八十八話
空に怪しげな紋様が浮かび上がったのを見た信長は、敵の何かしらの術が発動すると察し、即座に騎馬の弩隊に命令を出した。
「先ずは、投石機の破壊が最優先だ!」
相手も騎馬と歩兵を出してくるが、その手に在るのは、普通の弓や剣だと判る。
「歩兵隊の一番から五番は、弩隊の邪魔する奴等を潰せ!魔術師隊は援護を!」
馬上で弩を構える者達に向けられる矢や剣が、ヘンリーの操る魔術玉によって弾き飛ばされ、アーサーが焙烙火矢の軌道を後押しすれば、相手も矢を繰り返し射ち、歩兵隊同士が斬り結ぶ。
二台と七台の投石機は、どちらも休む暇など無いとばかりに、互いに狙いを定めて投擲し合う。
間断なく繰り返される爆発と爆風に、両軍共に多くの者達が傷付き倒れ、吹き飛ばされていく。それでも一つ、また一つと破壊されていったのは、帝国軍の投石機だった。
しかし空が暗くなり、相手方から歓声が聞こえた時から、連合軍はそれまでとは全く違った戦いを始める事となった。人対虫の戦いだ。
ヴォーン、ヴオォン。
空を覆い尽くす虫の大群が、喧しい羽音と共に連合軍の中心部目掛けて、襲いかかる。それは大人の拳程もある甲虫で、ぶつかっただけでも大きな衝撃を受けるが、それ以上に厄介な相手だという事が、直ぐに判った。
「これは……リオークだ!」
「虫除け玉だ、急げ!」
虫の正体に気付いた衛生班が、すぐさま虫除け玉を取り出し火を付けていく横で、
「くそ!何だ、この虫は。喰らいついて来やがる!」
信長が叫ぶ。
「はあぁっ!」
掛け声と共に腹に力を込めて覇気を纏うと、虫は弾かれるように離れていったが、他の者達はそうはいかない。
多くの兵士が、纏わり付く虫との格闘を始めていた。
「肉を食う虫、リオークだ!身体についたら直ぐに叩き落として、刺すか踏み潰すかしろ。でないと、喰われるぞ!」
衛生班が上げる声に、動揺が悲鳴を伴い拡がっていく。
リオークは、その大きさの割に動きが素早い上に、油断すると、僅かな鎧や服の隙間から中に潜り込んで肉を齧ってくるのだから、たまったものではない。しかも払い落としても、動き回るため刺しづらいし、軽く踏んだ程度では潰れないため、踏み潰すにも力がいる。
その為、一匹踏み潰している間にも、次々と集って来られ、気付けば齧られていた。
特に装備の軽い歩兵の多くは、既に何ヶ所も齧られ、血を流している者も少なくない。痛みと恐怖から、兵達の悲鳴はどんどん大きくなっていく。
虫除け玉が次々に付けられているものの、煙のすぐ側以外は大して効果がない上に、煙に燻られて地面に落ちた位では死なないどころか、今度は足元から這い上がって来るからだ。
そしてそれは、装具が少ない馬達にも、容赦無く襲いかかっていた。しかも馬達は虫除け玉の煙を嫌い離れようとするため、下馬した騎手が馬を宥めながら、我が身と馬の身体に付く虫を追い払うしか、術がない。
そうなると、手が回らない箇所が必ず出て来る。案の定、騎手達が自分の身体の虫に気を取られている隙に、酷く齧られた三頭が手綱を振払って暴走し、隊列から大きく離れた。
するとそこを目掛けて一斉に虫が集り、たいして間を置く事なく、馬達は動き止めたかと思うと膝を折り、僅かに嘶きを漏らすとそのまま倒れ、動かなくなった。集る虫は更に数を増やし続け、やがて馬達は、真っ黒な三つの塊となり果てた。
ギ、ギィッ、チッチィ、ギチィ……
その光景と虫達が立てる気味の悪い音に、連合軍の兵達は息を飲んだ。己が黒い塊となる可能性を見せつけられて、皆の肝が重く冷えていく。
しかも虫はいくら払っても、次々に舞い降りて来る為、終わりが無いように感じられた。
「ブンブンと五月蝿いの」
空に浮かんだ紋様から、湧き出るように現れた大量の虫達は、上空にいる香菜姫達の側にも来たものの、神力を纏った姫達に近づく事はなく、ただ遠巻きに羽音を立てて飛び回るだけだった。
だが困った事に、その数のあまりの多さから、香菜姫達の視界は少しばかりの間、遮られることとなった。
おかげで虫達が移動し、少しだけだが羽音から開放され、周りが見えるようになった時には、既に連合軍に被害が及んでいたのだ。
黒い三つの塊が目にはいり、香菜姫が眉を曇らせる。
(しもうたな。じゃが虫がおるのは隊の中心部に集中しておる。ならば、アレを操っておる者が何処ぞにおるはずじゃ。いったい何処に……)
香菜姫が目を凝らし敵軍を観察していると、黒い本を持った男が、頻りに手を動かしているのが目についた。その動きに呼応するように、虫が動いているのが判る。
「あの者が、操っておるようじゃな。周王、華王!」
