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第一章 潮風そよぐ筍ご飯とあさりの吸い物 4

「希薄なんだよ。確かに、栄養バランスはやりすぎなくらい整ってる。味にもバリエーションがあるし、腹も充分膨れる。でも心には栄養が届かない。そういうふうには作られていないからだ。食事は栄養補給のための作業であって、それ以上でもそれ以下でもない。それが当たり前の時代だから仕方がないんだがな」


「食事で心に栄養……? そんなこと、考えたこともなかった」


 わけのわからない言葉が次々に飛んでくる。


「そういうものさ。だがな、このナチュラリが当たり前の食材だった時代には、食事ってのは家族や友人と卓を囲んで、のんびり話しながら楽しく過ごすための時間だったらしい。同じ場所で一緒に料理を食べながら笑ったり泣いたりして、感情を共有していたんだ。それが、心の栄養につながっていたんだ。今じゃ考えられないが、かつての食事は娯楽でもあったんだよ」


 まだ腑に落ちない。想像が及ばない。


「レプリシャスは人間の心から切り離されたところにある食品だ。百年前の食糧革命は歴史の授業で習っただろ? レプリシャスの技術が導入された大革命は人類史に残る偉業ではあっただろうな。だが、それから人間は時間をかけて食の役割を忘れていった。より早く、より効率的に栄養摂取できることばかりを目指してレプリシャス技術は発展していき、その結果どうなったか――」


「『いただきます』を言わなくなったのか?」


 自信がないまま答える。鼎は大きく頷いた。


「話が早いな。ベースに使われているとはいえ、原材料の元の姿を一般の人が目にする機会は圧倒的になくなった。肉も魚も直接工場に卸され、そのままペーストやエキスに加工処理されているからだ。そこへ必要栄養素を完全に整えた人工食糧ベースを加えて、最終的には原材料の二十倍まで増幅される。そこからさらに多様な形に整えられて、口に入る頃には原型どころか本来の味すら留めていないのがレプリシャスだ。その中に生きていたものが存在することを意識している人間は、一体どれほどいるだろうなあ」


「鼎さん、悪い癖出てるよ。この話、何度目?」


 渚の制止を受けて、おっと、と店主は肩をすくめた。


「レプリシャスが悪いって意味じゃないぞ。食糧自給に制約のある終限時代(リミテージ)の日本が未だに存続しているのは、ひとえにレプリシャスの恩恵があるからだろうな。だが、俺はレプリシャスとはまた違う食事の在り方を探してる。命から命へ繋がる食という行為は、人の心にも力を与えると信じたい。大昔の先祖たちが囲んでいた卓をこの時代にも遺したくてこの店をやっているんだ。だから『いただきます』を大事にしたいんだよ」


 飲みかけの器をもう一度見下ろした。

 蝶のような石も浮いている草も、店主が繰り返し口にした『命』なのだと意識してみる。

 どこかしらで生まれ育って人間の手でとられ、料理されて食べられる。

 生きていたものが、その命を次に繋ぐために人間の口に入る――

 知りうる限りの知識の中で、持てる限りの想像力を働かせて思い描いてみる。


「ごめん。俺にはあんまりピンと来なかった」


 うまくいかなかった。この石と草が生きていた姿を想像できない。

 そもそも名前すらわからないのだ。命を食べることが心の力になると言われても、自分にとっては見知らぬ世界の話でしかない。目隠し状態でのスケッチがうまくいくはずがない。


