六十七話
懐しくも慣れ親しんだ味が舌に甦り、香菜姫の声が思わず大きくなる。
「あるぞ!こちらの飯も、そう不味くはないが、やはり味噌が無いと物足りなくてな。散々ごねて作らせた!最初は臭い上に苦くて、とても食えたものではなかったが、最近のヤツは何とか食えるぞ」
自慢げに笑う主を見ながら蘭丸は、『ごねた』程度で片付くような、そんな可愛いものでは無かったのにと、呟いた。
味噌は米と共に武将達が好んだ戦飯で、焼き味噌や味噌玉は兵糧として重宝されていた。信長も陣中食として焼き味噌を好んで食していた為、蘭丸は常に用意出来るよう、心配りをしていたものだ。
だが、まさか異界で味噌を作れと命じられるとは、思わなかった。
「じやが、麹はどうしたのじゃ?もしや此方でも、麹は売られておったのか?」
聖女の幾分期待のこもった質問に、思わず苦笑いする。蘭丸も己の領地において、味噌作りを奨めていたので、味噌を作る工程は把握していた。
しかし、要とも言える麹がどのような物か、という事は、理解していなかった。蘭丸にとって麹は、もやし(種麹)屋から買う物だったからだ。
「まず米がありませんし、麹も当然ありません。ただ、よく似た麦や豆はありましたし、麹のようなものも、何とか見つけることが出来ましたので……」
味噌作りを命じられた時、蘭丸は直ぐに味噌と似たものがないか、ラウルや兵達を使い調べたのだが、そう都合良く見つかる筈もない。ただ、大豆に似た豆は見つかり、麦も、見知ったものと大差ない事が判ったのは朗報だった。
そして、この国にも酒や獸乳、野菜と塩を用いた食べ物が幾つかある事も判ったのだ。
その為、城の料理人に命じてそれらを集められるだけ集めると、今度は蒸して潰した豆に、片っ端から混ぜて、様子を見る事にした。塩は、入れる物と入れない物を作り、比べる。
多くの物が腐り、異臭を放った為、処分されていく中、一年ほど前に漸く、ヤギの乾酪(チーズ)と、麦酒の原料を混ぜた物から味噌の様な香りがしたのだ。
そこから更に色々と配合を変えて試し、ほんの半年ほど前に、何とか味噌らしき物が出来上がるに至った。
(その間、何度『味噌は一体、いつ出来るのか!』と、怒鳴られた事か……)
「では、麹無しで作られたのか……」
「はい。あの時ほど『もやし屋』が恋しく思えた事は、ありませんでした」
しみじみと語る。しかも、味噌ができた途端に、今度は米も欲しいと言われたのだ。しかし、無い物はどうしようもなかった為、こちらは小麦の麺を使い、色々と試している段階だ。
「あと、刀もあるぞ。うちの兵達は今、全員これだ!」
そう言うと信長は部屋の隅の戸棚を指差し、直ぐにラウルがそこから幾振かの剣を手に戻って来ると、自慢気に机の上に並べていく。ガレリアと、クレランス翁が興味深げに見ていると、ラウルが説明を始めた。
「ご存知でしょうが、我が国の剣は、基本、幅広の片刃の物か、両刃の長剣なのですが、どうやら、どちらもノブナガ殿にはお気に召さなかったようで……わざわざ鍛冶屋を何人も呼びつけられ、色々と注文を付けられまして……」
それまで行っていた、焼入れにより表層面を硬くする『浸炭』ではなく、二種類の鋼を組み合わせ、『折返し鍛錬』で剣を作るよう求められた鍛冶屋達は、一様に難色を示した。
どう考えても、一振り作るための手間や時間が、大幅に増えるからだ。その時に『断った者の腕が、床に転がった』事には触れずに、話を続ける。
「何とか話し合いの末、これまでの方法に、ノブナガ殿のご希望を加える事で折り合いが付き、そうして出来上がったのが、此方のノブナガ刃です」
ラウルは信長から剣を一振り受け取ると、それを鞘から抜いて見せた。それは緩く曲線を描く片刃の長剣で、持ち手には動物の革が貼られている。
「確かに、刀のようじゃの」
「まぁ、わしの持つ名刀には程遠いがな。それでも切れ味は良いし、それなりに使えるぞ」
カラカラと笑う信長が、刀の熱心な蒐集家だった事を、姫は思い出した。
(まるで玩具を手にした子供のようじゃな)
「クラレンス翁は、これをどう思う」
