毒殺されたはずの第三皇女は、見た目と正反対の策士だった。護衛隊長だった自分は、いつの間にか彼女と帝国を奪い返す剣になっていた
自分は、第三皇女リシェル殿下付き護衛隊長だった。
帝国の継承争いは、長く第一皇子と第二皇子のものだと思われていた。
第一皇子は側室腹の長子で、武威と恐怖で人を従わせる男。
第二皇子もまた別の側室の子で、金と策で相手を絡め取る男だ。
腹違いの二人は普段から仲が悪かった。
だが、ひとつだけ利害が一致していた。
皇帝陛下と正妃殿下の実子である、第三皇女リシェル殿下を消すこと。
正統なのは、どう考えても殿下のほうだったからだ。
それでも宮廷の者たちは、殿下を継承争いから半歩外れた、穏やかで扱いやすい皇女として見ていた。
美しく、物腰は柔らかく、争いごとには向かない。
みながそう考えていた。
だが、自分は違った。
殿下は静かだったが、鈍くはない。
侍女も護衛兵も庭師も、誰と向き合うときでも、殿下は必ず相手の目を見ていた。
穏やかな笑み、皇女らしい立ち振る舞い。
その奥で、相手の腹の内まで測るように、冷静に見ていた。
しかし、継承争いに加わらない殿下を本気で守る者は少なかった。
ならば自分が守る。
隊ごと守る。
そう決めていた。
――守りきれると、本気で信じていた。
◇
毒が盛られたのは、冬の夜会の翌朝だった。
第三皇女付きの厨房番が入れ替わり、毒見役が急病で倒れ、自分は護衛交代の乱れを確認するため、一時的に居室前を離れていた。
部下は残していた。
動線も見ていた。
それでも、間に合わなかった。
戻った時には、殿下は寝台の上にいた。
侍女は泣き、医師は蒼白で、部屋にはもう死の匂いが漂っていた。
「殿下!」
駆け寄ろうとした自分を、宰相の側近が止めた。
「下がれ。護衛隊長カイル。貴様は任を果たせなかった」
その一言が、あとになっても耳に残った。
その日のうちに自分は拘束され、翌日には謁見の間へ引きずり出された。
第一皇子は退屈そうに見下ろし、第二皇子は口元を隠して笑っている。
「第三皇女毒殺の責は重い」
宰相が、判決文でも読むような声で言った。
「護衛隊長カイル、お前を北方の監視砦へ左遷する」
左遷。
聞こえはいい。
だが実際には追放だった。
「殿下は……」
自分がそう問うと、第一皇子が鼻で笑った。
「死んだよ」
第二皇子が続ける。
「哀れなものだな。隊長などと威張っていても、最後まで守れなかった」
その瞬間、自分の中の何かが凍った。
毒殺されたはずの第三皇女。
守れなかった護衛隊長。
それが、自分に貼られた結末だった。
◇
北方の砦は寒かった。
雪と風と酒だけがある場所で、自分は剣を振り、見回りをし、夜は粗い酒を流し込んだ。
それでも、眠るたびに殿下の顔が浮かぶ。
守れなかった。
自分一人ではない。
隊を預かる者として、殿下を守る仕組みごと守れなかった。
その思いが、胸の奥に沈んで離れなかった。
春先のある夜、砦下の町の古い宿で一人飲んでいると、灰色の旅装の女が入ってきた。
顔の半分はフードに隠れているのに、場の空気が少しだけ張る。
ただ者ではない。
そう思った次の瞬間、その女はまっすぐ自分の前へ来た。
「ずいぶん荒れた暮らしをしているのね、カイル」
その声を聞いた瞬間、椅子を蹴って立ち上がっていた。
「……殿下?」
女はフードを外した。
銀の髪。
紫の瞳。
静かな顔。
見間違えるはずがなかった。
「生きて、おられたのですか」
「ええ。死んだことになっているだけ」
あまりにも平然とした返事に、自分はしばらく何も言えなかった。
毒殺されたはずの第三皇女は、生きていた。
