四十九話 貞享四年(1687年)~元禄三年(1690年) 其の四
「兄様は、今頃どのあたりであろうか」
兄・泰誠が江戸に向けて出立して、すでに八日経ったその日、夕餉を済ませた香菜姫は、床に就くまでのしばらくの時間を、課題となっている和歌の創作ではなく、広げた地図を指でなぞる事に費やしていた。
それは京と江戸を結ぶ東海道が記された物で、街道沿いの宿場や、道中の難所や見所なども共に書かれている。聞くところによると、通常は十四、五日ほど掛けて歩くとの事なので、旅もそろそろ中盤に差し掛かった頃合いだ。
「先だって、三河の岡崎宿から式が来ておりましたから、そろそろ駿河国に入られた頃ではないですか?」
横から覗いていた、なつめが答える。少人数での旅路の為か、やたらと皆が心配するので、泰誠は定期的に式をよこしていた。それには僅かながらも旅の様子と、次に式を飛ばす宿の名が記されている。
「たしか、次の式は島田宿でしたかと」
それがまだ届いていないという事から、その手前、遠江国辺りを歩いているのだろうと、姫は推察する。
「ならば掛川か日坂の辺りかの。ここらは難所故、苦労されているのやもしれん」
遠江国には、東海道の三大難所(峠)の一つとされる、小夜の中山がある。天候によっては、無理せずに待つことも十分に有り得た。
「しかし、兄様の式は優秀じゃの。これ程離れておるのに、ちゃんと屋敷に着きよる」
「きちんと計算されるからですよ。姫様も、見習わなければ」
届いた式を綺麗に広げ、帳面に張り付けていたさきが笑いながら言い、算盤の苦手な香菜姫が、殊更嫌そうな顔をしてみせた時、何やら急に屋敷内が騒がしくなった。
どうやら何者かが訪ねて来たらしく、騒ぎの元は玄関周りだと察せられる。こんな時分に誰だろうかと訝っていると、黒鉄が慌てて部屋に飛び込んで来た。
「姫さん、大変だ!松葉が!」
兄の神使の名が出た事で、香菜姫は兄の身に何かしら起きたのだと覚り、急ぎ玄関へと向かうと、そこには既に父母の姿もある。
「父様、母様、何事で……」
「姫様、お願いです!主様を、泰誠様を助けて下され!!」
香菜姫の姿を見た松葉が叫ぶ。その姿を見て、姫は息を飲んだ。全身至る所に木の葉や泥がこびり付き、その足先は何ヵ所も血が滲んでいる。一目で何十里と駆け続けて来た事が判る姿に、一気に血の気が引いていく。嫌な予感しかしない。
「松葉、兄様に何があった!?」
「目が覚められないのです!いくらお声を掛けても、揺すっても……」
「いつからだ!?」
泰福が聞く。
「数日前から、肩から腕にかけての痛みを感じておられたようですが、薬師如来様の真言を唱えたら、良くなったと仰っていたのです。なのに今朝になって、一向にお目覚めにならなくて。鼾をかいておられたので、お疲れなのだと思っていたのですが、五つを過ぎても起きる気配が無く、それどころか、いくらか揺すっても眠られたままで……」
その時の様子を思い出したのだろう。松葉が苦しげな顔で俯く。疲労と焦りのせいか、その目は落ち窪み、酷く充血している。
「そこからは、朱鉄が医者を呼びに行き、我は此方に。お側には楓が付いております……」
そう言っている間にも、松葉の焦りは更に募り、前足は地を掻くのを止めず、新たに血が滲むのもお構いなしだ。
「お願いです!今すぐに我と共に泰誠様の元へ!まだ、今ならば、きっと!」
徐々に半狂乱となり、泣きながら懇願し出した松葉を、風華がその首筋に噛みつき、捻じ伏せた。
「落ち着かぬか!」
「も、申し訳、ござりませぬ……しかし、このままでは……我が此処に戻るまでに、既に半日近くかかっておるのです。ですから……」
香菜姫を始め、その場に居たもの達は皆、『目覚めない病』等というものについては、聞いた事が無かった。しかし、『眠ったまま死んでいた』という話は、多かれ少なかれ皆、耳にした事がある為、恐らくその類いだろうと、推測が働く。
(では、このままでは、兄様は死んでしまうのか?!)
