八十九話
兵達に纏わり付いていた虫の数が、急に少なくなったばかりか、敵の頭上目掛けて落とされるのを見た信長は、それらが香菜姫の助力に依るものだと気付いた。
ならばこの状況を勝機とすべきと即座に判断し、覇気を込めた声を上げる。
「臨、兵、闘、者、皆、陣、烈、在、前!全軍、進め!」
一気に敵との距離を縮めた弩隊が、焙烙火矢を立て続けに放つと、最後まで残っていた敵方の投石機が全て破壊され、爆発炎上する。
その爆風に煽られ、敵の騎馬隊や歩兵が次々に倒れたのを機に、帝国軍の隊列が大きく崩れていった。逃げ出す者が出たからだ。
しかも逃げる兵達の行く手を防ぐように、巨大な鉄板が立て続けに二枚、地響きを立てながら地面に突き刺さる。その時点で、完全に戦意を失ったのだろう。逃げていた者達が、その場に座り込み始めた。
その様子は、残っていた兵達にも、大きな影響を与えることとなった。
信長達が更に数度、焙烙火矢の攻撃を行うと、一気に五間程の道が開けたのだ。脇に避けた兵達は、これ以上我が身が傷つく事を恐れるように、ただ盾で頭上をかばい、縮こまっている。
そして、開けた道の先には皇帝・クーラント三世の姿が見えた。
その前に立ちはだかるのは、将軍率いる騎馬隊と、皇帝直属の騎士団、そして魔術師隊だ。
将軍は頭上で大剣を振るい、落ちてくる虫を切り刻むと同時に、灰燼としているところを見ると、強い炎の魔力持ちだと判る。それ以外にも、風魔法を駆使して旋風を起こしている者や、大きな盾を片手で持ち上げ、周りの者達の頭上にかざしている者もいた。
「ここは、私が」
ビートンが前に出ると、直ぐさま連合騎士団が後に続く。その大半が、信長考案の剣を手にしていた。
ヘンリー達魔術師隊も、援護のために脇に付く。
僅かな睨み合いの後、双方一気に駆け出し、互いの剣がぶつかり合う。
一直線に大剣を振るう将軍を目指すビートンを、ヘンリーが補佐する。ビートンに向けて放たれる、相手の魔術師の攻撃を得意の金属珠を回転させて弾くと同時に、電撃を飛ばす。
その行く手を阻もうとする騎馬兵は、ビートン直属の部下であるケナードが、跳躍して馬から引き摺り降ろして、間髪入れずにとどめを刺せば、残った馬を炎使いのアイクが火球を操り、相手方にけしかける。
普段はバーリーの副官を務めているジョス・ボイヤーの補佐をしているアーサーは、土の壁を次々と出したり消したりする事で、相手の動きを妨害していた。
この二年の間、互いに協力しあって魔獣を退治してきた彼等の連携の取れた攻撃に、各々が単独で挑む帝国側は次第に押されていく。
遂にビートンが将軍と対峙し、互いの剣が激しい音をたてながら、ぶつかった。
ガキンッ、ガン、キィン!
どちらも剛腕を誇る武人の為、その音と迫力に満ちた闘いは周りを圧倒し、暫し皆の動きが鈍っっていく。
そこに、信長の喝破が飛んだ。
「気を抜くな!」
その声への反応は、連合軍が僅かに勝った。即座に攻撃を再開し、相手の隙を突いていく。その為僅かな間とはいえ、他所に気を取られていた帝国の騎士達は、その刃の前に尽く倒れる事となった。
その少し前。
「周王よ、ビートン達の邪魔をしてはならんぞ」
「承知!」
周王の返事と共に、両騎士団の頭上に虫が落ちる事はなくなった。代わりに、皇帝達の頭上にふり注ぐ虫が増加する。クープマンの張った防御に当たる音が大きくなり、やがてあちらこちらに亀裂が走り、縁からボロボロと欠け始めた。
「おい、何とかしろ!」
皇帝が叫ぶが、クープマンが異を唱える。
「しかし、同時に二つの術は使えません。使うなら、これを一旦、止めなければ!」
「防御は止めるな!いいから考えろ、この役立たずが!」
皇帝が喚きちらすが、その時、魔術師の顔色が変わった。
「腕が……」
気がつけば、魔導書マレフィクスを持つ手の肘から先の感覚が、無くなっていたのだ。しかも冷水を浴びた様に、身体が一気に冷えていき、全身がガタガタと震えだした。
上空で、前足をチョイチョイと動かしていた華王が、にまりと笑う。
「華王、上出来じゃ。周王、本を頼む」
「あいな!」
周王の手から繰り出された紐が、クープマンの手の中の本に巻き付き、強く引かれる。すると。
バキンッ!
