。鈴奈の宝石銃によるものとは比べ物にならない規模のクレーターを目の当たりにして、2人の背に冷たいものが走った。
「とにかく、止まっていたら危険よ。幸い動きはそれほど早くないから、走り回って攪乱を……って、何よ」
作戦を話している最中に、不意に迅が笑顔を浮かべながら自分を見ていることに気付き、戦闘中にも関わらず何を、と訝しげに鈴奈は問いかけた。再び放たれた強烈な一撃を左右に分かれて跳んで躱したところで、迅はその問いに答える。
「いや、別に。なんかいいな……って思ってさ。こういうの」
「……ええ、そうね」
迅の言うことに、鈴奈も否定することなく頷く。口元に微笑みを浮かべながら、彼女は宝石銃のトリガーを引いた。少し前までの、どこか小馬鹿にしたような、冷たい笑みとは違う。まさしくそれは彼女が初めて見せた、心からの微笑みであったに違いなかった。
青白く輝く光弾が、肥大したキュラスの体躯を捉える。表皮がそれだけ丈夫ということなのか、それともただ単に奴がタフなだけなのか、一切ダメージを負った素振りも見せず、キュラスは腕を振るう。
迅と鈴奈が跳んで避けた位置にあったアスファルトや石垣が、暴力的一撃に抉られ瓦礫となって宙を舞う。無茶苦茶な膂力を発揮するキュラスを前に、鈴奈は空中からも砲を発射した。落下しながら、という満足に狙いも定められない状況でありながら、彼女の銃は標的を見失うことはない。撃ち出された閃光は闇夜の暗黒を貫き、流星のような煌きを残してキュラスの巨躯へ降り注ぐ。
絶叫が辺りに響いた。数発がキュラスの目など柔らかい部分を捉え、初めてダメージらしいダメージが入る。
しかしそれでも、キュラスはたたらを踏んだだけで、倒れることはなかった。粒子となって奴が消滅するまで、この戦いが終わることはない。彼は岩島の僕であり、岩島が撤退を決意しない限り、彼が戦いを止めることなど有り得ないからだ。
「くっ。私の銃じゃ、パワーが……」
「かといって、チャージしている時間は与えてくれそうもないしな……」
言っている傍から、キュラスは滅茶苦茶な軌道で腕を、肥大化した際に生えてきた長い尾を振るってくる。どうするか、と迅は跳んで躱しながら逡巡するが、どう考えても策は1つしか浮かんでこなかった。
「仕方ねぇ、俺が突っ込む。援護は任せた!」
鈴奈の制止も待たずに、迅は大きく前へ踏み込んだ。途端、背後から鈴奈の叫ぶ声が聞こえてくるが、それはすぐに青白い銃弾に置き換えられた。言っても無駄だと理解したか、それとも彼女にも、キュラスへクリーンヒットを当てるには迅の拳しかないと結論づけたのか。いずれにせよ、鈴奈は下手に迅を引き戻すより、援護に徹することを選んだようだ。
迅に襲い来るキュラスの拳や尾は鈴奈の銃弾が弾き、無理やりにでも軌道を変更させる。たとえ破壊することは出来ずとも、それらは十分な援護となって迅の進む道を作り上げた。
やがて迅は、キュラスのすぐ目と鼻の先にまで到達した。一層大きな咆哮を上げ、キュラスが振るった最後の腕も、虚しく鈴奈に弾き飛ばされた。
「これ、でぇっ!」
拳を下段に溜め込んで、力をそこに集約する。青白いオーラが、青という色を感じさせないまでに白く滾り、バチバチと帯電して迅の拳を覆う。迅が現在可能とする限りで、最大級の力が今、彼の右拳に宿った。
次の瞬間、ドン! と、巨大な衝撃波が辺りを薙いだ。一撃が振るわれたのは、実に一瞬の出来事。強烈なアッパーが、キュラスの鳩尾を下から突き上げる。彼の身体が、数メール浮いた。それほどの――人間の体の実に倍近い巨躯があっさり浮いてしまう程の、強烈な一撃。キュラスの表情が崩れ、耳障りな悲鳴が空高くまで上がった。漸く、まともなダメージが入ったらしい。ズズン、と地響きを立てて倒れ込むキュラスの身体を挟むようにして、迅と鈴奈は頷き合った。あまり、彼ばかりに気を取られているわけにはいかない。こうしている間にも、岩島は着々と現実世界とのコンタクトの準備を整えつつある。幾ら鈴奈がベテランといえど、そのようなイレギュラーな事態、実際に起こってしまったら対処のしようがなくなってしまう。
早急に、岩島の下へ戻らねばならない。だが、一見ダウンしたように見えたキュラスが再び動き出したのを見て、2人は得物を構えた。
「貴方は行って!」
「け、けどっ!」
今の渾身の一撃で相当のダメージを与えられたとはいえ、キュラスの体躯はその全てが未だ健在している。〝刹那の支配者〟がある彼女なら直撃はないだろうが、それでもあの怪力を見た後では不安も残った。だからこその躊躇。彼女をここに1人置いていくことへの躊躇いが、迅の脚を止める。
けれど鈴奈は、尚も「大丈夫!」とキュラスを挟んで反対側にいる彼へ向けて叫んだ。
「何年戦ってきてると思ってるの? こっちは私に任せて、さっさと決着付けてきなさい! 羽鳥 雛を救うのでしょう!?」
「お前……!」
想像以上に、鈴奈は迅のことを気にかけていたようだ。理屈の上でも、ここで手練である鈴奈が残るのは理に適っていると言えるが、決着をつける役割をあっさりと譲ってくれたことに迅は僅かなりとも驚いていた。