「「あいな!」」
「虫共を静かにさせて、あの者達に返してやるが良い!」
手を動かす男を指差す。
「「畏まり!」」
その言葉と同時に、あれほど五月蝿かった羽音が一斉に小さな物へと変わった。上空にいた虫達が尽く羽を広げたまま凍りつき、ぼたぼたと地面へと落下し始めたのだ。
それを周王が旋風を起こして、空高く舞い上げると、今度は帝国軍目がけて、ばらばらと落としていった。
「恐怖をしっかりと植え付けてやろうぞ。二度と、こちらに手を出そうなどとは思えんほどの、恐怖をな」
***
ガン!ゴン!ガゴン!ガン!ゴッ…………
帝国軍の兵達の達は、何が起きたのか判らなかった。ついさっきまで、魔術師の命じるままに敵を襲っていた虫達が、突如として自分等の上に落ちて来たからだ。しかも、硬く凍りついた状態でだ。
拳大の凍った甲虫は、石礫のように馬や装甲の薄い歩兵達に、多くの被害を与えていった。
盾を用いてなんとか防ごうとするが、頭にまともに喰らい、倒れるのは言うに及ばず、肩や背中に受けて蹲る者や、逃げ惑い、暴走する馬に蹴られたり、踏み潰される者もいる。
しかも恐ろしい事に、一旦落ちた虫達は、再度風で空高く巻き上げられ、落下して来たのだ。
「魔術師様、助けて下さい!」
「今すぐ、虫をなんとかして下さい!」
クープマンに助けを求める声が上がるが、肝心の魔術師は横に立つ皇帝と二人して、呆然と立ち尽くしていた。
自慢の術が自軍を攻撃しているのだから、それも当然だろう。
「魔術師殿、直ぐに術の解除を!」
将軍の怒声で漸く我に返ったクープマンが、慌てて術を解除したが、消えたのは生きている虫だけで、凍りついて死んだ虫の遺骸が消える事は、なかった。その為、降り注ぐ虫は一向に減らない。
おまけに自分達の頭上にも、バラバラと降ってきた。皇帝が叫び、クープマンが慌てて防御の魔術を発動させると、巨大な盾が現れる。
しかしその恩恵を受けたのは皇帝と、その傍にいた二人の副将軍だけだった。
一方、突如として纏わりついていた虫が消えた連合軍は、虫の死骸を蹴散らしながら、一気にこちらへと向かって来ていた。
頼みの投石機は、使える物はいつの間にか、わずか二台だけとなっていた上に、そのうち一台は、たった今、炎に包まれていた。そして最後の一台の足元が吹き飛び、倒れると同時に、積んでいた爆炎玉が爆発した。
味方の多くが、爆炎玉で吹き飛ばされるのを見て、自軍が不利だと悟ったのか、ばらばらと逃げ出す者が現れた。それは徐々に数を増やしていく。
特にここまで来るのに大変な目にあい、更に昨夜は天幕の無い中での野営を強いられた歩兵達は、軍に対する忠誠心が薄れていたのだろう。逃げ出す数の多さは、顕著だった。そこに騎馬の者も、チラホラと混ざりだす。
「戦場からの逃亡は、死罪だぞ!」
副将軍が叫ぶが、クープマンの術によって守られている者の言葉は、なんの防御も持たない者達からしてみれば、身勝手な言い草にしか聞こえなかった。
その為、逃げる者達の足が止まるどころか、その数をどんどん増やしていく。隊列から離れさえすれば、落ちてくる虫から逃れられる事が、判ったからだ。しかし。
ドッゴォン!
突如、逃亡兵の行く手を阻む様に、空から巨大な鉄板が落ちて来た。その音と振動で、先頭を走っていた騎馬兵達は、驚いた馬の制御が出来ずに、地面に振り落とされていく。
それでも逃げている者達は、チラリと空を見上げただけで、その足を止める事なく、地面に突き刺さった鉄板を避けて走り続けたが、
ドッゴォーン!
又しても進路を防ぐ様に、鉄板が落ちてきた。しかも今度は騎馬兵が振り落とされるだけでなく、周りの者達も馬に踏まれ、蹴られして、倒れている。
流石にその光景を目の当たりにして、更に逃げようとする者は、一人もいなかった。
皆、どこから鉄板が落ちて来たのかと、こぞって空を見上げるが、そこに何かを見つける事は出来ずにいた。
代わりに自分達が逃げ出した場所の上空では、旋風に巻き上げられたリオークが、再び落とされようとしているのが見える。
それを見ながら、ただ茫然と立っていた兵達は、やがて震えながら一人また一人と座り込んでいった。
昨日までは、大陸最強の軍の一員である自分達の姿を見ただけで、相手が恐れをなして降伏するか、逃げ出すものだと思っていた。たとえ向かって来たとしても、最新兵器で有る爆炎玉によって、あっという間に勝敗がつくだろうと、疑っていなかった。
しかし今、強大な力を前に、自分達は逃げることさえ叶わないのだと思い知らされていた。




