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魔王殺しノクト(旧救世の闇魔法)  作者: 藤原 光希
ベルナール革命編

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56話 虚空輪墓(こくうりんぼ)

いつも読んで頂きありがとうございます!

 三頭の炎龍が、冥澄の女神へ向かって迫ってくる。


 空に貼りついた火の海から、三つの首が垂れ下がっていた。


 一つは、概念ごと熔かす灼光の奔流。


 一つは、水分を奪い尽くす乾熱の嵐。


 一つは、影を燃料にして追尾する黒焔の稲妻。


 三つの天災が、同時にノクトとエリシアを呑み込もうとしていた。


 ノクトはエリシアの手を強く握る。


 そして彼女の目をまっすぐ見つめた。


 その表情には、固い決意が宿っている。


「エリシア」


「何?」


「俺がエリシアのマナを使って魔法を発動するには、限界がある」


 ノクトの手には、紫色の痣が広がっていた。


 顔にも闇の汚染が浮かび始めている。


 エリシアはそれを見て、悔しそうに唇を噛んだ。


「魔法使い一人が、一度に使える魔力は無限じゃない」


 ノクトは続ける。


「なら、二人で一緒に魔法を作ろう」


「二人で一緒に?」


 エリシアは目を見開いた。


「そんなの聞いたことないわ」


 当然だった。


 魔法とは、自分のマナを練り、自分の術式として形にするものだ。


 他者のマナを受け取るだけでも難しい。


 まして、二人で一つの魔法を同時に作るなど、普通なら考えられない。


「自分一人でも、マナの微妙な調整は難しいのよ」


 エリシアは早口になる。


「二人で呼吸を合わせて、同じ魔法を作るなんて……できるわけがないわ」


「できる」


 ノクトは静かに言った。


「俺たちならできる」


 そして握っていたエリシアの手を、そっと自分の額へ当てた。


 目を閉じる。


 こんな状況なのに、ノクトの口元は穏やかに笑っていた。


「エリシア。俺は、マナの声が聞こえるんだ」


「マナの声……?」


 エリシアは困惑する。


 目の前には、三頭の炎龍。


 空からは天災そのものが迫っている。


 それなのにノクトは、不思議なほど落ち着いていた。


「マナは生きてる」


 ノクトが言う。


「誰のマナだって、ちゃんと思いを寄せれば答えてくれる」


 エリシアには、その感覚が分からなかった。


 マナは力。


 魔法を生み出すための源。


 そう教わってきた。


 だがノクトは、まるで誰かと話すようにマナを扱っている。


「だから俺は、エリシアのマナとも会話できる」


「どういうこと?」


 エリシアは眉を寄せた。


「さっぱり分からないわ」


「俺のマナと、本気で会話しようとしてみてくれ」


「あなたのマナと?」


「ああ」


 ノクトは目を閉じたまま頷く。


「俺はもう、エリシアの体を流れるマナと会話してるんだ」


 エリシアは戸惑いながらも、ノクトの言葉に従った。


 目を閉じる。


 ノクトの手を握る。


 彼の体を流れるマナを感じようとする。


 だが、すぐにはうまくいかない。


 焦りが生まれる。


 このままでは三頭の炎龍に呑まれる。


 時間がない。


 早くしなければ。


「焦ったら駄目だ」


 ノクトの声が、すぐ近くで響く。


「目を閉じて、優しい気持ちになるんだ」


「優しい気持ち……?」


「そう」


 ノクトの声は、どこまでも穏やかだった。


「そうすれば、何だか温かい気持ちになるからさ」


 エリシアは息を吸った。


 焦ってはいけない。


 怒りでもない。


 恐怖でもない。


 ノクトを守りたい。


 ノクトと一緒に生きたい。


 この世界を救いたい。


 その気持ちだけを胸の奥へ置く。


 すると。


 確かに、体の内側が少し温かくなった。


 聖剣から流れる光とは違う。


 魔法を放つ時の鋭さとも違う。


 もっと柔らかく、もっと近い。