香菜姫は不安と恐怖に胸を締め付けられ、思わず父の方を見る。病を癒せる陰陽師は限られており、その中でも最も秀でているのが、父・泰福だ。そして、最も速く駆けつける事が出来るのが、周王と、その主である姫なのだ。泰福の決断は早かった。
「急ぎ向かうぞ。香菜!」
「はい、父様!」
己の神使の方を向き、命じる。
「周王、頼むぞ」
「畏まり。ただ、飛ばします故、酷く冷えるやも知れもせん」
「あい、判った。父様、黒鉄。凍えぬよう、夜着の準備を!」
その時、松葉の様子が急変した。目を見開き、何かに追い縋るように後ろ足で立ち、前足が空へと伸ばされる。
「あぁ、ダメです!主様、泰誠様!今、戻りますから!父君と姫様をお連れして……だから、だから、お願いですから!!」
それを聞いた智乃の顔色が一層悪くなり、その場に倒れそうになるのを、侍女達が支える。神使とその主には、特別な繋がりがあるため、松葉の言葉は最悪の事態を予見していたからだ。
仲間や侍女達が夜着を持って走って来たので、泰福達はそれを奪うようにして着込むと、既に巨大化した周王へと向かう。まだ泣き叫んでいる松葉は、黒鉄がしっかと抱えている。
「周王、出来るだけ急いで!」
「力の限り!」
タンッ!と飛びあがると、一気に加速する。ぐんっ、と体が後ろに持っていかれそうになるのを必死に堪える。華王と共に夜着にくるまる事で、冷たい風から身を守りながら、必死で願った。
(間に合え、間に合え、間に合え!)
空を見上げると、今宵の月はまだ出ておらず、その為か凍てつく寒さの中、星が輝いて見えた。中でも北極星は北斗七星と共に、一際その存在を示している様に見える。人の生死や禍福を司る星だ。
香菜姫は思わず、妙見菩薩の真言を小声で唱えていた。不安でたまらず、何かせずには居られなかったからだ。
「オン ソチリシュタ ソワカ、オン ソチリシュタ ソワカ、オン ソチリシュタ ソワカ……」
空に比べると眼下に広がる風景は闇に沈み、その中を松葉が駆けながらも残していた狐火が、うっすらと光るのを唯一の目印に進んで行く。そして一刻ほど駆け続けた先は、小さな旅籠の前だった。
少し前から静かになっていた松葉が、吾に返ったように黒鉄を押し退け飛び降り、旅籠屋へと走り込んでいく。その後を姫達も急ぎ追った。
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部屋の真ん中で布団に横たわり、夜着を掛けられた兄は、眠っているとしか、見えなかった。
しかし、その枕元に座る朱鉄は畳に突っ伏し、嗚咽を洩らしており、楓がハラハラと涙を溢すのを見た姫達は、間に合わなかったのだと判った。
「主様!泰誠様!」
松葉が叫びながら、その身体にすがり、揺するが、朱鉄も楓も、ただ俯いたまま、首を横に振る。父は呆然と立ち尽くし、姫はその場にへたりと座り込んでしまった。その両脇に寄り添う周王と華王も、俯いている。
(そんな……兄様……)
喉の奥が詰まり、胸が痛く、目が熱い。冷えきった頬を熱いものが流れていくが、それを拭うこともせずに、ずりずりと這うようにして兄の側に寄る。
その頬にそっと触れると、それは冷えきった姫の手よりも幾らか温かく感じられたものの、その青白い顔色が、芽生えかけた希望を砕き、現実をこれでもかと念押ししてくる。
気付けば父も姫の横に座り、まだ温もりの残る手を握りしめ、何度も繰り返し、兄の名を呟いていた。それを聞いている内に、姫の心には、後悔の念が津波のように押し寄せてきた。
あの時、どんなに嫌がられようと、江戸まで送っていれば、こんな事には成らなかった筈だと、そんな思いばかりが繰り返し、頭に浮かぶ。だから。
「わ、妾が…江戸までお送りしておれば……」
思わず溢れ出た姫の言葉に、しかし、楓はゆっくりと首を振る。
「泰誠様は旅の間中、ずっと楽しそうでございました。未だお乗せして駆けることのできぬ我らに、『己が足で歩いてこその風景があるのだ』と、おっしゃられて……」
(兄様がそんな事を……)
『香菜よ、知っておるか。我らが住むこの地は、あの空に輝く星と同じものなのだぞ。しかも、まあるくて、あの太陽の回りをぐるぐると回っているという。信じられるか?おまけに、それらは全て、計算によって証明する事が出来るのだ!』
出立前に、楽しげに話していた姿を思い出す。
