五十一話 元禄三年(1690年)~元禄五年(1692年) 其の二
プロローグの投稿が2022年 04月30日なので、先日、連載開始から一周年を迎えた事になります。これまで書き続けれたのは、読んで下さる皆様のおかげだと思っています。これからも、香菜姫の応援、宜しくお願いいたします。 千椛
元禄四年(1691年)如月 一日
その日は朝から日食の観測準備のために、土御門の屋敷は大騒ぎだった。天文台では、天文生(修習生)や候補生達が、天文博士の指示のもと、二台の望遠鏡が慎重に設置され、それ以外にも、泥水をはった桶が三台と、その影を映す為の、白紙が貼られた襖が立て掛けられている。
泥は、庭師が川砂を篩いにかけて、選り分けた、粒の細かいものだけを使っているという。
それらの様子を眺めていた香菜姫は、慌ただしく動き回っている者達の中に、白丁を身に着けている者が数人混じっている事に気付いた。その背格好や年頃から、兄・泰誠と共に学んでいた者達だと思い当たり、切なくも嬉しく思う。
天文博士の計算によると、日食は未の正刻辺りから始まり、申の中刻を過ぎた頃に終わるらしい。最も欠けて見えるのは未の下刻あたりで、おおよそ七割ほどが、月の影に隠れるとされていた。
この事は少し前から公表されているため、巷にはにわかに天文好きが増えていた。日食の原理を説く瓦版が刷られ、観測の注意書き等も出回っており、ちょっとしたお祭り騒ぎとなっている。
京でこれ程の日食を観測できるのが、五年後だというのも、影響しているのだろう。しかもその時欠けるのは、五割程度だという。
開けた場所や、小高くなったところには九つを過ぎた頃から、多くの者たちが集まっており、裏山にも、多くの者達が向かっていると、奥女中から知らされた。穴を開けた板を持っている者もいるが、手ぶらの者も多いという。
「皆、ちょっと見るくらいなら、大丈夫だと思っているのでしょう」
女中は少し呆れた顔をしていたが、屋敷の者達は絶対に直に見てはならないと言われているのだから、其れも当然だろう。
もうすぐ日食が始まるという時刻になると、付き合いの有る家の好事家達も訪れ、屋敷は一層賑やかになった。
香菜姫は自室側の庭で観測すると、決めていた。奥向きの庭には、他所の者は入ってこないから、ゆっくりと出来ると思ったからだ。実際、喧騒は聞こえるが、気になる程ではない。
ドンッ!
太鼓の音と「始まりました!」の声に、どっと歓声が上がる。それを合図に、姫も庭へと降りた。そこには記録用の帳面と矢立、そして巾着袋の乗った高台が置かれてある。巾着袋の中身を出して帳面の上に置くと、
「おや。変わった物を、お持ちじゃの」
神使達とおやつを食べていた次郎爺が、声をかけてきた為、香菜姫は少し寂しげに、微笑んだ。
「これは兄様が旅に出る前に下さった物で、日食を観測する道具じゃ。太陽を直に見ると目を傷めるから、必ずこれを通して見るようにと言われての。兄様自身は、旅の途中で硝子が割れたりしては、危ないからと、持っていかれなんだが」
それは一辺が五寸ほどの四角い硝子を二枚、重ねて木枠で固定した物だった。硝子の内側には煤が付けられているため、真っ黒に見える。それを姫は陽にかざした。
「あぁ、確かに。欠け始めておるのが判るの」
そう言うと、次郎爺にそれを渡し、
「少し判りづらいが、下の部分が僅かに影になっておろう?」
「おぉ、確かに!」
「次郎爺、我も!」
「我にも!」
人の子に変化した周王と華王が、手を出してせがむのを見ながら、姫は先ほど見た形を時間と共に、帳面に書き留める。
(そういえば兄様は、今回の影は左寄の下から上へと動くと、言うておられたな……)
最近になって、母から知らされたのだが、江戸の天文台には、オランダ製の天体望遠鏡が、新しく設置されていたという。兄を驚かそうと思った保井様が、内緒にしていたらしい。そして、日食迄に兄がその扱いに慣れる事が出来るよう、到着すべき日付を早めに書かれていたのだと。
それは、父宛に届いた御悔やみの手紙に書かれており、その中で保井様は、早めの日付を書いた事を、酷く悔やまれているとの事だった。
そんな事を思い出しながら、香菜姫は観測を続けた。既に飽きたのだろう。周王達はおやつのお代わりを食べながら、次郎爺の話す武人の話に、聞き入っている。
