鏡の中の、知らない私
意識が戻ったとき、三島隆弘は激しい頭痛に襲われていた。
目を開けると、天井は薄汚れたベージュ色。
ここはどこかの知らないアパートの殺風景な一室だった。
(……俺、どこにいる?)
記憶が、断片的にしか戻ってこない。
クリニック、注射、そして——何かを言われた気がする。
だが、それ以降の記憶がない。
体を起こそうとして、違和感を覚えた。
体が、やけに軽い。
そして、声が——出しにくい。
「あ、あれ……?」
喉の奥から出た声は、いつもよりも高く、か細かった。
(風邪でも引いたか……?)
俺は、ゆっくりと立ち上がった。
足元がふらつく。
重心が、いつもと違う。
(おかしい……何かがおかしい)
部屋を見渡すと、そこは見知らぬ6畳ほどのワンルームだった。
古びた家具、小さなキッチン、そして——
窓の外には、見慣れない街並みが広がっていた。
(ここは……どこだ?)
トイレに行こうとして、洗面所の前を通りかかった。
そして——鏡を見た。
そこに映っていたのは、俺の知る「三島隆弘」ではなかった。
真っ白な肌。
細い首筋。
華奢な体つき。
長い黒髪。
そして——美しい少女の顔。
「……嘘だろ」
思わず口から出た声は、甲高く、震えていた。
鏡の中の少女が、俺と同じように、絶望と恐怖に歪んだ顔をしていた。
「嘘だ……嘘だ嘘だ嘘だ!」
俺は、鏡に向かって叫んだ。
だが、鏡の中の少女も、同じように叫んでいる。
これは、夢だ。
そうに決まっている。
俺は、自分の頬を何度も叩いた。
パチン、パチン、パチン——
痛い。
痛いということは、これは夢じゃない。
「畜生……いったい何が起きてるんだ!?」
俺は、震える手で自分の体を確認した。
細い腕。
小さな手。
華奢な肩。
そして——服を脱いで、全身を見た。
完全に、女性の体になっていた。
「なんで……なんで俺が……!?」
俺は、その場に崩れ落ちた。
床に膝をつき、両手で顔を覆った。
46年間、男として生きてきた。
それが、今——全て失われた。
どれくらい時間が経ったか分からない。
ただ、床に座り込んだまま、呆然としていた。
ようやく冷静さを取り戻した俺は、部屋を見渡した。
テーブルの上に、封筒が置かれていた。
その横には——帯のついた100万円の札束。
俺は、震える手で封筒を開けた。
中には、一枚の手紙が入っていた。
『三島隆弘様
実験は成功しました。
あなたは若返りに成功しましたが、予期せぬ副作用により性別が変化しました。
元の身分には戻れません。
戸籍上、あなたは既に「行方不明者」として処理されています。
この部屋はあなたのために用意しました。
家賃は1年分前払い済みです。
同封の現金は口止め料です。
この部屋で静かに暮らしてください。
あなたは常に監視されています。
警察や公的機関に相談しても、信じてもらえないでしょう。
大人しくしていれば、危害は加えません。
なお、この手紙は読後、すぐに処分してください。
——健康サポート研究所』
俺は、手紙を握りしめた。
手が、震えて止まらなかった。
(監視……されてる……?)
窓の外を見ると、向かいのビルから、こちらを見ている人影があるような気がした。
カーテンを閉めようとしたが、手が震えて上手く動かなかった。
(逃げられない……)
警察に行っても、この姿で「俺は三島隆弘だ」と言って、誰が信じる?
元の会社に戻っても、「あなた誰?」で終わりだ。
それに——戸籍上、俺はもう「行方不明者」として処理されている。
つまり、社会的には——
三島隆弘は、もう存在しないのだ。
俺には、もう——
行き場がなかった。




