六十二話
「蘭ちゃん、これをどう思う?」
町の共同浴場で温泉に入り、新しい衣服に着替えた信長は、先程切った紙切れを、蘭丸に見せた。
「これは……漢字ではありませんか!信長様。いったい
どこで、これを?」
いつも冷静な側近が、驚きに目を見張る様を見て、 ニヤリと笑う。
「最後の結界で、でかい羽トカゲを倒した後だ。相手は姿を隠していたが、こいつを飛ばしてきた」
更に瞠目する蘭丸を見ながら、思い出したように付け加える。
「いや、正確には、わしと商人の両方だ。ほれ、トカゲの死骸を運んでいった者がおったろう。わしは、気づかぬふりをしながら切り落としたが、商人は、そのまま付けて行きおった」
「私も、気づきませんでした」
すぐ側に居りましたのにと、悔しげに呟く。
この世界に召喚される前、信長の側近として働いていた蘭丸は、配下に数名の忍びを抱えており、それらを指揮するうちに忍びの技に興味を持ち、いくつかの術を習得していた。
その為、簡単な結界術や、隠行の術が使えるのだが、そんな彼が気づがなかったということは、相手の術が数段上だということだ。
「気にするな。わしとて、切り落とすまでは、何か判らなんだ」
ただ、何かが纏わりついている気がしたので、それを断ち切ろうとしたら、これが切れたのだと、指先で摘んだ紙を、ヒラヒラと振ってみせる。
信長は書かれている文字を見て、ひどく驚いた事を、わざわざ蘭丸に言うつもりは無かった。しかし、どの様な者が書いたのか、なぜ、この世界に居るのか、知りたくて堪らない。
「どうやら、陰陽師が使う式のようですね。半分だけなので判りづらいですが、書かれている文字は、急、飛、令と御行、でしょうか……」
蘭丸は書かれている文字を、どうにか判読しようとしているが、そんな事は、当人を捕まえて聴けば済む話だ。
「どうやらこれを付けた者は、あの商人の動向に興味が在るようだったのでな、兵を二人ほど使って、商人の後をつけさせてある。直に報告が来よう。そこでだ、蘭ちゃん」
悪戯を企む悪童のような顔を向けられた時点で、蘭丸は主が何を考えているのか、理解した。
「自ら、見に行きたいと」
「あぁ。上手く行けば、これを書いた当人に、会えるやもしれん」
楽しげに笑う主は、既に相手に会う気満々で、ここで止めるように言っても聞かない事は、経験から判る。蘭丸は側にいた兵に、直ぐに馬の準備をするよう命じた。
「ラウルはどうします。連れて行かれますか?」
「そうだな。近くで待機させておけ。馬車でな」
(どうやら、書いた御仁を連れ帰る気で、おられるようだ)
「全て、万端に整えておきます」
商人達は、国境近くの森に建つ小屋へと入ったという知らせが来たのは、晩飯も終ろうかという頃で、信長一行はすぐさま、その場へと向かった。
見張りと案内の為に残っていた兵に、近くまで案内させると、そこからは二人だけで動く。
蘭丸が隠行の術で二人の姿を見えなくすると、小屋へと慎重に近づき、中の様子を伺う。どうやら大きな入れ物に、急いで何かを詰めているようで、商人の急かす声が、漏れ聞こえた。
「来たぞ」
信長の言葉に、蘭丸は術を上掛けした上で、木の影に身を潜め待つ。そして、そこに現れたのは…………
「荼枳尼天様……」
蘭丸は思わず声を漏らしていた。隠形の術中は、口を利いてはならない為、慌てて口を閉じて周りを伺う。幸い周りに他の気配はなく、直ぐ横で、己と同じように驚愕に目を見張る主がいるだけだ。
再び空を仰ぐ。そこには月明かりを背に、白狐に股がった天女の姿があった。
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真言密教由来の荼枳尼天は、武将に人気の神仏で、信長自身も熱心な信者だった。実際、何度か豊川稲荷へと参っており、城の城鎮守稲荷として祀ったりもしている。その為、蘭丸自身も何度となく、仏像や画像を目にしていた。