しかし、そういうことなら、と迅は無言で首肯すると、踵を返して羽鳥邸の中へと駆けていく。その後ろ姿を見つめ、鈴奈は静かに溜め息を吐いた。
「全く……我ながら、らしくないことをしたものね」
このような役回り、これまでの自分であればまず頼まれても引き受けることはなかっただろう。人を裏切り、裏切られ、騙した数だけ騙される。そんな欺瞞に満ちた世界。それがマスカレイド。欲望という名の闇ばかりが広がる世界で1人戦い続けてきた鈴奈は、久しく忘れていた感情があった。
信頼。人を信じるという、現実世界ではごく当たり前の感情を、鈴奈はいつの間にか何処かへと置いてきてしまっていたのだ。人を頼ることがマスカレイドにおいてどれだけ危険か、幾度となく体験していた鈴奈は、次第に現実と仮想の区別なく、人を信じきることが出来なくなっていた。
けれど、この足止め役を買って出たのは――確かに、迅を信じる心が成した結果である。そんな己の思わぬ変化に鈴奈は小さく嘆息したが、その口元は綻んでいた。
目の前でキュラスがよろよろと起き上がり、走っていく迅の背がその巨躯に隠れ、見えなくなる。先程迅が殴りつけた箇所から粒子が立ち上り、そのダメージの規模を物語っていたが、キュラスはまるでそれが気にもならないかのように再び構えを取る。
「さあ、来なさい木偶の坊。内臓に風穴開けてあげるわ」
ニヤリ、と妖艶に笑い、鈴奈は宝石銃をキュラスの鼻先に突きつける。目の前の巨躯を前にしても、今や恐怖は何もない。
ゴングの代わりに銃声が数発轟き、戦いは第二幕を迎えた。
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「岩島アアァァァァァッ!」
咆哮を上げ、窓を叩き割って雛の部屋へ突入した迅は、そのままの勢いで岩島の首根っこを掴み、床へ押し倒した。
突然の襲撃には岩島も驚いたのか、仮面の下で瞠目しながら、されるままに床の上を転がる。上になった迅を蹴り飛ばし、一旦距離をとった岩島は、鉤爪を展開して戦闘準備を整えると、知らぬ内に荒くなっていた息を整えた。
「くそっ、まさかあの状態のキュラスを突破してくるなんて……」
「岩島っ! もうここまでにしておけ! 大人しく雛を解放しろっ!!」
叫びと同時に大きく前へ踏み出し、一気に岩島の懐へ飛び込んで下段から強く握り締めた左拳を振るった。彼自身の戦闘力が乏しいことは、彼の〝城〟とやらでのやり取りで解っている。故に恐れることはないと、迅は果敢に攻め入った。
初撃は爪に防がれた。金属質なガントレットと爪とが激しく衝突し、甲高い音を立てる。けれどパワーでは迅が完全に上回っており、岩島の手は銀色に煌めく鉤爪ごと上に大きく跳ね上げられた。両腕をもってして防いだ故に、それを弾かれてがら空きになった胴へと、右ストレートが吸い込まれていく。
「がっ……」
悶絶しながら吹っ飛ばされた岩島。雛のベッドの傍の壁を粉砕し、尚もその奥の部屋の床を転がる姿を見れば、迅の放った一撃の威力が理解できるところであろう。もはや、微塵も遠慮することはない。無論殺しはNGだが、雛を救うため、また岩島を欲望から解き放つために、迅は存分にその拳を振るう。
壁に開いた穴をくぐり、尚も迅は追撃するが、岩島も黙ったままではない。唯一彼が迅を上回っていると言えるのは、得物のリーチだ。迅の拳と彼の爪では、どちらの方が早く目的の場所に攻撃をヒットさせることが出来るかといえば、それは一目瞭然である。岩島自身それを理解しているのか、迅の拳が自分の身体を捉える前に、爪で弾き返そうと必死に食らいつく。
けれど、いかにリーチの差があろうと、それを操る力量に差があるのならば、結果は必ずしも1つではない。事実、先程から岩島の爪は迅の拳を徐々に捉えられなくなってきている。それに、上手いこと命中したとしても迅の拳の方が明らかに重く、腕ごとはじき返され、がら空きになった胴へジャブの連打を食らってしまう。
もはや流れが完全に自分の手の届かないところへいってしまったことを悟り、岩島は半狂乱になって叫んだ。
「何故だ、何故僕の邪魔をするんだっ! 運命なんだぞ!? 彼女と僕が出会ったのは運命なんだ、だったら僕が彼女を手に入れたってなんの問題もないじゃないかっ!!」
「何でそう短絡的にしか考えられないんだよ! 雛はモノじゃない! 誰のものでもないんだっ!!」
叫びながら、岩島の言葉を聞いた迅の心がざわつく。
嘗ての恩師だけでなく、嘗ての友までもが、このイカレたゲームの犠牲者となってしまった。そう、彼は犠牲者である。このマスカレイドでは何をやっても罰されることはない。法も、倫理も、全てが及ばぬ無法地帯。心が弱い者は、欲望という名の魔物に忽ち心を食われてしまう魔窟。彼も―-岩島も、このゲームに優しい心を食いつくされてしまった。そんな友の姿が見に耐えなくて、迅は歯を食いしばってそれに耐えた。
目を逸らしてはならない。あれはもしかしたら、未来の自分の姿かもしれないのだから。いつ彼のように、理性をなくして己の欲望に負けてしまうか解らない。始めは死が恐ろしくとも、人は慣れる生き物である。戦いに慣れ、騙すことに抵抗がなくなり―-そうして堕ちてしまわないという保証が、一体どこにある?
