五十話 元禄三年(1690年)~元禄五年(1692年) 其の一
畳に突っ伏したまま、喋るどころか動こうともしない朱鉄を黒鉄に任せ、香菜姫は父の後から旅篭を出た。
宿の者達が、気を利かせてくれたのだろう。到着した際に脱ぎ落としていた夜着は、《みせの間》に畳まれて積まれていた。それを変化した流華と風華が、宿の主らしき男に何か言った後、抱え持って来る。
「周王よ。帰りは、それほど急がずとも良いから」
香菜姫は、皆を乗せる為に大きくなった周王の額を撫でながら伝えた。先ほど父から、既に先触れの式は飛ばしたと聞いたからだ。
(直に兄様の訃報が、屋敷に届く。おそらく屋敷に着く頃には、通夜の準備が始まっておろう……)
姫は、身体の一部を何処かに置き忘れた様な気持ちのまま、兄を抱えて周王に乗る父を眺めていた。
「妾達も参ろう」
傍で俯く華王に声をかけ、周王の背に上がると、直ぐに流華が夜着を渡してくれる。袖に手を通し、華王
を抱える様にして座ると、黒鉄が朱鉄を引きずる様に連れて来るのが見えた。
ぼんやりと此方を見る朱鉄の目には、いつもの眼光は無い。それでも皆を待たしている事に、気づいたのだろう。ノロノロとだが周王の背に乗って来た。その身体を、後ろから支える様に黒鉄が座る。
その様子を見ていた香菜姫が、周王の背を、そっと叩く。
「よいぞ」
姫の合図を受けた周王はトンッ、地面を蹴って緩やかに夜空を駆け出した。一気に視界が開ける。
ようやく昇った月は半月で、僅かに下弦の様相を見せながら照らす光は、行きは闇に沈んでいた風景を、影絵のように見せていた。
香菜姫は華王を一層引き寄せ抱え、夜着をしっかりと巻き付けながら、その風景を眺め続けた。
見慣れた山影が見え出した頃、白い光が幾筋か空を走り、ゴロゴロという音が聞こえてきた。見ると、天満宮の上にだけ、雨雲が広がっている。
(道真公が、母様を心配されておるのか……)
悲しみに沈みながらも、母を想う存在に触れた姫の頬が、少しだけ緩んだ。
****
屋敷は悲しみに沈んでいた。
父は出迎えた中間に兄の亡骸を託すと、直ぐに通夜の準備をするよう命じ、自身は着替えて来ると言って、その場を後にした。その背を見送った姫は、そのまま、母の私室へと急ぐ。
智乃は既に白の小袖に白打ち掛けという装いで、正座していた。その顔色は衣装の色も相まって、青白く見える。
「母様……」
香菜姫は呟くと、その場で平伏し、
「申し訳ございません!急ぎましたものの、間に合わず……」
「香菜。頭を上げよ。松葉の言葉に、覚悟はしておった。ただ、泰誠の最後がどの様であったか、聞かせては、くれぬか」
側に寄るよう、手招きしながら話す声は、悲しみに震えている。
「眠ったまま、亡くなられておりました。とても安らかなお顔でしたので、苦しまれる事もなかったかと」
言葉にすると同時に、その状況が思い出されて声が震え、香菜姫は再び涙が溢れてくるのを、抑える事が出来なかった。そんな姫に、智乃は自分の横の畳をポンポンと叩き、更に側に寄るよう促す。にじりよると、智乃は姫の肩を抱き抱え、その頭に頬を寄せ、
「寒い中、ご苦労じゃったの」
その腕の温かさと労いの言葉に、さらに涙が溢れてくる。幼子のように、声を上げて泣く姫を抱きしめながら、智乃は泰誠の事をポツリ、ポツリと語っていく。
「あれは大人しい子でな。早いうちから字を覚え、数を覚えては、自分よりも大きな者たちに交じって、学んでおった。九九なぞ、四歳の時には既に諳んじておって。ほんに賢い子じゃった……」
湿った声が、降りてくる。
「香菜よ。人というのは、二度、死を迎えると言われておる。一度目は肉体の死じゃ。そして次が、その者を知るものが居なくなることで起きる、記憶からの死。それ故、この母が生きてる限り、泰誠に二度目の死が訪れる事はない。妾は死ぬまで忘れぬし、死ぬまで嘆くつもりじゃからの」
そう言いきった智乃は、不安気に己の顔を覗き込む長女の頭を撫でながら、