元々は半裸で血器や短刀、屍肉を手にする姿だったらしいが、蘭丸が見たものは、全て狐に跨り、空を駆ける天女のような御姿だ。
そして今、目の前の光景は、かつて見た画像の御姿そのもので、夢を見ているとしか思えなかった。
しかも、その天女こそが、目当の相手だと判った。信長が切った物とそっくり同じ式の完全体が、天女の周りを飛んでいたからだ。
天翔ける白狐が、音も立てずに地面に降り立つ。そこで漸く蘭丸は、狐に乗っていたのは、袴姿の少女である事や、狐はもう一匹いて、それには男が乗っている事等が判った。
どうやら、それは信長も同じだったようで、安堵のため息と共に漏れ呟いた言葉で、察せられた。
「随分と若いな……」
少女と同じく白狐に股がった男は、地面に降りた途端に、こん棒らしきものを振りかざし、小屋の中へと踏み込んで行く。しかし、少女が小屋に入る事はなく、白狐に何か命じていた。
やがて白狐が術を用いて、辺り一帯に水を撒きだした。しかも何故か自分達が隠れている所だけ、念入りに撒かれている気がする。
声を上げると居るのがばれる為、二人は口を押さえて降り注ぐ水に耐えるが、既に全身ずぶ濡れだ。
(もし、判ってやっているとしたら、随分と性格が悪いお方だ……)
ちらりと横を見ると、主は口を押さえていなければ、今にも怒鳴り声を上げそうな行相をしていた。その横顔と少女に、似た所がないか探してみるが、これといった箇所は見当たらない。
その後、少女は小屋へと入っていき、暫くすると縛り上げた多くの者を、引き連れて出てきた。先程の商人達だと判る。中には酷い怪我をしている者もいたが、容赦は無く、引きづられるように歩かされていた。
やがて小屋との間に透明な壁が作られ、小屋が燃え上がったと思った途端、爆発音が響いた。
(この爆発の仕方は!)
これ以上ない驚きに、息が止まりそうになったその時。
「いい加減、出て来られたらどうじゃ。織田 信長殿と、森 蘭丸殿」
まだ少し幼さが残る声が、こちらを見ることなく放たれた。
(やはり、判っていたのか!)
蘭丸は相手との力量差と、その意地の悪さに翻弄されたのが悔しく、唇を噛み締めながら術を解こうとするが、信長に押し止められ、別方向を示された。相手の背後に回れということだと理解した蘭丸が、頷く。効果は判らないが、更に術の上掛けをしてから、指示された場所へと向かった。
蘭丸に指示を出した信長は、二歩ほど歩み出て、相手の前に姿を現す。
「なんだ、気づいておったのか。蘭ちゃんに上手く隠してもらっておったのに。しかも名まで、知られておるとはな」
内心の驚きや腹立ちを隠し、余裕のある笑みを浮かべてみせる。
「わしや蘭ちゃんをその名で呼ぶ者は、この国にはいない。それに、その見た目と着物。娘よ。お主、どこから来た?」
「本日は、アベケットからじゃな」
ちゃかすような少女の返答に、横の男が頷くが、そんな事を聞いているのではない事は、互いに判っている。
「真面目に答える気は、なさそうだな!」
バチッ!
信長は、濡れそぼった前髪を掻き上げながら、指で弾くように覇気を飛ばした。しかし。
パシン!
相手は袖を一振りしただけで、弾き返してきた。しかも同時に大きい方の白狐が術を繰り出し、紐のような物が飛んでくる。
濡れた服が纏わりつき、上手く動けないが、そんな事はおくびにも出さず、それらを身体を捻りながら、斜め後ろに飛び下がり、かわす。
「おぉっと、危ない。随分と気が荒いようだな」
「先に仕掛けてきたのは、そちらであろうが」
「人んちの庭先で、火遊びしてる子供がいたんだ。注意するのは、大人の役目だろう」
「ならばもう少し、おのが足元にも注意を払うべきじゃな。誰かさんのように、思いもよらぬ者が敵になるやもしれぬぞ?それに、こ奴らは、妾が敵とみなした者の手下での。邪魔立てすれば、そなた達も仲間とみなすが」
(この娘、みっちゃんの事も、知ってる?)
