第一章 潮風そよぐ筍ご飯とあさりの吸い物 1
潮の香りが濃くなってきた。俺は歩きながら手の中に浮かべた3Dマップを確認する。
あと三分もかからずないはずだが、いやに遠く感じる。海沿いの寂れた道を歩く人は他に見当たらないが、つい誰かの視線がないかと見回してしまう。
「ここまで来て、帰るわけにいくかよ」
自分を鼓舞するように呟き、止まりそうになる足を前に送り出した。夜風がざわりと頬を撫でる。
やがてぽつんと灯の点った建物の前が見えてきた。看板の文字を確認する。ここで間違いない。
重そうな扉を少しだけ押してみる。中からはオレンジ色の灯と陽気な話し声が漏れてきた。暖かい場所だとすぐにわかり、少し気持ちがざわつく。
それでもぐっと唾を飲み込み、意を決して扉を押し開けた。扉に取り付けられたベルが乱暴な音を立てる。
「悪徳商売をしている店はここか!」
飛び込むと同時に、出せる限りの声で叫んだ。慣れない大声に自身の耳がキンキンする。
広くない店内を見回すと、テーブルを囲んでいる数人の客が呆気にとられた様子でこちらを見ていた。
奥にいる大柄な人物は店主だろう、何事かと言わんばかりに目を丸くしている。いざ相対すると一気に緊張が高まったが、構わず声を上げる。
「質の悪いオーグ料理を出して、客から高い金を巻き上げてると聞いたぞ。そんな商売が許されると思っているのか? どういうつもりだ!」
しん、と水を打ったようにその場が静まり返った。店主はますますわけがわからないといった顔で俺を見ている。なにか言われたらいつでも噛みつくつもりで、獣さながらに睨みを効かせる。
数秒ののち――誰かが盛大に吹き出し、店を覆う静寂が勢いよく破られた。
「おいおい、威勢のいい奴だな。悪徳商売だって? どこからの情報だ?」
若い声の男だった。俺より十歳ほど年上だろうか。高くまとめ上げた長髪と、こめかみに入れられた剃り込みの対比が目を引く。
ひとしきり笑って涙を拭ったあとで、剃り込みの男は態度を一変させて低く凄んだ。俺の虚勢とは比べものにならない気迫に、思わず身を竦ませつつも言葉を投げ返す。
「この店が客を騙してるとカレッジで聞いて、許せないと思った。それだけで充分だろ?」
「はっ、世間知らずなガキ共の噂か。お前、当然ここの飯を食ってから文句言ってるんだろうな?」
「それは……でも、この店の料理を食べたかどうかなんて関係ない。そんなことより、わけのわからないオーグ料理なんてものを売りつけてる方が問題だろ。金儲けのためか!」
「飯で儲けたかったら安くても客が多いレプリシャスカフェの方がよっぽど金になるっつの。けどここのマスターはそういう主義じゃねえんだよ。さてはお前、ナチュラリ自体食ったことすらないクチか?」
思いきり投げつけた言葉は剃り込みの男に易々と受け流される。核心を突かれていよいよ押し黙るしかなくなった。
この男の言う通り、俺は確かにオーグ料理――こいつはナチュラリと呼んでいるが――を食べたことは一度もない。実態をよく知らないまま友人にけしかけられて乗り込んだだけだ。
次第に芽を伸ばす羞恥心のせいか、耳がやけに熱い。
「渚、そろそろやめてやれ。あんまり恥かかせるもんじゃねえ」
店主の助け舟がありがたかった。渚と呼ばれた剃り込みの男は首をすくめ、テーブルに置かれた小さなグラスを手に取ってぐいっと飲み干した。
「鼎さんも人がいいなあ。こいつ、なにも知らないくせにホライゾンを馬鹿にしたんですよ? 縛り上げてやってもいいくらいだってのに」
「よせったら。学生なら知らなくて当然だ、そうカッカするな」
店主は鼎という名らしい。渚を小さく睨み、今度は俺の方を見て神妙な表情になった。