「でも、」


 俺は覚悟を決め、再び器を手にした。


 これを飲んで感傷を揺さぶられたのは事実だ。

 この食べ物には確かにレプリシャスにはない何者かが宿っているのだろう。触れてしまったからには突き止めたい、そんなふうに思わせられるのもオーグ料理の力なんだろうか。

 持ち上げた器に口をつけ、ためらうことなく呷る。

 中の石がカラカラと音を立て、転がってきて鼻にぶつかる。石にこびりついていた柔らかいものが剥がれて口に入り、気がついたときには勢いよく奥歯で噛み潰していた。

 じわ、と染み出した液体が舌の裏に広がり、強烈な潮の味と得体の知れない臭みに背筋が寒くなる。

 口に入れてはいけない異物だったか。そう思う一方で、これこそが『命』なんじゃないかと直感が告げていた。

 初めての経験に尻込みしながら勇気をふるって舌で感触を確かめる。ぐにゃりと押し返すような柔らかさを感じた瞬間いよいよ総毛立った。

 もう咀嚼できず、それ以上は舌で触れないようにして飲み込んだ。店内にいる全員の視線が集まっているのを感じる。


「全部食べた。これ、なんて料理なんだ? なにが入ってるんだ?」


 こびりつくような後味に、口をもごもご動かしながら尋ねる。


「吸い物と呼ばれる料理だよ。今日の具に使ったのはあさりという貝だ。東都の外れに広い砂浜があるんだが、ちょっと掘り返したらこいつらがわんさか獲れる。添えてある葉は三つ葉だ。こっちは西部の森で採ってきた。ただの飾りじゃなくてちゃんと食べられるんだ。口の中がすっきりするぞ」


 食べ残していた三つ葉を箸でつまみ上げるとつゆが滴った。葉っぱを食べるのはもちろん初めてだ。

 またおかしな食感なのではないかとこわごわ噛むと、涼しい香りが思いがけない強さで広がった。店主の言った通り爽やかだった。

 小さな草なんて、と少し見くびっていたが、実際にあさりの後味が少し和らいでほっとする。

 あさりと呼ばれていた貝は、味も食感も好きになれなかった。これまでに食べたどんな食品より風味がきつく、なにより中途半端に弾力のある食感が耐えがたかった。

 今すぐに口も鼻もすすいでしまいたいくらいだ。だが――


「あさりって、海を極限まで詰め込んだみたいな味がするんだな」


 心に浮かんだ風景を写し取って言葉にした。ほう、と店主が顔を上げる。


「まだ口の中に味が残ってる。濃いっていうか……臭いっていうか。レプリシャスならもっと食べやすいのに、なんでわざわざこんなの食べるのかわからない。でも、スープもあさりも本当に海の味がした。なにかを食べて自然を感じたことなんて今までなかったし、口の中で味がこんなに暴れたこともなかった。だから、もしかしたらすごいものなのかもとは思う……」


 そこまで言って、なんて続けていいのかわからなくなった。


「初めてでそれだけわかれば充分だ。食べてみてもなにも感じない人もいるからな。どうだ、レプリシャスにはない『オーグ』の味わいも悪くないだろう?」


「嫌いじゃない。でも、あさりはもう食べたくないかも。筍ご飯はうまかった。変わった味じゃなかったし」


 素直な感想を述べる。店主はくくっと喉で笑った。


「いきなりあさりの身を食べた勇気には脱帽するよ。ビギナーはみんな嫌がって箸もつけないもんだからな。あさりから出るエキスがつゆに滲み出しているから、その風味だけを楽しんでくれてもよかったんだぞ」


「そういうことは早く言ってくれよ……」


 げんなりした。背筋がぞわぞわするのを我慢して飲み込んだ俺の覚悟を返してほしい。


「まあまあ、いい経験だと思っておいてくれ。ところで、ひとつ質問だ。料理を残さず食べ終えた今、環はまだここが悪徳商売の店だと思うか?」


 真剣な目つきの店主と目が合った。どきりとして、思わず視線を逸らしてしまう。


「……噂とは全然違った。客に血まみれの獣肉を出して食べ終わるまで帰さないって聞いてたけど、そんなことはなかったんだな」


 申し訳なさを抱えながら呟くと、後ろでどっと笑いが巻き起こった。テーブル席のグループだ。酔っぱらった渚などは涙を流してゲラゲラ笑っていた。

 店主もさすがに苦笑せずにはいられない様子だった。気まずいのは俺だけらしい。


「ひどいな。さすがにうちの名誉のために否定しておいてほしい」


「俺が言っても噂がなくなるとは思わないけど……誤解して押しかけたのは謝る。すみませんでした」


 立ち上がって頭を下げる。数十分前の自分の振る舞いが本当に恥ずかしかった。

 唆してきた友人に文句を言わなくては気が済まない。あいつ、次に会ったら覚えてろ。


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