「大津から草津に向かう際に乗られた渡し船では、大層気分が悪くなられ、夕餉も召し上がることが出来ませんでしたが、翌朝はけろりとなされ、『宿屋の飯だけでは足らぬ』などと申されたり、桑名宿では、お伊勢参りに行かれた方々と仲良くなられ、大きな声で伊勢音頭を歌われたりと、それはもう、楽しそうで……」
神使達が交互に、主との旅の思い出を語っていく。
「江戸に着いたら、点竄術を発明された関様にもお会いしたい、金王八幡宮に算術絵馬の奉納もしたいと、いくつか問題を考えておられて……その為に、旅程が遅れる事もあったほどで……」
「兄様らしいの……」
あまりにも兄らしい話に、涙と共に笑みが溢れる。それで後悔が消えるわけではなかったが、兄がこの旅を心から楽しんでいた事が知れたのは、姫にとって救いではあった。
「なので、此度のことは、姫様に責等有りませぬ。全ては我らの力不足が原因。我が、せめて後二時程早く御屋敷に着いておれば、……不甲斐のうございます」
「そもそも、我が昨夜の内に異変に気付いておれば、この様な事には、ならずにすみ申したのです……」
全ての責は己らに有ると言い、頭を下げる神使達を責めるものは居ない。
しんみりとした空気の中、いつの間にか姿を消していた黒鉄が戻って来て、父の側に寄り、何やら報告している。其を聞いた父は頷き、
「宿の者達への支払いや、届け出等は終わらせた。これから泰誠の亡骸を屋敷まで運ぶが、其方達はどうする?」
そう、松葉と楓に問うた。その答えを聞く前から、風華と流華が寂しげな顔をしている。返ってくる返事は判っているのだ。
「我らはこのまま泰誠様の御霊と共に行き申す。我らの主は泰誠様ゆえに。父君様、流華殿、風華殿、お世話になり申した…」
「姫様もありがとうございます。それと、周王と華王にも、色々と世話になった。礼を言う」
「「そんな、松葉殿、楓殿!我等こそ、幼き頃より散々、お世話になりもしたのに……」」
主と共に。そう決めた神使達の顔は、晴れやかで、
「「さぁ、泰誠様。我等は何処までも、お供致しましょうぞ!」」
最後にペコリと頭を下げると、見る間にその姿は霞み消えていく。それを見送りながら、姫が言う。
「そう急がずとも、兄様と共に江戸まで行って、天文台で日食を観測してからでも良かろう。閻魔殿とて忙しかろうから、兄様が少しぐらい遅うなっても、お気づきにならんじゃろうて……きっと待ってくれようて。じゃから……」
消える寸前、その言葉に頷いた松葉と楓が、斜め上の方を向き、笑ったように見えた。
(あぁ、兄様の御霊はまだ、此処におられるのか。 射腹蔵鈞(透視、霊視)の術が使えれば、妾にも見えたであろうに。いくら神力があれど、術が使えねば、意味が無い……)
香菜姫は悔しかった。もっと真面目に研鑽を積んでいればと、俯いて涙を溢す姫の頭を、そっと何かが撫でた。
驚き顔をあげるが、何も見えない。しかし僅かだが、兄の気配を感じられる。
「兄様……」
声をかけるが、返事が返って来る筈もなく。ただ、父が姫の少し横を見つめながら、何度も頷いている事から、父には見えているのだと判った。やがてその視線がふと、外へと向かう。
(行ってしまわれたか……)
「父様、兄様はなんと?」
「心配をかけてすまないと……後、母上に申し訳なく思うと伝えて欲しいとも……」
それだけ言うと、泰福は夜着ごと泰誠の身体を抱えると、ゆっくりと立ち上がった。
「さぁ、泰誠。屋敷に戻ろうぞ。皆が待っておる」
泰誠君たちが泊っていたのは、日坂宿という設定です。この宿場は品川宿から数えて25番目の小さな宿場町で、東海道3大難所の1つである「小夜の中山峠」の西の麓に位置しています。
妙見菩薩は他のインド由来の菩薩とは異なり、北極星を神格化したものであるため、名称は菩薩でありながら実質は天部に分類されています。その真言は妙見帰命心真言、妙見心中心呪、妙見真言の三種類ありますが、この話では妙見帰命心真言を使用しています。
余談ですが、大阪府にある小松神社(星田妙見宮)では元治元年(1865年)の「太上神仙鎮宅七十二霊符」の版木が伝わっています。これは非常に貴重な物であり、最も有名な霊符の一つでもあります。また、この地は弘法大師が修行の折、秘法を唱えると七曜の星(北斗七星)が降臨したという降星伝承があると共に、七夕伝承の地でもあります。(市のマスコットキャラは『おりひめちゃん』で、隣市のキャラは『ひこぼし君』)




