序章
ダリュスカインは、白い息を吐いて空を見上げた。
彼の、豊かに波打つ金の髪は高く結い上げられ、細身の体を包む濃い赤の外套が雪景色の中に映える。その背丈がなければ女性かと見間違いそうな秀麗な顔立ち、雪を溶かしそうな炎にも似た紅い瞳。しかし、眼差しに宿る光は意外にも静かだ。そして──彼の右腕は、肘から下が存在していない。彼がそれを失ったのは、ほんの半年にも満たない最近のことだ。
<まだ、春は遠そうだな>
冬は春を寄せつけぬ勢いでしぶとく居座り、凍る空気がようやく少し緩まったと安心した次には、再び容赦ない寒さが身を冷やす。昨日は日がな一日中、雪を降らせてみせた。蕾が目覚めようとしている桜の木も、すっかり縮こまってしまっている。
それはまるで、彼自身の心のようでもあった。溶けそうになってはまた凍り、永遠に溶けることはない冷たい凍土。
<癒えるはずも、赦されるはずもない>
戦いに敗れて右前腕を失う大怪我を負った彼は、ここ──星莱の山の小屋の住人、宗埜と結迦に助けられて一命を取り留めた。秋の始まりの頃だ。
傷が回復し動けるようになった彼は、どうしても腕を斬り落とした相手への執着が消えずに一度はここを去ったものの、見えざる闇の力につけ込まれ、その私怨をまんまと利用されてしまった。結果、自身の意思もままならぬ状態で殺戮を重ねた記憶は、おぼろげながらも、心の奥底に重く横たわっている。
自我を封じられた心身喪失状態から、土壇場のところで正気に引きずり戻した一撃の貫通痕が、彼の胸にはしっかりと刻まれ、ことあるごとに軋むのだ。己の咎を忘れるなと。
いちいち傷が軋まずとも、忘れるはずもない。この命を差し出す以外に、償う術も知らない。そのつもりであの日、胸を貫いた剣を自ら引き抜いたのだ。
なのに、どういうわけか自分は、ここに帰ってきてしまった。
<どうして>
生きて再びここへ戻れた安堵と、死に損ねたという失望が、ともすれば心をかき乱す。満身創痍のこの肉体が、そう長く持たないであろうことも、彼は薄々感じている。ならば自分は一体、何のために存在しているのだろう。
ふと。
「カイン」
自分を呼ぶ澄んだ声が耳に届き、ダリュスカインを現実へ引き戻した。
小屋の扉から姿を現した黒髪の小柄な女性が、雪の積もった地面を踏みしめながらこちらに歩いて来る。彼の母とどこか似た深緋色混じりの朱い瞳が、柔らかな光を湛えてダリュスカインを映す。
両の耳のあたりに流した赤い一房の髪色が目を惹くが、これは生まれつきだそうだ。彼女の、森羅万象の声ならぬ声が聴ける能力に関係しているのかも知れないが、真相は定かではない。黒を基調とした装束に、防寒のための赤紫に染めた毛糸を編み込んだ羽織が、ささやかな華やかさを添えている。
ダリュスカインは彼女が手にしている薬草が詰まった麻袋を左手で受け取ると、傍にいる牛のような四足の長毛獣──デカウの背に乗せた。
「これで全部か、結迦」
結迦は、デカウの額を覆っているふさふさした白い毛を撫でつけながら、「はい」と頷く。
その時再び扉が開き、白髪を背に束ねた老年の男が出てきた。
「前回といい、連続で二人に任せていてすまんの。今日も道中は雪が積もっておるだろうし」
申し訳なさそうな老爺に、結迦が微笑む。
「いいえ、宗埜様。カインがいれば雪道も難なく進めますし、ご心配は要りません」
すると、宗埜はダリュスカインを見上げて目を細めた。その目に、未だ自分を認め切ってはいない複雑な思いが渦巻いているのを、ダリュスカインは黙って受け止める。
「結迦をくれぐれも頼むぞ」
「はい」
厳かに答え、踵を返す。
デカウの手綱を握って前方を向かせると、彼は言葉もなく歩き出した。結迦がそのあとに続く。
宗埜は、坂を下っていく二人の姿が見えなくなるまで見送ると、腰をトントンと叩きながら「冬の空気に負けるとは、儂も歳をとったもんだ」と一人呟き、小屋へと戻っていった。
人通りもほとんどない山道にはしっかりと雪が積もり、ただでさえ険しい山道の難易度を上げていた。
とは言えダリュスカインは突出した魔術の使い手──いわゆる上級魔術師と呼ばれる職位の持ち主であった。
積雪が厚く、足を踏み入れるのも困難な場所も、ダリュスカインの魔術があれば苦労はしない。彼が軽く左手を開くだけで、そこから繰り出された炎がふわりと雪を蒸発させて道を切り開く。その程度のことは、彼にとって造作もないことだ。
二人ともあまり喋る性格ではないゆえ、道中の会話はあまりない。
雪が音を吸い込み、空気は澄んでいる。しんと身を包む冷気の中、二人は黙々と山を下った。それは平和で、穏やかな旅路だった。




