第一章 潮風そよぐ筍ご飯とあさりの吸い物 6
一週間後、再び海沿いの店を訪れた。傾きかけた夕陽が少し眩しい。
店の看板はまだ出ていなかった。不安に思いながらも扉を押してみると、分厚い木の板は内へと招き入れるようにぬるりと動いた。からん、と遠慮がちにベルが鳴る。
「環か。よく来たな」
カウンターの向こうで、前かがみになって作業をしていた鼎がちらりとこちらを見た。
「どうも。約束通り支払いに来た。まだ開いてないみたいだけど大丈夫なのか?」
「構いやしないさ。ちょうど魚の仕込み中だから手が離せないんだが、じきに終わるからそのへんに座って待っててくれ」
鼎の声に混じって、なにか硬いもの同士が小刻みにぶつかり合う音が聞こえてくる。カウンターの椅子に浅く腰かけてみたが少し落ち着かなかった。店内を見回すのをやめて立ち上がる。鼎の言う『仕込み』がなんなのか無性に気になった。
「なにしてるのか、見てもいいか?」
「手を出さずに眺めてる分にはいくらでも」
顔を上げずに答える鼎の手元を覗き込む。鼎は銀色に光る刃物を繰り返し木の板に叩きつけていた。
青やら緑やらが入り混じる、べったりとした物質が板に広がっている。それが一体なんなのか、思い至るまでにたっぷり十秒はかかった。
正体を理解してぎょっと身を仰け反らせる。
「これ、生きてた魚だよな? なんでこんなぐちゃぐちゃにするんだよ」
生き物の身を形がなくなるまで叩き潰すなんて、野蛮と呼ぶほかない。いや、さすがオーグ料理とでも言うべきか。
とんでもない光景を見てしまった。暖かい店内にいるはずなのに肌の上を冷たさが這う。
「これもれっきとした料理法さ。こいつはアジという魚でな、今朝そこの港で揚がったものを分けてもらった。固い骨の部分を取って刻んだ香草と一緒に包丁で叩き、丸めたものを湯通しして食べるんだ。昔は『つみれ』と呼ばれてたらしい」
話しながらも店主の手は動き続ける。その声は至って穏やかで、命を無下に奪うような残虐さはどこにも感じられない。
ボール状に整えられた魚肉が、ぶくぶくと沸き立つ熱湯に次々放り込まれていくのをただ眺めた。
一度沈んだ球体はしばらくすると浮き上がり、ぷかぷかと湯の中を泳いだ。
「はてさて、やっと一段落だ。待たせたな、用件は忘れないうちに済ませておこうか」
よろしく、と言って俺は右のこめかみを二回指でつついた。
次の瞬間、視界に薄青色のフィルターがかかる。両目を覆う形で浮かび上がったエアビジョンだ。内耳に埋め込まれたナノチップが、所有者の脳波と物理刺激の双方に反応して起動する。
この生体管理システムは、六歳を迎えてプライマリカレッジへ入学する年に導入処置を施すよう全国民に義務付けられている。
対する店主は左手の甲を二回叩き、手の中に薄青色の画面を出現させた。こめかみと同様、中指の付け根にもナノチップは埋め込まれている。
チップを挿入する位置に個人の差異はあるものの、基本的に頭部と手部のワンセットになっている。モニターは用途に応じて使い分け、雑務の大半はこのエアビジョン経由で済ませることができた。
食事や買い物の代金支払いも、自身のヘッドモニターと相手のハンドモニターの間でデータ認証を行うことで完了する仕組みだった。
店主のパネルに示された『3400カイエン』を承諾した――ように見せかけた。
なにも疑われていないと判断し、相手のハンドモニターに手を伸ばすと、承認ボタンに触れるふりをして数字の部分に素早く指を走らせた。なにかされたと気づいた店主は手を引っ込めようとしたが、もう遅い。
「おいおい……どういうつもりなんだ。話が違うだろ」
状況を把握した店主は目を白黒させた。やってやった、と鼻息を荒くする。
『会計金額 6800カイエン 受領済』
そう記された白い文字が、店主の手の中で無機質に光っていた。
「全額払った。これでいいだろ?」
「そういうことじゃないんだよ。まったく……いつの間に金額を弄りやがったんだ」
「あなたがマニュアル入力で金額を入れてるのを見たので。ハンドモニターはマニュアルモードなら他人でも触れるから、ちょっと数字を変えさせてもらっただけだ。そうじゃなければ俺の気が済まなかったから」
してやられた、と店主は手のひらを上に向けて首をすくめた。彼のハンドモニターが空中にふわふわと浮かぶ。
こちらのヘッドモニターはさっさと引っ込めてしまったので、相手は力づくでもない限り返金できない。ハンドモニターをしまった店主はため息をついて口をへの字に曲げた。
「強情な奴だな。本来なら他人の厚意は素直に受けておくもんだよ。そんな若いうちからひねくれててどうするんだ。こんなことはこれっきりにしておきなさい」
はーい、と気のない返事をする。店主は再び仕込み作業に戻っていった。
鍋の水に浸してあるのは米だろう。店主はそれに蓋をしてヒートキーパーに置いた。
それから土のついた塊を洗って皮を剥き、食べやすい大きさに切り分けている。なんとなく目が離せずその場で眺めていると、店主が突然顔を上げた。
「まだ用があるのか? これ以上もらうものはないぞ」
「えっと……」