凍りついた手首から先ごと折り取られ、魔術師の手を付けたままの本が、紐に巻かれて宙を舞った。
「これは要らぬ」
周王は汚い物を落とすかのように、張り付いている手を振り払うと、弓の用意を済ませた姫に本を手渡した。
既に凍り虫の雨は止んでおり、香菜姫も御行の術を解いていた。これから己がする事を、見せ付ける為だ。
そのため帝国軍の者達は、漸く香菜姫達の存在に気がつく事となった。空に浮かんだ二匹の白狐と、そのうちの一匹に跨る少女の姿を見たのだ。その少女は初めて見る異国の衣装を身に纏い、長い黒髪を風になびかせている。
「もしや、あれがレストウィックの聖女か?おぉ、確かに空に浮いている!おい、誰でも良い!あれを、あれを、手に入れろ。今すぐにだ!」
皇帝が上空に浮かぶ香菜姫達を指差して喚くが、肝心のクープマンは座り込み、ガタガタと震えながら手首から先の無い右腕を呆けたように見ているので、役に立ちそうにない。
将軍や騎士団も、眼の前の敵の相手をするのに手一杯で、誰も皇帝の命令に耳をかす暇も無い。側に居たはずの二人の副将軍は、虫が降らなくなった時点で己に類が及ばぬ様、遥か後方へと下がっていた。
そんなクーラント三世に、香菜姫の蔑みのこもった声が降ってくる。
「なにを寝ぼけた事を言うておる。妾達は誰の物にもならぬわ。まぁ案ずるな。其方達は簡単には殺しはせぬ。徹底的に惨めな思いをしてもらわねば、妾の気が済みそうにないのでな」
言うなり魔導書を放り投げると、周王が更に風にのせ空高く舞い上げて、一箇所に留め置く。それを姫が用意していた矢天之麻迦古弓とその矢である天羽々矢を打ち起こし、引き分けて狙いを定める。
「オン マリシェイ ソワカ、オン マリシェイ ソワカ、オン マリシェイ ソワカ!」
摩利支天の真言を唱えながら、神力を込めて射ち放った。
ダンッ!
漆黒の本の中心に、光り輝く矢が刺さった途端、
ブワンッ!
魔導書から黒い靄のような物が多量に吹き出す。それはやがて巨大な人影となり、
パアンッ!
人影を覆っていた黒い物が一気に弾け飛ぶ。そして現れたのは、長髪に髭を蓄えた、巨大な壮年の騎士だった。
「あれは、あのお姿は……もしや先代の勇者、ホルガー様では……」
ロウェイ軍から、驚きの声が上がる。
『我が名はホルガー……ホルガー・ダンスク……』
唸るような声が、辺に響く。その時点で敵味方関係なく、全ての者が動きを止めて空に現れた騎士の姿に見入っていた。
そして、その名を聞いたロウェイ王国の面々は、先代勇者に対する礼として、深く頭を垂れていた。
『我は時空の狭間で眠り、我が祖国が真に危機にさらされし時、目覚めし者。 しかし、不思議な術によって、この世界に呼ばれた。祖国ではないが、理不尽な恐怖にさらされている人々に、我は手を貸す事にした。その後使命を果たしたものの、悪しき術にてこの身は忌まわしき本に捕われ、祖国のために身に着けた我が知識は、悪用され続ける事となった』
先代勇者が皇帝と魔術師に怒りの目を向けたため、その場にいた者達は皆、二人が先代勇者を苦しめた張本人であることを理解した。
『どれ程不本意であっても、知識を求められれば、応えるしかない我が身を、幾度呪ったことか。対価として罪を犯した者の魂を要求したが、それでも、我が心は屈辱に塗れ、苦しみ続けた』
言いながらクーラント三世達に向かって手をかざし、光る鳥籠の様な物に二人を閉じ込めると、香菜姫の方へと視線を移した。
『異国の娘よ、感謝する。そなたのお陰で、この身は開放された。これで漸く我は祖国へと戻り、再び時空の狭間にて、眠りにつく事が出来よう』
「戻るのは、可能なのですね?」
少しばかりの羨望を含んだ姫の問に、ホルガーが頷く。
『もとよりこの身は、肉体を持たぬ。故に戻るのは可能な筈だ。実はある城に我が身を模した像があってな。それを拠り所として使おうと思う』
頷く香菜姫にホルガーは深く礼を取ると、目を閉じた。そして両手を天へ向かって高く挙げると、大声で叫んだ。
『神よ、今こそ我を彼の地へ!』
その言葉に呼応するように、大きな光が天から射したかと思う間もなく、その姿は光の中に溶けるように消えていった。
後に残された本がゆるゆると落ちてくるのを、周王が風を操り、姫の手元へと手繰り寄せる。先程までの忌まわしい黒ではなく、鮮やかな緑色となった本を手に、香菜姫は先代勇者が無事に戻れる事を、切に願った。
***
海峡を望む岬に建つ城の地下に、その像はあった。 地下牢へと続く道の暗さや、磯の香り、そして少しのカビ臭ささえ懐かしく思える己に苦笑する。愛用の剣と盾も当時のままに置かれており、その変わらぬ姿に、ホルガーの口から安堵の溜息が漏れた。
(漸く、戻ってこられたのだな……)
しかしなぜか、像に入る事が出来ない。僅かに小さいのだ。長らく魔力に満ちた異界にいたせいで、些か霊体の大きさに変化があったようだ。
(仕方ない……)
像に向かって力を注ぎ、少しだけ、その大きさに手を加える。そうして漸く像の中に落ち着く事が出来たホルガーは、静かに目を閉じた。
「なぁ、この像、なんか大きくなってないか?」
「馬鹿な事を言うなよ。石像が、かってに大きくなるわけが無いだろう。それに、これは元から馬鹿でかいんだ」
「それも、そうか……」
微睡みの中、聞こえてきた見回りの兵士らしき声に緩く微笑むと、ホルガーは再び深い眠りへと落ちて行く。真に祖国の危機が訪れた時に、目覚める為に。
ホルガー・ダンスクはデンマークの伝説の英雄で、彼の巨大石像は、ヘルシンガーの町に建つクロンボー城の地下牢入口にあります。この城は2000年に世界遺産として登録されており、シェイクスピアのハムレットの舞台としても、有名です。