だからこそ、迅はしっかりと正面から、醜く変わってしまった親友の姿を見た。そうすることで、自分を戒めるように。
「じゃあ、君がさっさと雛ちゃんを彼女にすればよかったんだ! そうしていればまだ諦めもついた! けど、君がいつまでも中途半端だから……だからあああぁぁっ!!」
咆哮と共に鉤爪へ青白い光が迸り、初めて迅の拳が正面から押し負ける。それがまるで岩島の気迫によるものであるかのように感じられて、迅は気圧されかけた。
が、迅とて譲れないものはある。そのために、彼はここまで来た。岩島を止め、雛を救う。そのためだけに今、風上 迅はそこに立っている。
「お前こそ、あいつが好きなら傷つけんな! 怖がらせるな! あいつはな、お前のストーカー行為を、唯一の肉親であるはずの風華さんにも相談できなくて、1人で震えてたんだぞ!? 自分のエゴを押し付けて、1人で満足して、そんな奴にあいつを好きになる資格なんか……あるものかよっ!」
迅の拳にも、眩い程の青白い光が集約した。互いの得物が、再び激突する。両者の力関係が戻り、迅の拳が再び岩島の鉤爪を押し返し始めた。
「こ、のおぉぉぉぉぉっ……風上いいぃぃぃぃぃぃぃっ!」
岩島の迅を呼ぶその声は、今や憎悪の叫びに等しかった。もはや、彼の顔に少し前までの人を嘲るような笑みはない。ただひたすら、怒りや憎しみ、彼の欲望が生み出したのであろう様々な負の感情が重なり合った憤怒の表情を迅へ向け、より一層巨大な光を纏った鉤爪を大上段に構えた。
(でかいっ……!?)
羽鳥邸の部屋を、3つは優に飲み込める程の巨大な刃。天井を破り、天にも届かんばかりの大きさにまで肥大化した鉤爪は、もはや〝爪〟などではなく、〝剣〟に等しい。
その大きさに戦慄していたのも束の間、迅は瞬時に思考を巡らせた。刃は5本。光の刃が出現しているのは右手の鉤爪だけというのは幸いであったが、5つもの刃を躱しきるというのは至難である。
であるならば、方法は1つ。正面から受け止め、そして打ち破るしか手立てはない。
拳に、力を再び集約する。今度は普段の比ではない。持てるだけ、ありったけを込めた力は光の拳となって、岩島が作り出した刃に匹敵する程の大きさにまで膨れ上がった。
一瞬の静寂。どちらからともなく、両者は己が力を解放した。迅の拳が、岩島の剣が、轟音を上げながら大気を裂いて衝突する。キュラスを殴った時とは更に比べ物にならない程の巨大な衝撃波が部屋の内装を吹き飛ばし、見るも無残な爪痕を残した。両者の力は拮抗しているかに見えた。が、滾る感情をぶつける迅の一方、岩島の表情には苦痛の色が浮かぶ。必死に、衝撃に耐えているのだろう。けれどそれを見ても、迅は一歩も引かなかった。
「ああああああああああああああああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!」
ただ、一撃に全てを込めて。思いのままに、天高く響き渡る絶叫を上げ、迅は更に拳を押し込んだ。瞬間、まるでガラスが割れるような音がして、岩島の〝剣〟が罅割れ―-崩れ落ちた。
「な……」
岩島の目が大きく見開かれた。信じられない、と口元が動くが、それが言葉にされることはなかった。
そうなる前に―-眩いほどの極光が、彼の全てを吹き飛ばしていった。