プロローグ 国境を超えるクロダイの刺身と炙り 2
「待たせたな、リクエスト通りのサシミだ。新鮮なうちに食べてくれ」
「サンクス! こいつはうまそうだ。こっちの皿はなんだ? バーベキューかい?」
「こいつは『アブリ』といって、サシミの皮を残して焼いてあるのさ。ワサビを用意できたらよかったんだが、あいにく今週は仕入れが間に合わなくてな。ジンジャーはその代わりに使ってくれ。口の中がさっぱりして香りもいい。あとの味付けにはソイソースと塩、どちらでも好きな方を」
桜は食べるなよ、そう笑ってカウンターのライトを点ける。
カウンター席の真ん中に陣取った客は目を閉じると「いただきます」と呟き、箸をとって刺身をつまんだ。
小皿に注がれた醤油をたっぷりつけ、受け止めるように開いた口で迎え入れる。すぐさま次のひと切れにも手を伸ばし、慎重に味を確かめるように噛みしだく様子を鼎は穏やかに見守る。喉を鳴らすように飲み込んだ異国の客は満足そうに頷いた。
「やっぱり『ナチュラリ』は旨いな。模造食なんかとは大違いだ。生き返った気分だよ、あんたの料理を食べるために東都に来てると言ってもいい」
「それはどうも。あんたも国ではフィッシングをしてるんだろう? そうでなかったら、わざわざ仕事での渡航に釣り竿なんて持ってこないだろうに。食べてはいないのか?」
「妻と娘が嫌がるんだ。生の魚なんて見たくない、グロテスクだってね。おかげで僕のキャンプはいつもひとりぼっち、魚を家に持ち帰ることもできないのさ。それにカナエほど上手くは作れない、ここで食べるのが一番だ」
両手を上に向けて肩をすくめた彼に、鼎も苦笑で返す。
「生の食材を食べる必要がないから仕方ないさ。あんたみたいにナチュラリと呼ぶ人も少ない。大抵は『オーグ』の呼び名で悪食扱いだ。太古の神話に登場する、人間を生きたまま食っていたという血なまぐさい鬼の名前を冠した呼び名がつけられるとは、つくづく嫌われたものだな」
「でも、僕は死ぬまでカナエの作るナチュラリを食べたいからね、まだまだ船を降りるわけにはいかないよ。カナエだって、キッチンに立てなくなるまで店を続けてくれるんだろう?」
「なんとかやっていくさ。あんたひとりでもお客がいるんなら辞められない」
窓越しの陽が僅かに傾く。鼎はホールのランプにも明かりを灯した。店内が淡い橙色に染まり、夕焼けの赤を照り返す床にグラデーションが生まれる。
異国の客は角皿に箸を伸ばした。注意深く生姜を乗せた切り身に塩を振りかけ、落とさないようにゆっくり口元へ運ぶ。
驚いた表情を浮かべて鼻から大きく息を吸い込んだ彼は、みるみる目を丸くして首を大きく縦に振った。
「刺激的だね。それにちっとも臭くない。それどころかいい香りでいっぱいだよ。焦がした皮はスモーキーで、ジンジャーが爽やかだ。サシミもうまかったが、このアブリも絶品だな」
「ご満足頂けて光栄だよ。ライスが必要なら言ってくれ、炭火の釜で用意してある」
「もちろん。大盛りで頼むよ」
加温機にかけてある鉄釜の蓋を鼎が取る。炊きたての白米から真っ白な湯気と蒸れた香りが沸き上がった。
小丼に盛りつけ、カウンター越しに腕を伸ばして客へ手渡す。しばらくどちらも言葉を発さなかった。食べる者と作る者のあいだにあるのは静かな想いだけだった。
「あんたが次にここに来られるのはいつだったかな」
ぽつりと鼎が呟く。空になった丼を置いた客人は髭を撫でながら答える。
「三ヶ月後だな。ひどく暑い時期になる。魚が釣れるかどうか」
「そうだな。ボウズだったときは、俺のおすすめを食べていってくれ」
小さく笑いながら、左の手の甲を二回叩いて掌を上に向けた。
手の中に浮かび上がった透明な3Dモニターの中から、カレンダーのアイコンに指を近づける。
〈2216年6月〉を選んでリマインダーを設定し、その季節になんの食材が手に入りそうか考えを巡らせた。
「そういえば、今日の魚はなんていう名前だったんだい?」
満足そうにネクタイを緩めた客に問われ、店の入り口に向かっていた鼎は背中で答えた。
「クロダイだろうな。少なくとも、二百年前にはそう呼ばれてた」
重たい扉を押し開き、店の外壁にひと抱えほどもある看板を吊るした。
一枚板に刻まれた無骨な墨文字が、沈みかけた陽光を受けて輝いている。そこにはこう記されていた。
〈ビストロ・ホライゾン〉