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プロローグ 国境を超えるクロダイの刺身と炙り 1

 船が来る。

 水平線の彼方から、うすぼんやりした影が近づいてくる。


 ゆっくりと向かってきたそれは、やがて陽の下に全貌を晒した。さして高くない二階造りの船体に威圧感はなく、しかし奥行きは目視では測れない。

 丸みを帯びたフォルムはどこか重たげで、つるりとしたボディが日光を鈍く反射させる。

 やがて巨大な訪問者は、この都市――セントラル東都にある唯一の港へ滑り込み、厳かに錨を下ろした。穏やかな波に任せたその身は静かに上下する。


 着くべき場所に辿り着いた姿を見届けると、飯塚(いいづか)(かなえ)は店の外壁にもたせかけていた身体を起こした。海に背を向け、木製の扉を押し開く。取り付けられた小さなベルがころころと小気味よい音を立て、潮風が店内に流れ込んだ。


 四人掛けのテーブルが三席、カウンターが五席。どちらも白い内壁に映える紺碧の調度品で揃えられている。鼎はテーブルの傍を抜け、奥のスペースに足を踏み入れた。三人も入ったら窮屈になるほどの、簡素で狭い厨房だ。今日使う予定の食材を貯蔵庫から取り出し、黙々と料理の下拵えを進めていく。


 窓越しの日射しが傾き始めた頃、店の扉が大きく押し開かれた。


「ハイ、カナエ。なにを持ってきたと思う? 当ててごらん」


 ベルの音に陽気な声が混じった。入り口に頭をぶつけそうなほど背丈のある人物が、大きなクーラーボックスを抱えて笑っている。短く刈り込まれたブロンドの髪が夕陽を受けて輝いた。一瞥した鼎も口角を上げる。


「オープン前だぞ。まだ出せるものがないのにせっかちだな」


「ノープロブレム。それよりこいつだよ、たった今そこで釣ったんだ。サシミにしてくれ」


「オーケーオーケー。少し待っててくれ」


 彼は厨房の中まで入り込み、床に置いたクーラーボックスの蓋を持ち上げる。魚だった。黒く大きなうろこがぎらぎらと光り、背鰭のとげは硬く鋭い。まだ生きているらしく、鰭がかすかに上下している。五十センチはある大物だ。ひゅう、と鼎の口が鳴る。


 魚をまな板に横たえた鼎は、まず魚の頭に包丁を差し込んで締めた。身を水に浸して血を綺麗に抜き取る。動かなくなったのを確かめると、今度は包丁の背を使ってうろこを手早く剥いだ。

 それからエラの隙間に刃を差し込んで取り除き、柔らかい腹を割って内臓を取り出す。空になった腹を水でよく洗い、今度は魚体にたっぷりと塩を振りかける。しばらく全体に揉み込んでやったあと、鼎は魚を流水にさらしてぬめりを洗い流した。


 再びまな板に置いた魚の頭にざくりと刃を入れる。エラから胸びれにかけて切り落とす。頭を落としても刺身を取るには充分な大きさだった。

 中骨すれすれの位置に寝かせた包丁を差し込み、骨から身を剥がすように刃を動かしていく。白く透き通った身はつややかだ。魚体を裏返して反対側の身も切り離す。

 腹骨をすき切り、身の中ほどにある小骨を取り除くように切り分ける。皮付きの柵が四本できあがるまでに十分とかからなかった。


「せっかくだから、半分は違うやり方で出してみるか」


 鼎は独りごちると、皮目と身の間に包丁を滑り込ませて皮を引き剥いだ。


手の中の短い包丁を長細いものへと持ち替え、寝かせた刃の根元から切っ先まで使って魚の肉を撫で切る。香りの強い野草を敷いた黒の塗り皿へ、風を通しそうなほどの薄造りに仕立てた刺身を並べていく。小ぶりな皿の上に清楚な花が慎ましやかに咲いた。


 残った二本の柵は皮目を上に向ける。鼎が道具棚の奥から引っ張り出した円筒状の器具を見て、来客は「ワオ」と声を上げた。


「驚いた、バーナーじゃないか。プリミティブキャンプでもするのかい」


「まあ見ておきな。あんまり近づくとその立派な髭が燃えちまう」


 言いながら、おもむろに栓をひねってトリガーを引く。

 途端に先端のパイプから突き上げるような炎が放たれた。柵に炎を沿わせると、焼かれてちりちりと縮れた皮から香ばしさが立ちのぼる。

 鼎はシンクに備え付けられているボタンに手を伸ばした。

 表示された数字パネルに触れて『2℃』『1L』そして『ENTER』を選択する。その動作が終わるやいなや蛇口から水が流れ出し、しばらくするとひとりでに止まった。


 ボウルで受けた冷水に炙った柵を浸す。余分な熱を取るためだ。

 あらかた冷えたところで取り出し水気を拭うと、こちらも刺身包丁で捌いていった。先ほどの薄造りよりも幾分か厚く、しかしその幅は均一に揃っている。青磁の角皿に盛り並べ、擦りおろした生姜を脇に添えて二皿目が完成した。


 だが、鼎はどこか納得のいかない顔つきだった。皿をしばらく眺め、そうしてなにかを思いついたように店の出窓に歩み寄り、瓶に活けていた桜の枝から一本ちぎって皿の端に添えた。


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