七十八話
「聖女様、何か悩み事でも?」
信長を見送った後、執務室へと戻って行くオルドリッジの背をぼんやりと眺めていた香菜姫に、バーリーが声をかけて来た。
「バーリー。そちも判っておろうが、信長殿に見せた埋め火やムーン達が掘る横穴。其のどちらも妾達ならば、直ぐに片がつけられよう」
周王の炎であの埋め火一帯を焼き払い、土中に潜る華王の力で山に穴を開けるのは、造作もない事だ。
それどころか、帝国の皇城を破壊し、皇帝の首を晒せば、この戦自体、行う必要は無いものとなる。
「それが判っておりながら、敢えて何もせぬ道を選んだのは、妾自身じゃ。じゃが……」
言いながら香菜姫は、かつて父や兄と共に火事場へと向かった日の事を、思い出していた。今姫の胸に居座る蟠りは、あの時に感じたものと、よく似ている。
(次郎爺には傲慢じゃと言われたが、それは己に出来る事をやりきった場合の話。今回妾は、出来る事をせずにおる……)
(もしや罪悪感を、覚えておられるのか)
聖女が今回の戦に対して、必要以上に責任を感じている事を、薄々察していたバーリーは、眼の前の少女の頭をなで、慰めてやりたい思いに駆られた。
「聖女様。最初に我々を助けると決められた時に、陛下と交わされた言葉を、覚えておられますか?」
「覚えておる。妾はウィリアムからこの地の浄化を望まれ、無償ではせぬ事を条件に、引き受けたのじゃ。そして全てを一人でする事も無いと、明言した」
「ならば、それで良いではないですか。聖女様は既に多くの魔素溜まりを浄化され、その原因まで突き止められた。新たな魔素溜まりは現れず、民の生活も落ち着いて来ました」
「じゃが、戦が始まれば……」
「姫様、全ての者達を守る事など、出来もせん」
「それに姫様が守る必要も、ありもせん」
周王達が声を揃えると、バーリーが同意を示す能に頷く。
「聖女様のお力はこのバーリー、重々承知しております。しかしこの戦は、我々の物でもある事を、お忘れなきよう。この2年間、我々は帝国の悪辣な策の為に、多くの犠牲を払いました」
眉間に皺を寄せ、悲しげに目を伏せる。しかし直ぐに顔を上げた討伐隊長は、姫を優しく見つめながら話し続ける。
「この戦でも、多くの負傷者が出るでしょう。勿論、死者も。それでも、我々はやり遂げますよ。あの様な者たちに、負けるわけにはいきませんから。それにこれは、末代まで語られる武勇伝を得られる、絶好の機会なんです。その好機を、我々から奪わないで下さい」
最後には笑いながら語るバーリーに、武勇伝と聞いた周王が目を輝かせる。
「バーリーよ。武勇伝は我等も好む故、聞いてやっても良いぞ」
「ならば勝利の暁には、是非ともお願いします」
「うぬ。楽しみよ」
「我もじゃ」
「まぁ、それ程お気になされるのなら、最後にあの雪でも降らせて頂けたら、ありがたいです。その時には真っ先に雪をかき集めて、傷を癒やしますから」
豪快に笑うバーリーに、香菜姫も思わず笑みが溢れる。
(そうじゃな、何か御守となる札でも考えようぞ。そうして、妾は妾らしく、妾が守りたい者にのみ、渡せば良い)
**
ロウェイ王国、王城。
サリアは蘭丸の突然の訪問と、『お願い事』の内容に驚きを隠せずにいた。
(ガニラの人々にとって、馬は最も貴重な財産だ。特にその中でもガニリテケは特別で、氏族長か、軍の隊長辺りでないと、乗ることさえ許されない。それを千頭だなんて……)
どれ程金を積もうと、通常ならば絶対に無理だ。ただ、馬以上に欲しい物を渡すとなれば、話は別だ。
そしてガニラ自治区の氏族長達が最も欲しい物は、水のある土地だった。
砂漠が七割を占めているあの地において、水は何より貴重とされる。数か所ある湧き水は、厳重に管理され、一日に汲んで良い水の量が決められている。一番大きな水源は、ペルギニ王国との境界線となっている川だが、その使用権は何故かペルギニ側にある為、自由に使えるわけではなかった。だから。
「手紙を書きましょう。でも、ただ馬が欲しいと言っても、断られるのは確実よ。だから代わりに、この土地を対価として交渉することを、提案するわ」
地図を出してきて、ある箇所を指さした。それはロウェイ王国とガニラ自治区の国境近くの場所で、大きな川が海に向かって流れている場所であり、先程蘭丸が手紙を書いた領主達が治める土地でもあった。
「なんなら、この戦での協力を求めるのも良いかも。少なくとも帝国や、それに追従しているペルギニ王国に対して、彼らは良い感情は持っていない筈だから」
王女の言葉に蘭丸は暫し考え込むが、
「いくら水が欲しいからといって、ペルギニ王国辺りに良いようにされている者達が、帝国相手の戦に協力するとは思えませんが?」
「そこは頑張って、交渉してちょうだい」
言いながら、サリアは漠然ではあるが、氏族長達がこの話に乗って来るような予感がしていた。
「それに今、その土地を治めている領主達が納得するとは思えませんが」
「あら。だってこの戦、勝つのでしょう?」
「もちろんです」
「なら、問題無いわ。渡した分以上の土地を、帝国から取り上げれば済む話よ」
サリアの言葉に、蘭丸が一瞬目を見張る。しかし直ぐにクックッと笑いながら、手紙を書くよう頼んできた。
手紙を手に蘭丸が去ったあと、サリア王女は先ほど出した地図を眺めていた。ガニラ自治区とペルギニ王国の境をなぞる。今回の戦において、ペルギニ王国は今のところ、目立った動きは無いという。
(でもあの国は、何故か昔から信用出来ない……)
思案した結果、サリアはもう一通、手紙を書くことにした。
サリア王女との話を終えた蘭丸は、その後、戻ってきた信長から出された新たな要求に、再び頭を痛める事となる。
**
ゲートヘルム帝国、皇城。
「ロウェイ王国とレストウィック王国は、こちらが予測した通り、森を抜けて来るようです。先行の小隊が行軍の邪魔になる木や藪を払い、迷わぬ為か、木に印をつけているのが確認されています」
斥候からの報告に、玉座で鷹揚に座っていたクーンラート三世の口角が上る。既に罠の下準備は整い、後は連合軍の者達を、その場に導くだけだ。仮にそれが失敗しても、第二、第三の策がある上に、何より絶対的な兵力の差があった。
今回相手の連合軍の兵力はおよそ三十万。対してこちらは八十万。クーンラート三世を始めとする、ゲートヘルム皇国の面々は、すでに勝利を確信していた。
「他に動きは」
「ロウェイ国が南側の国境付近に、兵を集めているようですが、それ程多くはないようです」
「どのくらいだ?」
「確認出来た数は、およそ三万程かと」
「ペルギニ王国に、協力を求めてはいかがでしょう」
兵の数や兵器等、圧倒的な差があるとはいえ、兵力を分散するよりも、ここは友好国に任せてはどうかと将軍が進言するが、
「いや、必要無い。直ぐに相手の倍ほどの数を、送り込め。圧倒的な力の差を、見せつけてやる」
軍の責任者である将軍が、少し眉をしかめた事には気づかず、クーンラート三世は不敵な笑を浮かべて、命じた。