(今頃は、その望遠鏡を前にして、松葉や楓と楽しげにしておられるやもしれん)
ドドン、ドンッ
太鼓が打ち鳴らされ、「今が最大!」の声に、再び歓声が上がるのを聞きながら、香菜姫は硝子をかざし見る。濃鼠色の中に、左中程から上部にかけて、大きく抉れた太陽が浮かぶのを眺めていると、
『言うた通りであろう?』
一陣の風と共に、楽しげな兄の声が、聞こえた気がした。
*****
卯月。
黒鉄はここ最近ずっと、朱鉄から聞いた『魂縛駒の術』について、考えていた。詳しく知りたくて、あの後訊ねてみたものの、朱鉄自身も余り詳しくは知らなかった為、古参の護衛や中間達に聞いて回ったのだが、どうにも埒が明かない。
(判ったのは、土御門家に伝わる秘術だという事と、朱鉄が話してくれた、主従の魂を結びつける術だという事ぐらいか……)
皆、噂程度しか知らず、知っていそうな者達は、挙って口をつぐむからだ。
中には、『香菜姫様が望まれたなら、その時に教えて頂けよう』などと言って、立ち去る者もいた。
(姫さんが、俺の魂なんぞと結び付くのを、望むとは思えんが……)
其れが判っていても、何故か黒鉄は術を諦める事が、出来ずにいた。何故其れほどに拘るのか、己にも判らない。
(だが、ぐじぐじと考えていても事は進まぬ。ならば!)
いっそ、屋敷の主である泰福に、『魂縛駒の術』の許しを得てしまおうと、面会を求める事にしたのだ。しかし、その返事は素っ気ないもので。
「駄目だ」
「何故でありましょう。これは姫さんにとっても、悪い話では無いと思いますれば……」
「確かにな。だが今はまだ、無理だ。あの術は神力の強さ以上に、術の精度が大事でな。少しでも揺らげば、術を受ける者の命に関わる。いまだに神力頼みで術を操りがちな香菜には、到底任せられるものではない。最低でもあと一、二年は修行をして、術の精度を上げねば、話にならん」
だから、それまでは駄目だというのだ。しかも、香菜姫の承諾がなければ、姫にその術を教える事もしない。先ずは姫の承諾を取って来いと、言い切られてしまった。
仕方なく黒鉄は、姫にその事を伝えるが、
「い・や・じゃ。断る!」
案の定、間髪なしの拒否が、返ってきた。
「そもそも、黒鉄は妾が其のような状況に陥るなどと、本気で考えておるのか?」
それこそが失礼じゃと、眉間にしわを寄せて不快を示し、神使達も同調する。
「我等がおるのに、そのような事は、起こりもせん!」
「そうとも!黒鉄は、我らを何と心得よう!」
だがこの程度の反応は、黒鉄の想定内だった。そして、ずっと『どうやったら、納得してもらえるか』考えた挙げ句、思い付いた説得を試みる。
まずは睨みつけ、今にも飛び掛かって来そうな周王から。
「だが、思いも寄らぬことは起こるだろう?ほら、何年か前の、毛虫のような……」
その言葉に周王の動きが止まり、考え込む。まだ子狐の頃、周王は毒蛾の幼虫を、うっかり踏んでしまった事があった。
その時は、なつめが毛抜きで刺さった細かい毛を一本ずつ抜き、姫は浄化の真言を唱え、さきに軟膏を塗って貰らうなどして、何とか治まったのだ。
「確かに。あれは酷く痛痒うて、難儀しもしたが……」
「それに、姫さん。弓道の稽古で、始めて矢をつがえた次の日、身体中が痛かったろう?あんな事はおそらくなくなるし、御父上に拳固をされた時も、多分痛くないぞ!」
それは、最近はめっきり少なくなったものの、未だに拳固を食らう事のある姫の心を、少しばかり動かす。
「じゃが、黒鉄が痛いであろうが……」
「だか、それは姫さんが真言で癒してくれれば、問題ない!」
何より、もし怪我をしても、痛みがなければ式も術も問題なく使えよう。それは必ず有利に働く筈だと言い募る。それ以外にも、姫に逆らえなくなるから、おやつの買い出しは頼み放題だと、華王を唆したりする。その結果、熱意に押された姫が、折れる形となった。
「とりあえず、どのような術か、父様に聞くだけは、聞いておこう。じゃが、其方に術を施すとは、約束せぬからの!」
あくまでも、聞くだけじゃと再度念押ししてだが、承諾を得た黒鉄は満足だった。その様子を黙って見ていた次郎爺だが、香菜姫が立ち去ると側に寄ってきた。
