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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。

ジャンルがよく分からない系

信じたい気持ち

作者: 花厳 幽花
掲載日:2026/10/07

彼氏が浮気しているかもしれない。私は不意にそう思った。


いつもならすぐに帰って来るメッセージの返事が遅い。会った時の、こちらに全く興味のなさそうなあの目。この前デートをした時も、私を見ることなくずっとスマホの画面へと視線を落としていた。


それどころか、彼は『男の友達と遊ぶ』と言ってどこかへ出かけることが多くなった。今までは行き先も、誰と遊ぶかもきちんと私へ教えてくれた。それなのに、どうして。


私は深夜、一人だけの部屋で涙した。不安な感情が、絶え間なく心を打ち付ける。私は彼を疑いたくない。今すぐにでも真実を教えてほしい。そんな衝動が私の体を突き動かす。


私はメッセージをやり取りするアプリを開く。彼へ直接問いただそうと思ったからだ。固定して一番上に表示された彼とのトーク履歴を押す。無駄に飾り付けたネイルの硬い音が響く。


『また友達と飲みに行ってくるよ。もちろん、男だから』

『わかった。なるべく早く帰ってきてね!』


先ほど会話した内容がしっかりと残っている。彼はアルバイトをしているのだが、その帰りにバイト先の友達と飲みへ行くとのこと。

正直、私はこのバイト先の友達を知らない。顔すら知らない人物に、彼のことを独占されるだけでも腹が煮えくり返る。


そもそも本当にこの友達は男なのだろうか。

バイト先で仲の良い女友達などではないのだろうか。


そう考えると、さらに頭の奥に不安が広がった。


溜め息を吐く。ベッドの上で横になって、ひたすらスマホを弄る。動画配信アプリを適当に開き、ショート動画を狂ったように見漁る。いや、文字通り狂ったに違いない。


無駄に伸びた黒い髪を指で掻きわけて、頭皮を掻き毟る。変だ。痒みが治まらない。


私は自身の左腕を見た。何本もの細い線が走っている。酷く荒れたその腕は、私が自分で切ったものだ。

今は彼にカッターナイフを取り上げられてしまい、自分を傷付けるための道具がない。


私は抑えきれない心の暴走を、自傷行為で押さえつけていたのだ。


照明を消す。真っ暗になった部屋で、私はベッドの上で起き上がる。


不安な感情も、自傷行為へ走りたくなる衝動も今は何も感じない。ただ、ぼうっと思考停止したままの姿を晒していた。


通知が鳴って我に返った。すぐさまスマホを確認する、しかし、期待とは裏腹に彼からの連絡ではなかった。


私は肩を落とす。途端に、自分を傷付けたくなる。


思わずベッドから降りた。衝動に駆られるがまま、私はキッチンへ。包丁を手に取る。暗闇に紛れ込む凶器が、視界の中心に。

呼吸が乱れる。心臓の音が高鳴る。腕を切った時の血の生温さ、頭が痺れるような痛み。脳内で鮮明に蘇る、何度も繰り返し見て感じた光景。包丁を持つ手が震える。


そう言えば、彼にはリストカットをするなと言われていた。


私は彼の言葉を思い出し、包丁を離そうとキッチンの棚へ。しかし、手から包丁は離れてくれない。


私を傷付けたいのは私だけではない。この包丁も同じだ。私を切って切って切り刻んで、痛みを植え付けたいのだ。


真っ暗な部屋の中、私は獣のように息を荒げる。

私がいじめに遭っていた時を思い出す。クラス全員から蔑まれ、嘲笑された時のあの感覚。悲しみや怒りなどではない。憎悪、恐怖、絶望。幾多もの負の渦が心を呑み込む。学校と言う檻に閉じ込められた、一匹の哀れな生物。それが私だった。


無性に震える右手。その勢いのまま、刃先を左腕へ。傷跡の上へ重ねるように、深く切り込む。刃が肉に食い込み、通り抜けていく感覚。鋭い痛みに左腕が力なく震える。血がぼたぼたと床へ零れ落ちる。