しかも、ひどく落ち着いていた。
「座りなさい」
「ですが――」
「命令よ」
反射で腰を下ろす。
殿下はそれを見て、わずかに笑った。
「よかった。そこはまだ変わっていないのね」
温かい湯が運ばれてきて、ようやく自分は声を出せた。
「どういうことですか」
「毒は本物だったわ。でも致死量ではなかった。解毒も準備していた」
あまりにも静かな口調だった。
「父上は、いずれこの日が来ると見ていたの。だから南方辺境伯に、万一の時は私を保護するよう命じていた」
「南方辺境伯……」
皇帝陛下が最も信頼し、帝国でもっとも豊かな南を治める大貴族だ。
兵も金も民心もある。
「兄たちは普段から仲が悪い。でも私を消す間だけは手を結ぶ。なら、私は一度死んだことになったほうがいい」
殿下は湯気の向こうで自分を見た。
「あなたを北へ飛ばしたのも、半分は計算のうちよ」
「自分を……?」
「帝都に残れば真っ先に消されるもの。あなたは私の剣だもの。敵に回収される前に、盤上から外したかったの」
自分は言葉を失った。
守れなかったと思い込んでいた。
だが殿下は、自分まで含めて動かしていたのだ。
「まだ私の剣でいてくれる?」
喉が詰まった。泣くなと自分を戒めたが、それでも涙があふれた。
「殿下を守れなかった自分を、まだおそばに置いてくださるのですか」
「相変わらずね。真面目なところ」
殿下は少しだけ笑った。
「今度は守ってね」
自分は涙を流したまま片膝をつき、胸に手を当てた。
「騎士として、再び殿下に忠誠と命と剣を捧げます」
殿下は嬉しそうに自分の手を取り、立ち上がらせてくれた。
「ええ、カイル。あなただけが私の剣よ」
二人はしばらく、黙ったまま見つめ合った。
その瞬間、自分は理解した。
自分が守りたかったのは、か弱い皇女ではなかった。
この人そのものだった。
宿を出ると、自分は礼拝堂跡の地下へ案内された。
そこには旧臣、密偵、南方辺境伯の使者が集まっていた。
地図の前で、殿下は静かに語った。
「私が死んだと思った兄たちは、すぐに帝国を二つに割る争いを始めたわ」
第一皇子は武で北と中央を押さえ、第二皇子は金で東と商都を押さえる。
その間で税は重くなり、徴兵は荒れ、民は踏みつけられた。
「だから待ったの。二人が勝手に削り合うのを」
机の上には書状の束が並んでいた。
第一皇子の残虐な処断。
第二皇子の粛清。
暴君に仕えた家臣の悲惨な末路。
それらを各地へ伝える伝言板や瓦版の下書きだった。
「これを配るのですか」
「ええ。民にも、有力者にも。兄たちのもとでは誰も幸せになれないと、まず理解させるの」
さらに殿下は、別の書状を指先で叩いた。
「それから、“第三皇女が生きていれば”という嘆きを育てる。最後に、建国記念祭の日に私が姿を現すという噂を流す」
「……民衆を先に動かすのですね」
「兵だけでは足りないもの。帝位は剣で奪えても、帝国は民心なしには治められない」
その言葉で、ようやくはっきりわかった。
穏やかな見た目とは正反対に、この人は策で帝国を奪い返すつもりなのだ。
「カイル」
殿下は自分を見た。
「一緒に帝国を奪い返しましょう」
その言葉に、自分はもう迷わず頷けた。
◇
それから数か月、自分は殿下の剣として走り回った。
旧臣を護衛し、瓦版を運ぶ者を守り、追手を始末し、辺境軍の将と会い、有力者たちへ密書を届けた。
時には第一皇子派の印章で偽の書状を流し、第二皇子派に裏切りを疑わせもした。
兄たちは、ほんの少し火を入れるだけで勝手に疑い合った。
欲が強い人間ほど、味方を先に疑う。
