5. 絶望の道
光の家までは、歩いて二時間くらいかかる。
もう急ぐ理由なんてないから、のんびり歩いてる。
彼は俺のことを覚えてるだろうか?
最後に会ったのは六年前だ。
……いや、俺の記憶の中の彼も、もうぼやけているかもしれない。
それでも、顔だけは思い出したい。
でも……たぶんもう生きてないだろうな。
彼は秋葉原のマンションに住んでた。
あそこはきっとめちゃくちゃになってるだろうな。建物も崩れてるかもしれない。
それでも、まだ生きててほしい。もしかしたら引っ越してたらいいけど。
……でも、もし引っ越してたなら、もう会えないかもしれない。この人生の中では。
かといって、こっちも地獄みたいなもんだ。
急がずに歩いてると、周りの様子がよく見える。
人の姿はほとんどない。
たまに見かける人たちは、瓦礫の中から何かを引っ張り出したり、無表情で歩いてたり、道端に座り、絶望のあまり爪を噛んでいたり。
――腹が鳴った。
そうだ、学校で昼飯食ってなかったな。そりゃ腹も減るか。
今、何時なんだろう?
ポケットから粉々に砕けたスマホを取り出して、電源を入れようとした。
……もちろん、つかなかった。
あたりを見渡して、使えそうな携帯を探す。
そして、目に入ったのは――
ひっくり返った車の下に挟まれてる老婆。その隣には、少し車体に潰されたバッグ。
俺は老婆に近づき、しゃがみ込んでバッグに手を伸ばした。
ラッキーなことに、彼女の携帯は無事だった。
ガラケーをポケットに入れ、手を合わせて彼女の魂に祈る。
ごめんなさい、ありがとうございます、と心の中でつぶやいた。
通りを少し歩いたあと、携帯の電源を入れる。
画面には『20:07』と表示されていた。
……なんて長い一日だろう。
また腹が鳴る。
あと少し、もうすぐ小さなスーパーに着く。
店に入ると、予想通り棚は全部倒れていた。
食べられそうな物は床に散乱している。
どうしてこんなに少ないんだ?
きっと、他の生存者が来て、持っていったんだろうな。
――仕方ない、残ってるものをもらうしかない。
しゃがみ込み、ほぼ最後の二つの「おにぎり」と、水のボトル一本、それとポテトチップスの袋を拾った。
これで足りるだろう。どうせリュック持ってきてないし、もっと持てないし……
「う、動くな!」
ゆっくりと首を回した。
そこには、拳銃を構えた四十代くらいの男が立っていた。
短く刈った髪、薄い無精ひげ、そして絶望を宿した茶色い目。
息を切らしていて、きっと走ってきたんだろう。両手が震えていた。
「く、クソッ、振り返れ!」
言われた通りに、俺はゆっくりと振り返った。
「と、とにかく……さ、さっき拾ったものを全部床に戻せ!」
言われるままに、手に持っていた食べ物を床に置いた。
男は近づいてきて、おにぎりと水だけを取った。チップスには手を出さなかった。
銃口は、まだこちらを向いていた。
だが、男は水とおにぎりをつかむと同時に、勢いよく出口へ向かって走り出した。
そして、ドアの前で一度立ち止まり――
「……あ、ありがとな」
それだけ言って、彼は俺が来た方向へ走り去っていった。
……一体、何があったんだろう。
床には炭酸飲料とチップスしか残っていなかった。
……仕方ない、残り物をもらうだけだ。
チップスを二袋と、コーラのボトルを拾って、また歩き出した。
風景は変わっていくけど、人々の表情は変わらない。
この世界でまだ生きてる人たちは、皆「死んだ方がマシかもしれない」と思ってるみたいだ。
その目が、そう語っていた。
一時間ほど歩いたとき、ふと目がとまった。
あるマンションの前の庭に、夫婦が並んで掘った穴に座っていた。
その間には、小さな墓。
きっと娘の墓だ。
五〜六歳の女の子が好きそうな玩具が、いくつも供えられていた。
その中で、特に目立っていたのは――
ピンク色の大きなぬいぐるみのクマ。
胸には鈴、白いお腹にはこう書かれていた。
『大好きな娘へ』
両親の前には包丁が置かれていた。
ふたりの目からは、涙があふれていた。
気づけば俺の目からも、自然に涙がこぼれていた。
彼らは顔を見合わせ、立ち上がって、最後のキスを交わした。
その間、涙が頬を伝い、ぬいぐるみにぽたぽたと落ちた。
そして、ふたりは穴に戻り、包丁を手に取った。
互いに最後の視線を交わし、目を閉じる。
女は包丁を喉に突き刺し、そのまま自分の穴に崩れ落ちた。
男は、手を首元まで動かしたが、そこで止まってしまった。
――妻が崩れ落ちる音を聞いて、彼は目を開いた。
しばらくして男は納屋からスコップを取り出し、妻の遺体に土をかけて埋めた。
それから、家の中へ戻っていった。
俺は、家の窓から彼がクローゼットを開ける姿を見ていた。
やがて、彼は大きな花束を持って外に出てきた。
それを妻の墓にそっと置き、再び自分の穴に戻っていった。
包丁を手に取り、今度こそ――首に突き立てた。
……これが、本物の男ってやつか。
優しくて、強くて、勇気がある。
彼には、俺にできなかったことができた。
これが、「勇気」ってものなんだな。
彼の穴に近づき、埋めてやることにした。
スコップを手に取り、ゆっくりと彼に土をかける。
「……ごめんなさい。俺が生まれなければ、あなたたちはこんな苦しみを味わうことも、死ぬこともなかった。……本当に、ごめんなさい」
そう呟いて、また歩き出した。
四十分ほど歩いて、ついに秋葉原に着いた。
心配していたけど、建物は倒れていなかった。
それでも、道には無数の遺体とガラスの破片が散らばっていた。
見上げると、ほとんどの窓ガラスが割れていた。
多くの人が、上の階から落ちたんだろう。
商店の前を通り過ぎようとしたとき、店から一人の金髪の青年が出てきた。
手にはいっぱいの食料が詰まった袋。
俺の姿を見て、彼は立ち止まり、袋を落とした。
「勇? 勇……お前か?」
間違いない。光だった。