「美しい剣ですな。軽くて扱いやすそうですし。ただこの年になると、使い慣れた物のほうが、やはり良いですな」
籠手付きの長剣を、鞘の上から叩きながら笑う。一方、ガレリアは、
「私は一度、試してみたいです」
ラウルが剣を鞘に納めるのを見ながら、名残惜し気な顔をする。
(そんな顔をされても、差し上げるわけには行かないので……)
新たに出来上がった剣は、これまで作られていた物とは、全く違っていた。
軽くて扱いやすい上に、切れ味は鋭く、刃こぼれもしにくい。何より魔術との相性が良かったのだ。これまでの剣と比べると、三割ほど効果が高まったことに、皆が驚いた。しかし、これもまた、言う必要のない事として、ラウルは口にはしなかった。
(これって、軍事機密ですからね。だからそんな目で、見ないで下さいってば……)
「それはそうと、その近侍の腰の物、太刀であろう。もしや、名のある物か?」
どうやら周王がはいている刀が、先程から気になっていたようだ。周王も聞かれて、嬉しげに答える。
「子狐丸でありもす」
「なんと、伝説の!実在したのか!いや、ちぃとばかり見せてくれ!何も取りゃあせん。見るだけだから!」
「代わりに、わしの自慢の刀を見せてやろう。すてーたすおーぷん おい蛙、骨喰と振分髪だ。急げ!」
「かえる?」
「どうやら殿のすてーたすは、絵巻物のようでして。なんでも、兎や蛙が命じた物を運んでくるようです。当人にしか見えませんので、詳しいことは判りませんが」
香菜姫の頭に、何匹もの兎や蛙が、刀を担いで走る姿が浮かんだ。なぜか皆、汗だくで疲れた顔をしている。
「ちなみに蘭丸殿は」
「私は文箱に入った綴じ本です」
**
「これが骨喰……我は粟田口 吉光だと思いもすが、藤四郎 吉光説も強い。、いったいどちらの作なのか……」
「わしも、粟田口だと思う。磨り上げた際、銘は全て消えたようだが、茎尻に少し気になる箇所があってな……」
「振分髪正宗というと、あの細川藤孝(幽斎)殿が名付けられたという……」
「そうだ。あやつは、粋であったからな。良い名を付けてくれたわ」
「あの方は、えらく刀剣に詳しいですね」
「妾の師匠の一人に、詳しいご仁がおられての。よく話を聞いておったのじゃ」
「どのような方で?」
「秀吉殿に、刀剣極所に任じられた本阿弥家の者での。本家筋ではないが、どこぞの大名のお抱えだったと聞いておる」
「そのような方の弟子ですか。ならば、信長様と話が合うのも納得です」
「しかし、ここに骨喰があるならば……姫様!豊臣様や徳川秀忠様は、偽物を贈られたのでありもすな!」
嬉しげな周王の言葉に信長が食いつき、いつの間にか他の者たちも、聞き手に回っている。
「なんだ、それは?詳しく話せ!」
「はい。実は、この刀ですが、……」
(暫くは、終わりそうにないの)
「ラウルとやら、すまぬが茶のおかわりを頼む」
座りなおす香菜姫の袴の裾を華王が引き、こっそりと告げてきた。
「姫様。我はすてーたすに、種籾を持っております」
「流石じゃの」
二人揃ってにんまりとする。種籾は今後の良い交渉材料となるのは確かだが、それ以上に慣れ親しんだ物を食べられる可能性が、姫には嬉しかった。
***
レストウィック王国。
「危ない!」
グラリ。
何も無い所で、トゥルーの身体が傾いでいくのを見たムーンは、慌てて走り寄り、その背で小さな身体を支えるが、トゥルーは言葉もなく、そのまま倒れ込んできた。
(息が荒いし、あつい。熱か……)
急いでトゥルーを背に乗せ、落とさないよう気をつけながら、バートを呼びに走った。
「最近急に寒くなりましたから、風邪でも引いたのでしょう」
バートが連れてきた寮医に、二日ほど安静にしておくよう言われ、少し安心したムーンは、そのまま部屋で付き添う事にした。暫くすると、
「ムーン、ここは?」
「目が覚めたか。喉が渇いてないか、腹が減ったのなら、先程バートが……」
「ぼくは……また、失敗したんだね…」
「思い出したのか?!」
トゥルーが小さく頷く。