南方辺境伯は兵と金を出し、各地では「第三皇女が生きているらしい」「建国記念祭の日に戻るらしい」という噂が膨らんでいった。
ある夜、かつて自分の部下だった近衛兵の一人に呼び出された。
「隊長……いや、カイル殿。戻ってください。まだ間に合います」
「何に、です」
「第一皇子殿下に膝をつけば、お前の罪も不問に――」
自分は笑った。
「自分にある罪は、殿下を守れなかったことだけです」
「まだそんなことを」
「まだ?」
一歩だけ前へ出た。
「自分は帝国の剣ではない。最初から、あの方の剣だ」
相手は、それで説得が終わったと悟った顔をした。
◇
建国記念祭の日、帝都は群衆で埋め尽くされた。
第一皇子と第二皇子は、それぞれ別の軍を率いて広場を押さえていた。
だが兵たちの顔には疲労と苛立ちしかない。民衆は祝祭どころではなく、皇子たちへの不満で膨れ上がっていた。
そこへ、南方辺境伯の旗が見えた。
白銀の地に黒い百合。
第三皇女リシェルの紋章だ。
どよめきが広がる。
人々が左右に割れ、その真ん中を殿下が進む。後ろには南方の精鋭、左右には旧臣、少し後ろには自分がいた。
「ば、馬鹿な……!」
第一皇子が叫ぶ。
第二皇子の顔から血の気が引いた。
殿下は高い演壇の上へ立った。
王冠も飾りもないのに、その場の誰より帝国の中心に見えた。
「私は生きている」
一言で、広場は静まり返った。
「私を死んだことにした人たちへ。取り返しに来たの。私の帝国を」
その瞬間、各地で配られていた瓦版と証拠書が一斉に広場へばらまかれた。
第一皇子の虐殺。
第二皇子の粛清。
民を踏みつけた証拠。
家臣を食い潰した記録。
群衆のざわめきは、やがて怒号になった。
殿下は兄たちを見下ろし、静かに告げた。
「国を治める力も、民を思う心もない者は、今ここで退きなさい」
第一皇子は兵を動かそうとした。
だが、その兵たちはもう動かなかった。
第二皇子も何か言い返そうとしたが、民衆の罵声に呑まれた。
勝負は、その場で決まった。
二人は群衆と兵の前で、継承権の放棄を言わされた。
それでも最後には、殿下の足元へ這いつくばって命乞いをした。
「リシェル……いや、陛下、どうか――」
第一皇子が喚き、第二皇子が額を石畳へ擦りつける。
殿下――その瞬間にはもう、誰の目にも新たな皇帝だった人は、ほんの一瞬だけ目を伏せた。
「連れて行きなさい」
それだけだった。
自分は二人の襟首を掴み、衛兵へ引き渡した。
かつて帝位を争った男たちは、みっともなく叫びながら広場の外へ引きずられていった。
その光景を見て、群衆が沸いた。
歓声というより、長く堪えていた息をようやく吐き出す音に近かった。
◇
夜、帝城の高い塔の上で、リシェル陛下はようやく息をついた。
「終わりましたね」
そう言うと、陛下は小さく笑った。
「まだ始まったばかりよ」
その通りだった。
だが、自分にはその言葉が妙に心地よかった。
「あなたがいてくれて助かったわ」
その一言で、今日一日の疲れが吹き飛ぶ気がした。
「自分は護衛隊長でしたから」
「でした、でしょう?」
陛下は少しだけ目を細めた。
「もう、私の剣なだけではないわ。共犯者でしょ」
否定できなかった。
塔の下に広がる帝都の灯は、毒を盛られたあの夜より、ずっと穏やかに見えた。
毒殺されたはずの第三皇女は、見た目と正反対の策士だった。
そして護衛隊長だった自分は、いつの間にか彼女と帝国を奪い返す剣になっていた。
これから先、どれだけ血が流れようと、どれだけ泥を被ろうと、もう迷わない。
自分が剣を捧げるのは、誰かが決めた正統のためではない。
自分が選んだ、この人の勝利のためだけだ。