 誰かの呼吸に触れるような温かさだった。


「……これが」


 エリシアが小さく呟く。


「あなたのマナ……?」


「そうだ」


 ノクトが目を開ける。


「今だ。お互いに、マナの呼吸を合わせるんだ」


 二人は同時に魔力を放出した。


 ノクトの闇。


 エリシアの光。


 それぞれのマナが重なり合う。


 混ざるのではない。


 潰し合うのでもない。


 互いの形を保ったまま、境界を生み出していく。


 澄んだ無彩のマナが、二人の周囲へ広がった。


「これが、冥澄のマナ」


 ノクトが言う。


「このマナを、あの女神へ送る」


 ノクトとエリシアは、魔力を最大限に放出した。


 呼吸を合わせる。


 鼓動を合わせる。


 マナの流れを合わせる。


 すると、不思議な感覚が二人を包んだ。


 言葉にしなくても、相手の思いが分かる。


 恐怖も。


 痛みも。


 迷いも。


 そして、それでも前へ進もうとする覚悟も。


 二人は互いの心を汲み取った。


 そして同時に、呪文を唱える。


冥澄輪葬めいちょうりんそう――虚空輪墓こくうりんぼ


 言葉が重なった瞬間。


 瓦礫の上に広がっていた冥澄の気配が、一段深くなった。


 光でも闇でもない。


 澄んだ無彩が、世界の輪郭を薄くする。


 冥澄の女神が、ゆっくりと顔を上げた。


 輪郭はまだ曖昧だ。


 霧のようで、今にも消えてしまいそうだった。


 だが背後に浮かぶ境界輪だけは、異様なほど鮮明になっている。


 三頭の炎龍が、唸り声と共に突進した。


 赤い顎が開く。


 灼熱が空間を噛み砕く勢いで迫ってくる。


 ノクトは歯を食いしばり、エリシアの手をさらに強く握った。


「この魔法で、この戦いを終わらせるんだ!」


「ええ」


 エリシアの瞳にも、もう迷いはない。


「あなたのマナの声が聞こえる」


 彼女は聖剣を握りしめた。


「この魔法は強い!」


 二人のマナが、女神へ流れ込む。


 円陣が澄み切る。


 境界の線が、完全に確定した。


 そして一瞬。


 時が止まったように見えた。


 次の瞬間。


 空が、静かに欠けた。


 雲の上。


 いや、世界の上に、巨大な円が現れる。


 白でも黒でもない輪郭。


 光を反射せず、闇を吸わない輪。


 巨大な境界輪が、空に口を開けた。


 そして、落ちてきた。


 速くはない。


 だが止めようがない。


 落下そのものが、葬送だった。


 三頭の炎龍が、その落下へ噛みつく。


 灼熱がぶつかる。


 爆発が起きるはずだった。


 だが、音は出ない。


 熱も広がらない。


 炎は炎であることを忘れたように、輪の縁でほどけていく。


 境界輪が地面へ触れた瞬間。


 世界が沈んだ。


 瓦礫も。


 空気も。


 火の粉も。


 三頭の炎龍の巨体すら、輪の内側へ落ちるのではない。


 埋められていく。


 ぎち、と何かが軋む感覚だけが、骨に残った。


 物質も。


 熱も。


 音も。


 輪の内側へ吸い込まれ、二度と外へ戻らない。


 三頭の炎龍は、吠える間もなく虚空の輪墓へ沈んだ。


 最後に、赤い瞳の光だけが一瞬揺れる。


 そして消えた。


 冥澄の女神は、指先を下ろす。


 巨大な輪は、痕跡すら残さない。


 そこにあったはずの戦場の一部が、最初から存在しなかったように抜け落ちていた。


 ヴァルグランの表情が、初めて大きく歪んだ。


「……輪の……墓……?」


 冥澄の女神は答えない。


 ただ境界の気配だけが、宣告のように場を満たす。


 ここは墳。


 触れたものは、世界から退場する。


 ノクトとエリシアは息を呑んだ。


 二人の手のひらからは、まだ冥澄のマナが流れている。


 そして女神の輪郭は、先ほどよりも少しだけ確かになっていた。


 女神は手にした境界輪をヴァルグランへ向ける。


 ヴァルグランはすぐに炎を呼び起こした。


 だが、もうほとんどの魔力を使い果たしている。


 放たれた炎は弱く、境界輪の前で形を失った。


