第3話~最初の亀裂と予言の影
日が昇り、劇場が人々の喝采で満たされる頃には、フリーナは再び完璧な水神の仮面を身につけていた。朝の謁見、午後の視察、夜の公演。与えられた役割を寸分の狂いもなく演じ続ける日々は、もはや彼女にとって息をすることと同じくらい自然な行為となっていた。人々の期待に応え、彼らの信仰をその身に受けるたび、一瞬だけ、胸の奥の震えが和らぐように感じた。この世界を守る、という大義名分が、孤独を紛らわせる唯一の光だった。
しかし、完璧な演技の裏で、小さな亀裂が生まれ始めていた。ある日の裁判で、些細な論争を裁いていた時のことだ。二人の市民が、水資源の分配を巡って激しく口論していた。普段であれば、水の神としての絶対的な知識と公正さをもって、瞬時に最適な判断を下せたはずだった。だが、その日、フリーナの脳裏に、夜な夜な彼女を苛む「世界の終わり」の漠然とした恐怖が、一瞬だけよぎった。
「どうか、水神様のお裁きを!」
市民の切迫した声が、神殿の静寂を破る。フリーナは、ふと、その声にわずかな苛立ちを覚えた。彼らの目には、自分の苦悩など、微塵も映っていない。ただ、絶対的な神の裁きを求めているだけだ。その時、彼女の唇から出た言葉は、いつもの完璧な神のそれよりも、ほんのわずかだが、冷ややかだった。
「…水の恵みは、等しく分かたれるべきもの。その分配の争いは、愚かなる人間の欲望に他ならない。」
場の空気が、一瞬にして凍りついた。人々は、普段の慈愛に満ちた水神とは異なる、どこか突き放したような言葉に戸惑いを隠せない。フリーナはすぐに自身の失言に気づき、慌てて取り繕った。しかし、一度生じた亀裂は、そう簡単に修復できるものではなかった。その日の夜、彼女の私室の鏡に映った表情は、昼間の輝きとは程遠く、疲弊の色を隠しきれていなかった。
そして、その夜のことだ。神殿の奥深く、一般には立ち入りが禁じられている古文書庫の調査を進めていたフリーナは、塵を被った一冊の分厚い書物を見つけた。表紙には、見慣れない古代の文字が刻まれている。何かに導かれるようにそれを開くと、そこには、世界が「原始の海」へと還るという、おぞましい予言と、それに抗うための最初の助言が記されていた。
その助言は、簡潔にして、しかしあまりにも深遠な言葉で綴られていた。
「水面に映るは、偽りの真実。真の渇きを満たすは、人々の涙。」
フリーナの脳裏に、昼間の裁判で見た人々の困惑した表情と、夜ごとに流れる自身の涙がフラッシュバックした。偽りの神を演じる自分と、人々の純粋な信仰。そして、世界の終焉。この不可解な言葉が指し示す意味は、まだ漠然としていたが、確かに彼女の心の奥深くに、新たな波紋を広げ始めた。
この助言が、これから彼女をどこへ導くのか、そしてその真の意味を理解するために、どれほどの困難が待ち受けているのか、フリーナはまだ知る由もなかった。