深く切りすぎてしまった。血があまりにも大量に流れ落ちていく。腕を這いずり回る生温い液体の感触。それを味わいながら、私はその場に膝から崩れ落ちた。


包丁を握ったままの右手に力が、血を溢れさせている左手には熱が籠る。左手から全身へ熱は移り行き、そして痺れとなる。

この痺れだけが、私の心を満たしてくれる。


不安が少し和らいだ気がした。


今になってようやく、ベッドへスマホを忘れてきたことに気付く。彼から連絡が来ているのではないか。私はそう思い、包丁を置いて急いで寝室へ向かう。その間、左腕はだらりと下げていた。床へ幾つもの血の雫が垂れる。


寝室に着くまでが遠く感じられた。


ベッドの上でスマホが放置されているのを発見し、すぐさま手に取る。何の通知も来ていない。涙が込み上げてくる。

目頭に灼熱が纏う。やがて私の頬を濡らしていく。血も涙も、全て床へ垂れ流しながら私はぎゅっとスマホを握る。左腕の傷も気にせず、強く力を込めて。子供が宝物にしたぬいぐるみを抱きしめるように、大切に、強く強く。気が済んでも済まなくても、ただそこにいることを確信したいが故に。私はスマホを抱きしめたまま、再びベッドへ横になった。


血などもう気にならない。痛みも感じない。


私はただ胸にスマホを置き、天井をじっと眺める。


私が死ぬときはこんな風に自分の部屋で死に対。このまま眠りでもすれば、あの世へ行けるのだろうか。ああ。死にたい。


私は涙の痕が残った目を閉じる。瞼の裏に潜んでいた闇が、今は心地良い。


彼を信じたい気持ちはある。彼は私を捨てて他の女とくっつくなどしない。私を裏切ることなど絶対にありえないのだ。だって私はこんなにも彼を愛しているのに。


彼の方こそ、私へ愛の言葉を何度も囁いた。

身も心も彼へ捧げた。彼が私を求める分、私も彼を求める。突然電話で呼び出されても、私は従った。そのまま体を重ね、夜を越す。朝になれば彼とは少しのお別れ。一晩だけの恋と捉えられることもあるが、私と彼は本当に恋人同士だ。


今実際に彼と同棲している。そして結婚して子供も作る予定だ。だから私と彼は本当に本当に愛し合っている。


だから、きっと大丈夫。


胸に置いていたスマホが震える。通知だ。通知が来た。


『今から帰る』


彼からの一言。私は思わず胸が躍った。彼が帰って来る。その喜びに私は腕を切ったことを後悔する。

彼がこの腕を見たらどう思うか。いや、不安にさせた彼が悪いのだ。少しくらい、罪悪感を感じてもらうほかない。


部屋の明かりを点ける。絆創膏を何枚か適当に腕へと張り重ね、玄関へ。彼の顔を今すぐにでも見たい。


私は何も言わず、その場に立ち尽くす。彼の帰りを今か今かと首を伸ばして。


鍵は開けておこう。私はそう思い、鍵を捻る。ガチャリという音が鼓膜へ木霊した。

靴を並べておこう。私はしゃがみ、幾つかの靴を靴棚へ入れ、残りを端へ寄せる。


それからしばらく時間が過ぎた。数十分は経った。一向に彼が帰って来る様子がない。

途端に心の中で不安が渦巻き始めた。彼は事故に遭っていないか。一体どれほど遠くまで出かけたのか。


浮気、やはり彼は浮気をしているのではないか。私の知らない女と飲み、それを介抱しているから帰りが遅くなっているのではないか。


幾つもの声が脳内で溢れ返す。

私は恐ろしくなった。彼が本当に浮気していたら、私はこの先どうやって生きていけばいいのだろうか。彼のいない人生など、考えられない。


死なないと。そうだ。誰にも必要とされないのだから、私は死ぬ。彼にすら見切りを付けられてしまえば、そこで私の人生は終わる。これ以上生きていく意味がない。


先ほどまで胸中を騒がせていた喜びは、完全に消え去った。代わりに不安と恐怖、そして悲しみが蟠る。


また涙が溢れる。


するとドアノブが動いた。間違いない、彼だ。


ドアが開く。見慣れた彼の姿が向こうにはあった。

涙が引っ込む。


「おかえり」


それだけ、私はじっと彼の目を見つめながら口にした。

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