「まだだ……!」


 ヴァルグランが吠える。


 それでも女神は止まらない。


 境界輪が静かに振り下ろされた。


 ヴァルグランはその輪に呑まれていく。


 抗おうとする。


 炎を放つ。


 拳を振るう。


 だが、そのすべてが虚空輪墓に埋められていった。


 意識が遠のく。


 その瞬間、ヴァルグランの脳裏に、過去の記憶が走馬灯のように蘇った。



 ヴァルグランは、もともと名のある貴族の生まれだった。


 立派な屋敷。


 優しい母。


 厳しくも誇り高い父。


 年の近い兄弟たち。


 幼いヴァルグランの周りには、確かに幸せがあった。


 だが、その幸せは親族の裏切りによって崩壊した。


 嘘の告げ口。


 捏造された罪。


 財産と地位を狙う者たちの陰謀。


 一家は、反逆者として処刑されることになった。


 父も。


 母も。


 兄弟も。


 全員が殺された。


 ただ一人、幼いヴァルグランだけが生き残った。


 母が、最後の瞬間に彼を物置へ隠したのだ。


 狭く暗い物置の中で、ヴァルグランは息を殺して震えていた。


 外からは悲鳴が聞こえた。


 剣の音が聞こえた。


 自分の名前を呼ぶ母の声も、途中で途切れた。


 それでも彼は出ていけなかった。


 怖くて。


 怖くて。


 ただ、震えていることしかできなかった。


 やがて屋敷は静かになった。


 ヴァルグランが物置から出た時には、もう誰も生きていなかった。


 そこから先の記憶は、寒さと飢えだけだった。


 家族もない。


 金もない。


 助けてくれる者もいない。


 彼は盗みで命を繋いだ。


 食べ物を盗み、水を盗み、時には殴られ、地面に転がされた。


 誰も助けてはくれない。


 正しい者が救われるわけではない。


 優しい者が守られるわけでもない。


 力のない者から、すべて奪われる。


 それが幼いヴァルグランの知った世界だった。


 餓死する一歩手前だった。


 雪の降る路地裏で、ヴァルグランは倒れていた。


 その時、彼の前に一人の男が現れた。


 魔王バルカディアス。


 ノクトの父だった。


 バルカディアスは、ヴァルグランを一目見て才能を見抜いた。


 この子には、世界一の火属性魔法使いになれるマナが流れている。


 そう言って、彼を魔王城へ連れ帰った。


 食事を与えた。


 服を与えた。


 名を呼んだ。


 そして、ありとあらゆる指導を施した。


 ヴァルグランにとって、バルカディアスは父も同然だった。


 たまたま命を救ってくれた者が魔王だっただけだ。


 彼の半生以上を育てたのは、間違いなくバルカディアスだった。


 強くなれ。


 奪われたくなければ、奪う側に立て。


 守りたいものがあるなら、誰よりも強くなれ。


 ヴァルグランは、その言葉を信じて生きた。


 やがて彼は、裏切りに加担した親族たちをすべて殺した。


 復讐は果たした。


 だが、傷は癒えなかった。


 失った家族は戻らない。


 力がなかったせいで失うものは、いつだって一生戻ってこないものばかりだった。


 だから彼は信じた。


 この世界は力がすべてなのだと。



 記憶はさらに流れていく。


 ヴァルグランが最も強く覚えていたのは、ノクトとの出会いだった。


 まだ幼いノクト。


 母を失い、魔王城へ連れてこられた子ども。


 その目を見た瞬間、ヴァルグランは過去の自分を思い出した。


 この子は、自分と同じだ。


 奪われて。


 傷ついて。


 それでも生き残ってしまった子ども。


 だからこそ、ヴァルグランはノクトのことを誰よりも気にかけた。


 初めて稽古をつけた日のことも覚えている。


 ノクトは小さな木剣を握り、何度も転んだ。


 泣いた。


 手のひらの皮が破れ、膝から血が出ても、ヴァルグランは稽古をやめさせなかった。


 指導は厳しかった。


 幼いノクトは、何度もヴァルグランの前で涙を流した。


 それでもヴァルグランは、彼を鍛え続けた。