「たぶん、全部ではないけど……召喚の場に行こうとして、女神様に止められた事や、後は前回のジャンヌ様の事とか、僕の本来の役割とか……」
自分の手を見ながら呟くと、身体を起こしてムーンを見る。
「ねぇ、ムーン。なんで、何も教えてくれなかったの?」
「我は、トゥルーが知っていること、覚えていることしか話せないよう、術をかけられている。今もそうだ」
だから、話したくても話せなかったのだ。
『聖人トゥルー』。女神から魔導書を賜った聖人の名だが、その偉業にあやかりたいと願った多くの者が、我が子にその名をつけたため、今ではありふれた名となっていた。
しかも女神の抑止を振り切ろうとした際、大量の神聖力を失った為、その肉体は幼少化していた。
トゥルーという名の幼い男の子。そんな、どこの村にでもいる、ありふれた存在となった彼が、聖人本人だと気づく者はいなかった。
それでも彷徨うように王都へと向かう途中、聖女一行と出会ったのは、何かの巡り合わせだとムーンは考えていた。だから、記憶が戻るまでは、今の生活を、続けるつもりでいたのだ。
トゥルーは、己の記憶を整理するように、少しずつ話をしていった。
「前回、勇者が召喚された際には、何も起こらなかったんだ。だから僕は、自分が心配し過ぎているんだと、思ったんだ。女神様は、それ程酷い事を為されないって。でも……」
聖女召喚の時に、悲劇は起きた。
召喚された聖女ジャンヌが、側にいた兵士の剣を奪い取り、当時の国王を刺したのだ。それはあっという間の出来事で、姿を隠してその場に居合わせたトゥルーには、止めることが出来なかった。
「あの時、聖女は凄く取り乱していて、他の誰かと国王を間違えているように見えたんだ」
二百年以上前の出来事だが、召喚の魔法陣に現れた、粗末な衣服の女性の姿が鮮明に思い出される。
『あれ程までに、尽くしたのに!王位に就き、権力を手にした途端に、私をゴミの様に扱うとは!助けもよこさず、辱めを受けるままに捨て置いて!これはお前が受ける、当然の報いだ!』
泣き叫びながら、既にこと切れた王の身体に剣を突き立てようとする彼女を止めたのは、眼の前で父を殺されたばかりの王子だった。
蒼白な顔で、それでも優しく聖女を抱きしめ、もう大丈夫だからと何度も囁き、その手から剣を離させるのを、トゥルーはただ見ているしか無かった。
「僕はあの時、何も出来なかった」
しかも二年前は、勇者召喚であったにも関わらず、事件は起きた。この事はトゥルーを驚かせ、狼狽えさせた。そして今回、新たに聖女を召喚すると知った時、何とかして悲劇が起きないようにと、ムーンと共にレストウィック王国ヘ向かおうとした、その時。
『邪魔をするでない!あの者達が、己が意志で決めた事。そして対価も無しに力を手に入れる事は、世界の摂理として許されぬ!』
バリバリバリッ
引き裂くような音と共に、眩い光が辺りに満ちた。
『もやし屋』とは種麹を扱うお店の事で、酒蔵や醤油蔵に麹を卸しています。その起源は古く、平安時代末期まで遡れるとか。顕微鏡もなく、微生物の存在さえ知られていなかった時代に、麹菌を培養し売るという技術があったことが驚きです。この技は門外不出として代々受け継がれ、京都には300年以上の歴史を持つもやし屋さんもあります。ただ、最近では各メーカーが独自に種麹を作ったりしているため、その数は減小しているようです。
ちなみに、舞台は異世界です。なので、あのような方法でも、味噌が出来たとご納得ください。
乾酪に関しては、日本最古のチーズは蘇だとされている事が多いのですが、これは乳を煮詰めた物で、どう考えてもチーズではないし、戦国時代にチーズの事を何と呼んでいたか、どこを探しても見つからなかったので、ここでは乾酪(蘇が伝わったのと同時期に、乳製品として記述在り)を使っています。実際チーズの当て字は、此方が使われていますし。
宣教師や貿易船の船長たちと懇意にしていた信長君なので、蘭ちゃんもチーズの存在は知っているというのが前提です。ちなみに参考資料は日本乳容器・機器協会さんのHPのコラムです。