「心配するでない。別に、妾は死に急ぐつもりも無いし、延々と泣き続ける訳でもない。ただ、あれが居たことを忘れず、時にふれ、折にふれ、思い出しては寂しく思い、嘆くというだけの事。それは腹を痛めて生んだ母の、特権じゃと思うておる」
「特権……」
「そうじゃ。僧侶の中には、そのような執着は良くないと言う者がおるのは知っておる。じゃがの。あの命を十月もの間、腹の中で育くみ、そして痛みの中で産んだのは妾じゃ」
だから、そのような想いをしたことも無い者共の言い分なんぞ、知った事ではないわと、鼻であしらう。
「だから、香菜、そなたも忘れんでくれ。そして、しっかりと嘆き、おもいっきり悲しんでやろうぞ。それから、出来れば泰連と章に、泰誠の事を話してやって欲しい。あの子等が兄の事を忘れんようにの」
そう言うと、智乃は香菜姫を抱き寄せたま立ち上がり、着替えておいでと、その背を押した。頷き、自室へと戻る途中、白い布を肩から掛け、湯を運んでいる侍女たちとすれ違い、すでに枕経が終わり、湯灌の準備に入っている事に気付き、足を速める。
部屋では既になつめとさきが準備を整え、待っていた。どちらの目も泣きはらしたのだろう、赤くなっている。
「さぁ、急ぎませぬと」
二人の手によって、白い小袖に着替え、白打掛けを羽織ったら、やはり白のかづき(被り物)を被り、支度は整った。
通夜の場となっている広間では、白丁(白布で作られた法披のようなもの)を着た仲間達の手によって、清められた泰誠が、棺に納められたところだった。これから朝まで、蝋燭と線香の灯を絶やさず見守り続けるのだ。
「「姉様……」」
しゃくりを上げながら、泰連と章姫が走り寄って来て、香菜姫にしがみつく。
「泰誠兄様、動かないの……」
「死んでしまったって、本当?春になる前に、帰ってくると、言っておられたのに……」
「本当じゃ。悲しい事に、亡くなられてしもうた」
二人の背を擦りながら、先ほどの母の言葉を思い出す。
「じゃから、これから皆で、兄様の話をしよう。兄様がどれ程優しかったか、どれ程賢くあられたか……」
そうやって、お見送りしょうと言いながら、二人の手を握り、母の側へと向かう。白裃の父が新しい蝋燭に火を灯し、線香と共に祭壇へと供え、通夜の始まりを告げた。
翌朝、屋敷から御前通りを少し北に行った所に在る菩提寺・梅林寺において葬儀が行われ、その後、泰誠の遺体は荼毘に伏された。
****
あの日、死んで詫びると言って動こうとしない朱鉄を、黒鉄は無理やり立たせ、引きずる様に旅篭から連れ出した。主達は、すでに皆、周王の上で待っている。
「これ以上待たせては!」
小声だが、きつい調子で言うと、ようやく状況が呑み込めたのだろう。ノロノロとだが、動き出したので、何とか神使の背に乗せる事が出来た。
その後も、うっかり転げ落ちたりしないよう、後ろから支えたりしていた為、無事、屋敷に着いたときには、正直ほっとしていた。
そこからは黒鉄自身、慌ただしく過ごしていた為、気づかずにいたのだが、どうやら朱鉄はあれからずっと、飯も食わずに部屋に閉じこもっていたらしい。
心配した護衛仲間から相談された黒鉄は、葬式が済んだ翌日、様子を見に行く事にした。
朱鉄は着替えもせず、部屋の真ん中で俯き、胡座をかいていた。眠ってもいないのか、目の下は黒ずみ、無精髭が伸びた顔は、血色が悪い。
「なぁ、しっかりしろよ」
黒鉄が、握り飯を乗せた皿を差し出すが、朱鉄は見るのも嫌そうに、目を背ける。それでも更に押し付けようとすると、今度はその手を押し退けた。そして。
「飯を食っていたんだ……」
「えっ?」
「あの朝、泰誠様が起きられないのに、俺は呑気に飯を食っていたんだよ!」
まるで、大罪でも犯したように言われ、黒鉄は驚いた。飯を食うことが、朱鉄の優先順位のかなり高い場所にある事を知っているから、なおさらだ。