 この世界は力がすべて。


 武力がなければ、大切なものをすべて失う。


 優しいだけでは生き残れない。


 泣いても誰も助けてくれない。


 だから強くなれ。


 誰よりも強くなれ。


 それは、ヴァルグランなりの愛だった。


 ノクトと過ごした日々が、次々と蘇る。


 怒鳴った日。


 褒めた日。


 初めてノクトが自分の攻撃を受け流した日。


 倒れたノクトを抱えて、医務室まで運んだ日。


 何も言わず、ただ隣で食事をした日。


 ヴァルグランは、ノクトの父であるバルカディアスよりも、ノクトと長く一緒にいた。


 我が子のように思っていた。


 だからこそ、ノクトこそが次の魔王になってほしかった。


 異母兄のゼルクではない。


 自分が育てたノクトに、バルカディアスのすべてを引き継いでほしかった。


 魔王軍の頂点に立ち、誰にも奪われない存在になってほしかった。


 だから、ノクトが実の父を殺したと知った時、ヴァルグランは大きな衝撃を受けた。


 分からなくなった。


 なぜ、そこまでしたのか。


 自分の地位を落としてでも、魔王殺しの罪を背負ってでも、ノクトが手に入れたかったものは何なのか。


 ずっと分からなかった。


 だが、最後の瞬間に、少しだけ分かった気がした。



 ヴァルグランの目の前に、幼い頃に別れた家族が立っていた。


 父。


 母。


 兄弟たち。


 彼らは、記憶の中と同じ姿をしていた。


 自分だけが歳を重ねている。


 自分だけが生き残り、殺し、奪い、燃やし続けてきた。


「すまない……」


 ヴァルグランは涙を流した。


「俺だけが……生き残ってしまった……」


 父も母も、何も言わなかった。


 ただ、幼い頃と同じように彼を見つめていた。


 兄弟たちも笑っていた。


 責める者はいなかった。


 拒む者もいなかった。


 母が、そっと両腕を広げる。


 ヴァルグランは泣きながら、家族たちへ抱きついた。


 その瞬間。


 彼はようやく、ノクトが守りたかったものを少しだけ理解した。


 優しさ。


 幸せ。


 その裏にある理不尽。


 不条理。


 奪われる痛み。


 それでも誰かを守ろうとする願い。


 すべてがごちゃごちゃに混ざり合っている。


 その境界線に引かれた、一本の確かな線。


 そこに、生命の強さがある。


 力だけでは届かないものがある。


 力がなければ守れないものもある。


 その両方の境界に、ノクトは立とうとしていたのだ。


 冥澄の境界輪が、ヴァルグランと家族たちの上へ静かに降りてくる。


 それは死の魔法だった。


 だが、ヴァルグランには救いのように思えた。


 もう一人で生きなくていい。


 もう燃やし続けなくていい。


 もう誰かを力でねじ伏せなくていい。


 ヴァルグランは家族を抱きしめたまま、静かに目を閉じた。



 境界輪が消えた。


 冥澄の女神の輪郭も、ゆっくりと薄れていく。


 燃えていた空が、少しずつ本来の色を取り戻していた。


 ヴァルグランは、瓦礫の上に倒れていた。


 もう動かない。


 その顔には、苦痛よりも穏やかさがあった。


 六魔星ヴァルグランは死んだ。


 ノクトは、しばらくその遺体を見つめていた。


 自分を育てた男。


 何度も叱られた。


 何度も打ち倒された。


 何度も戦い方を教わった。


 敵だった。


 倒さなければならない相手だった。


 それでも、ノクトにとってはただの敵ではなかった。


「ヴァルグラン……」


 ノクトは小さく名前を呼ぶ。


 胸の奥が、痛んだ。


 勝ったはずなのに。


 ベルナールを救うために、必要な勝利だったはずなのに。


 涙が出た。


 ノクトはエリシアに気づかれないように、そっと顔を背けた。


 それでも涙は、頬を伝って落ちていった。


 エリシアは何も言わなかった。


 ただ静かに、ノクトの隣に立っていた。

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