「えらく思いきった事を。朱鉄の事が原因か?」
その的を射た問いに、黒鉄は頷くしかない。
「けど、これは犠牲になるとかではなく、より確実に、守る為だと考えての事だ」
それは事実だった。しかし最も奥にある、『一人だけ、置いていかれたくない』という想いは、流石に口に出さずにいた。だが、ずっと側でその成長を見ていた爺には、何かが見えたのだろう。小さなため息を一つ、つく。
「のう、黒鉄。お主、姫が輿入れしたら、どうするつもりでいる?」
「付いていくに決まっている。俺は姫さんの護衛だ」
当たり前だろう、という顔で返事を返す青年に、
(こやつは、既に覚悟を決めておるのか、はたまた、無自覚なのか。まぁ良い。どのみち身分違いの想いは、秘めるしかないからの)
呆れると同時に、少し微笑ましく思う。もっとも、相手にはそんな事を悟られぬよう、口を開け、目を見開いて、呆れた顔を作って見せる。
「なんだよ、その阿古父尉みたいな顔は」
ムッとした青年の肩を軽く叩くと、笑いを堪えてその場を後にする。この後、朱鉄にも報告するらしいから、おそらくそこでも、似たような会話がされるのが、想像できた。
(生き死にを通じて、常に側にいる権利を、手に入れようとしているのに、其れがどんな想いを秘めているのか気づかんとはな。其れも若さ故か……)
とうにこの世を去った妻を想う。それは『死ぬまで側にいる』という誓いを立て、実際にそれを全うする為に、全てをかけた人の面影だった。
****
元禄五年(1692年)霜月。
「香菜。今日の稽古はこれにて終了だ」
父の言葉に、姫が正座をして礼をする。
「ありがとうございました。周王と華王も、ご苦労じゃったの」
「「なんの、これしき」」
年が明ければ直ぐ、黒鉄に『魂縛駒の術』を行う事が決まっている。その為香菜姫は、父に稽古を見てもらいながら、その精度を上げる事に専念していた。
実は黒鉄に術を願われて直ぐに、父に術についての説明を受けた姫は、その結びつきと、被術側の払う犠牲の大きさに驚き、再度拒絶したのだが、結局是非にと願う黒鉄に根負けし、術を習う事となったという経緯があった。
それからは何度も稽古を繰り返し、神使達の神舞を取り入れる事で、術の底上げも出来ている。それでも、万が一、失敗したらと思うと怖くて仕方ないが、黒鉄の意思は固い。
それに、精度上げに有効だからと、 射腹蔵鈞の術と穏形術を教えてもらえた事は、姫にとっても有難い事だった。
(手順も文言も全て頭に入っておる。術を受ける方の心構えである『絶対の信頼と、受け入れる覚悟』に関しては、全く問題ないと、父様も次郎爺も言うておった。後は、上手く行くよう祈るしかないの……)
十一日。
夕刻。次郎爺から、明日の稽古は休みにしたいと記された書き付けが届いた為、姫は久しぶりにあの白椿を見に行こうと思った。
先程から雨が降っているものの、夜半には止みそうだし、少しばかりの足元の悪さも、道程を考えると、さして問題ないと考える。
「明日は朝の稽古が済み次第、裏山に登ろうと思うのじゃが、どうであろう」
「あら、いいですね。では、寒くないよう、あたたかな羽織物でも出しておきますか。雪駄も褄皮付きの方がいいですね」
「なら、帰ってきたら、直ぐにおやつに出来るよう、前以て、用意しておかないと」
なつめとさきが、楽しげに答え、周王と華王がおやつの希望を、つらつらと述べ出す。
いつもと変わらない午後が、ゆっくりと過ぎていった。
第二章はこれで完結となり、この翌日がプロローグへと、つながります。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
元禄四年の日食は、京都府においては13時51分に始まり、16時34分に終わります。食の最大は15時17分。(国立天文台・暦計算室データ参照)
周王が踏んづけたのは茶毒蛾の幼虫です。名のとおり、お茶の木等、椿科の植物につくことが多く、全ての段階で毒が有ります。特に毛虫は達が悪いので、皆さんも気を付けて下さい。
「阿古父尉」は能面の一つで、上品な老人を表す面です。「遊行柳」「天鼓」などで用いられます。吉野の天河大辧財天社には、観世流三代目元雅が死の一年前に奉納したとされる、阿古父尉の面があります。