「どうせ直ぐに起きてこられると、笑いながらばくばくと、食ってたんだ。信じられるか?主が死にかけてたのに、気付きもしないで!こんな事なら、魂縛駒の術を受けておくんだった……」
朱鉄が嘆き喚く。
「魂縛駒の術?」
「主に従属する術だ。それを結んでたら、泰誠様の負った傷の痛みや苦しみは、全部俺に来るようになる。命を縛る術故、泰誠様は必要ないと言われたが、もしあれを結んでおれば……」
「それは、病にも効くのか?」
「判らん。だが、もし俺に症状が出ていたら、泰誠様が何とかしてくれた筈だ。それが無理だとしても、少なくとも俺は、神使殿達と同じように、泰誠様と共に逝けたんだ……」
なのに、俺だけ置いていかれてしまったと、涙を溢す。それを見ながら黒鉄は、出会った当初の朱鉄の言葉を、思い出していた。
『俺は丹波の貧乏百姓の五番目でな』
そうして、漸く理解した。
朱鉄の兄弟達は、恐らくもう、いないのだと。話してくれた飢饉の際に、飢えてこの世を去ったのだろう。もしかしたら、両の親も。
そして、一人残された朱鉄は、きっと皆の分まで生きようと決めたのだろう。だから、あれほどまでに食べる事を大事にしていたのだ。
それなのに、又、一人残されてしまった。
その事実が、朱鉄をこれ程までに悲しませ、苦しめているのだ。
その気持ちは、黒鉄にも、全てではないが、理解出来た。今、姫と神使達、そして次郎爺やさきとなつめ達までもが、突然いなくなったら。そう考えるだけで、ぞっとしたからだ。
それでも、今、朱鉄が食べずに死のうとするのは、絶対に違うと思った。だから。
ドンッ! 朱鉄の左肩を押す。
本来なら岩のように動かない筈の朱鉄の身体が、簡単に後ろに下がる。それが余計に腹立たしい。
「なあ、何でそんな事を言うんだよ」
ドンッ!今度は右肩を押す。
「あんたが死んだら、」
ドンッ!再び左肩を。
「悲しむ奴がいるとは、思わないのか?」
ドンッ!既に朱鉄の背は壁につき、これ以上は下がりようがない。それでも黒鉄は押し続けた。
「少なくとも俺は……」
ドンッ!
「凄く寂しいよ…………兄貴…」
最後の言葉はあまりにも小さな声だったが、朱鉄を驚かすには、十分だった。聞き違いかとも思ったが、言った当人が耳まで真っ赤に染めて、俯いているのだから、間違いないだろう。そうして、朱鉄も又、出会った頃の黒鉄を思い出していた。
(あぁ、そうだ。こいつも又、置いていかれたんだ)
親だと思っていた男に置いていかれ、傷つき、一人が悲しくて寂しくて泣いていた。その姿を思い出したのだ。そして、その子に再び同じ想いをさせる所だったと、漸く気づいたのだ。
そこで、何かがストンッと落ちたような気がした。
(もしかしたら、俺は生きている為の理由を、探していたのかもしれない)
「あぁ、そうだな。すまなかったな、弟よ」
赤くなった耳を引っ張り、驚いて顔を上げた黒鉄に、何とか笑って見せようとするが、頬がひきつってしまう。腹が減りすぎて、表情さえ動かせないのだから、しょうがない。とりあえず、握り飯の四つも食べれば、少しは動くようになるだろう。そう思った途端、腹の虫がなった。
(泰誠様、それに松葉殿と楓殿。俺はもうしばらく、お側に参れそうにありません……)
優しい主に心で詫びながら、大分とひしゃげた握り飯を掴むと、口いっぱいに頬張った。
この時代の葬儀は、土葬と火葬の両方がありました。702年に亡くなった持統天皇が火葬されたことから、それ以後、一部の僧侶や貴族などの間で火葬が行われるようになり、やがてそれは庶民にも広がっていきます。ただ、地域差があり、江戸は土葬、関西、特に大阪は火葬が多かったようです。
また、喪服は今と違い白い着物が一般的で、それも遺族のみが着ていたようです。喪主の男性は白の裃を着用。女性は作中のように、白の小袖や、中には花嫁衣装である白無垢を着る事も。
これは明治に入るまで続きました。明治に入り、西洋の風習を取り入れていく中で、喪服=黒となり、遺族以外も喪服を着用する様になっていきます。




