一杯のブラックコーヒー
行きと帰り、車とドライバーは同じなれど明らかにスピードが違った。
「もう知らないからな」
「あーもう知らない」
彰はぶつぶつと独り言を繰り返していた。ハンドルの上では人差し指がこきざみにリズムを打ち続ける。
遠距離恋愛をしている奈緒子と喧嘩していまは車のなか。三時間同じ体勢を維持して高速道路を走って帰ることになる。
秋も深まり日が暮れるのが早い。昨日通った行き道と彰の思いも違えば車も違うみたいだった。
明らかに速度を出し過ぎている。危ない危ない。二人の喧嘩のきっかけは些細なことだった。いつもならすぐ仲直りするのだが今日の奈緒子はなんだかずっと怒ってるように感じた。
「もう彰なんて知らないから!」
奈緒子は最後に泣いていた。
最近は電話でもイライラしていた。その原因を彰はうすうすわかっていた。今年で付き合い出して五年目になり、そのうち二年間は遠距離だ。
「そりゃわかるけどさ…」
結婚するとなると奈緒子をこちらに来させることになる、食わせていけるか?苦労かけさせてしまわないか?向こうの両親は俺で納得してくれるのか?
「俺の気持ちも聞かずに…」
彰は先程まで彼女が座っていた助手席を見た。
「はぁぁーっっ」
長い溜め息がもれる。
前に会ってからの二週間、どれほど楽しみにしていたことか。それがこんな結果になってしまうなんて。
遠距離恋愛にとって喧嘩別れはきついんだよ。また次はいつ逢えるのか……っていうか俺たちは会うのか?
どれほど走ったのか、ふと時計に目をやるとすでに1時間は運転していた。景色は流れる、山が流れ田園が流れ街が流れていく。タイヤがアスファルトをこする音に一定なエンジン音。早い視覚のリズムと変わりない音があらゆる流れを増幅させていく。
まるで時間を早送りして奈緒子を遠い遠い過去に置き忘れたように思えた。
もう俺たちは心も近くにはいないのかな。
「あーもうここか」
奈緒子と会ったあとに必ず立ち寄るサービスエリアまで2キロの標識が見えた。彰はアクセルを緩めた。まるで呪縛から解放されたみたいに車は突進する猪から落ち着いた元気のないポニーになった。疲れが溢れてくる。
サービスエリアに車を停めて彰は思い切り背伸びをした。
あー違うな、いつもと違い不快感しかない。
晩秋の日の流れは早くもうすでに夕暮れから夜に変わりつつある。上を見上げると大きな三日月が空を照らしていた。
彰は助手席にある携帯電話を見た。
「送ってくるわけないよな」
このサービスエリアで必ず休憩をする。その時に携帯電話を見ると必ずメールが来ていた。もちろん奈緒子からである。
たくさんの感謝の気持ちと最後には運転気をつけてね。と。その言葉はメールでもとても嬉しい。そこから絶対に事故を起こさないようにと安全運転になる。
もしいま事故をして俺になにかあったら奈緒子はずっと立ち直れないと思うから。
だが今日はメールすらも来てはいなかった。
「もうどうでもいいや…」
彰は車のドアを強く閉めた。重い足取りで販売機に向かい缶コーヒーを買う。あたたかいブラックコーヒー。車に戻りながら考えた。こんな別れは嫌だな、思い出がセピアでもなく渋くて暗い重い色になってしまう。でも奈緒子もそれを望んでいる。結婚しない男は必要ないのだろう。
車に乗り込んで彰はハッと気付いた。買ったコーヒーがブラックじゃなくてカフェオレだったのだ。しかも甘党の奈緒子がよく飲むものだ。
「あーもう!俺どうかしてる!」
彰は助手席のカップホルダーにその甘いコーヒーを置いてまた買いに行く。よりによって奈緒子の好きなカフェオレを買ってしまうなんて。また販売機まで走って買いに行きすぐに車に戻る
ぷしゅっ
フタを開ければコーヒーの香りが疲れた彰をオブラートのように包んでくれる。
「いい香りだ」
彰は一口すすってから助手席にあるカフェオレを見た。奈緒子がいたら喜んで飲むんだろうな。あいつ甘党だからな。
ふと出会ったころを思い出した。奈緒子とのはじめての会話が
「彰君はブラックなんだ、すごーい」
だったな。それからブラックコーヒーだ。初めはカッコつけのブラックだった。それがあとにひけなくなりそして大好きになった、ブラックコーヒーも奈緒子のことも。奈緒子は俺の片思い期間も長かった。ゆっくり仲良くなっていっていつしか付き合うようになった。
デートのとき奈緒子に逢いにいくと彼女は必ずコーヒーを手に持ってた。そして運転お疲れ様って缶コーヒーをくれたっけ。ブラックコーヒーのフタを開けると香りが車内を優しく流れていった。奈緒子に逢えた喜びが香りとともに心を満たしてくれた。
もしこのまま別れたら。
あの気持ちはすべて目の前から消えてしまう?
彰はもう一度コーヒーをすする。
いま飲んだコーヒーによってたくさんの思い出が浮かび上がる。この香りは奈緒子へと連想されていくようだ。
別れたくはない。だけど次に踏み込めない。彰はわかっている、仕事も自分にも自信が持てない、完璧なんてないのはわかってる、どれだけお金があっても肩書きがあっても奈緒子を幸せにできる確証なんてない。そりゃ一緒に暮らしたい、毎日顔を合わせて馬鹿なこと言い合って大笑いして、それがどんなに楽しいことか。
彰の父は幼いときに亡くなり母と二人で生きてきた。金には苦労した母を見ながら育った。だから…だから…
もう心も遠くなるのかな。
彰はまたコーヒーをすすった。
このとき喉ごしでコーヒーが語りだすのがわかった。
これからの未来を映し出すようにいま流れの勢いに乗ってしまい、そして時を刻んだときに一生分の挫折だったのかと必ず後悔する。
思い出がたくさんつまった味が香りが俺に全力ストップをかける。
「奈緒子を失いたくない」
彰は決めた。自分がどうするべきか、どうしたいのか。
ちょうどそのときだった。
携帯のメール着信が鳴った。彰はすぐに確認する。
奈緒子からのメールだった。
(今日はごめんなさい。帰り道くれぐれも気をつけてね。また逢えるよね)
短いメール。でも彰は泣き出した、涙が止まらない。俺には奈緒子がすべてなんだ。それは偽りないんだ。彰はそのまま奈緒子に電話をする。
「奈緒子、次に逢うとき奈緒子のご両親に会わせてほしい。え?ほんとだよ。結婚したい、ああ!結婚しよう!絶対に幸せにする!」
一杯のブラックコーヒー