信長の眉間にしわが寄る。今すぐ捕まえて、いろいろと問い質したいが、腹立たしいことに、近づく事さえ儘ならない。密かに背後を取るよう指示した蘭丸と、上手く連携をとる為にも、更に注意を引かなくてはと思う。
「そんな奴らとは、仲間でも何でもないが、勝手な事ををされるのは、気分が悪いんでな。よしんば、そいつ等が悪人だとしても、こちらで対処するから、置いていってもらおうか」
「断わると申したら?」
「次は手加減して貰えないと、思ってくれ」
威嚇するように言いながら、腰の物に手をかける。この程度で怯む相手とは、思えなかったものの、時間稼ぎ程度にはなると思っての言動だった。しかし。
「華王」
「畏まり」
その瞬間、辺り一面に凍気が満ち、全てが凍りついていた。濡れていたせいで、信長は着ている物迄ガチガチに凍りつき、刀を抜くどころか、口や指先すら動かす事が出来ない。見ることは叶わないが、おそらく蘭丸も同じ状態だと推察された。
動けない信長達の目の前で、少女は再び狐に跨ると、商人達をぶら下げたまま、連れの男と共に飛び去って行った。
「信長殿、蘭丸殿。また、逢おうぞ。次は正式に挨拶に伺うゆえ、それまで待たれよ」
愉しげな声が響くが、呼びかけられた二人は、その姿を見ることさえ出来ないまま、その場で凍えるしかなかった。
「へーっくしゃい!」
盛大なくしゃみが、宿屋に響き渡る。
「あー、えらい目におうたわ。おい、ラウル。風呂だ、風呂!直ぐに風呂を湧かせ!」
身体や髪のあちらこちらに、氷の欠片を張り付けた上司二人が馬車に転がり込んで来た時、ラウルは何事が起きたのかと思った。
ガタガタと震える二人に、積んであった毛布を渡し、馬を馬車の後ろに繋ぐと、急いで宿へと戻る。そして、先程の命令だ。
入浴準備をしながら、ラウルは何があったのか、もう一人の上司に聞く事にした。
「ランチャ様とノブナガ様は、いったいナニをされて、此の様な事に?」
あの後、直ぐに氷が溶けたので、なんとか馬車まで行くことが出来たが、『信仰していた神様とそっくりな姿をした娘に、いいようにあしらわれた』などと言えば、後でどんな目に合うなわからない。なので。
「どうやら同郷の者がいる事が判りまして。その方が、どのよう人物か見に行かれたのですか、少しばかり行き違いがあったようです」
「異世界から来られた方、という事ですか?」
「おそらくは、そうでしょうね」
「では、隣が聖女様を召喚したのかもしれませんね」
思わぬ返事に驚く。
「聖女を召喚、ですか?」
「えぇ。うちが勇者で、隣国は聖女、帝国が所有している魔導書では、賢者が召喚出来ると聞いています」
(ならばあの少女も、己の意思に関係なくこちらに連れてこられたのか?)
「いいなぁ。聖女様に会われたのですね。どんな方でした?前回の聖女様は、清楚な百合のような方だったと聞いています」
聖女に対する憧れを溢れさせている相手に、『確かに見た目は天女のようでしたが、性格がうちの殿とよく似た方でした』とは言えず、思わず黙る。そして、近いうちに、正式に訪問されるそうですから、とだけ伝えた。
「信長さま。もしや濃姫(帰蝶)様か、側室のどなたかが、内緒で姫をお産みになられた、なんてことは?」
翌日、蘭丸は少女も又、我々と同じように、こちらの世界に連れてこられた事を信長に話した。その上で、主に質問したのだ。
「それは無いな。それに妻達に、陰陽術を操る家のものはおらぬ」
「ならば京辺りの陰陽師の家の者でしょうか。なら、公家の土御門家か、幸徳井家辺りかと。どちらも安部の血筋で、神使を賜る事があると耳にしたことが」
「土御門か。あの家に、そんな姫がおったかの」
「既にこちらに来て、二年も経ちますからね。それに、昔語りのように、あちらでは何十年も経っているのかも知れませんし」
桃源郷や龍宮城に行って戻ったら、何十年も経っていたという話は、信長も聞いたことがあった。
「だが、何十年も経っていたとしたら、あの娘はどうしてわしらの事を知っている?」
「それは、当人に聞かないと。いずれ、正式に挨拶に来ると言っていましたし、ここは待つしか無いかと」
「待つなど性に合わん」
「しかし、予定も詰まっておりますし、昨日の小屋も調べなくてはなりません。あれは火薬を使った爆発で、間違いないですから」
商人達が何をしようとしていたのか。そして、火薬は元からあの場所にあったのか、それとも、あの少女が持って来た物かも、はっきりさせる必要がある。
「火薬か。とりあえず、倉庫の在庫を調べさせよ。持ち出した者が、居ないかどうかもな!」
「直ちに」




