四十八話 貞享四年(1687年)~元禄三年(1690年) 其の三
火事の翌日、いつもと変わらず行われた算術の稽古の後片付けを、香菜姫がしていると、次郎爺が顔を見せた。昼の稽古には、まだ少し時間がある為、不思議に思っていると、
「姫さん、昨日は大変でしたの。今日は昼からの稽古は休みにして、出掛けようと思うておるが、いかがですかな?」
思いがけない誘いに少し驚いたものの、稽古が休みになるのならばと、姫は直ぐ様話に乗ることにした。
「良いぞ。じゃが、何処へ行くのじゃ?」
「城跡辺りを、散歩でもしようかと」
「裏山か。そうじゃの、たまには良いな」
早速、出かける準備をするよう、なつめ達に声をかける。
香菜姫が裏山と呼ぶそれは、土御門家の屋敷の北隣にある円光寺横の、小高くなった場所をさしていた。そこはかって城(梅小路城)があった場所なのだが、堀はとうの昔に埋められ、雑木の間に疎らに生えている竹が、辛うじて土居藪の名残を示すものの、それ以外には城の痕跡は何も無い。
そんな小山の頂上を目指して、黒鉄や、さき達も一緒にぞろぞろと登っていく。その頭上では、周王と華王がふよふよと浮きながら、空を泳ぐ真似をしている。
さして急でもない道のりだが、一番高い場所まで登ると、それなりに身体が暖まっていた。
少し開けた所に立って見渡すと、辺りの町並みと共に、昨日の火事の爪痕が目に映る。
まだ数ヶ所、煙細く上がっている所があるものの、既に新たに家を建てる準備が始まっていた。材木があちらこちらに積まれ、焼け跡の瓦礫は次々と荷車に乗せられ、運ばれて行く。
そして多くの寺では、焼け出された人々への炊き出しが行われていた。直ぐそばの円光寺からも、味噌汁の香りがしていたのを、姫は思い出す。
(なんと、逞しい事よ)
だが一方では、火事で亡くなった者達を集め、荼毘に伏しているらしき煙も見えた。昨日の泣き声や、叫び声が耳に甦り、姫の顔が曇る。
「何やら、浮かぬ顔をされてますな」
次郎爺が、心配気に顔を覗きこみ聞いてきたので、香菜姫は昨日から蟠っている事を話すことにした。
「あの場に降り立った時、泣き声や叫び声が聞こえておったのじゃが、妾はそれを取り合わなんだ。優先すべきは火を消す事じゃと言われておったし、妾もそう思っておったからじゃ。そして、それは正しかったと信じておる」
焼け野となった場所を、指差しながら話していた姫の手が、スッと下がる。
「じゃが、もしあの時、妾が少しでも助けに動いていたら、助かった者達がいたのではないかと、つい思うてしまうのじゃ」
その言葉に、次郎爺は静かに首を振ると、
「それは姫さん。些か傲慢に聞こえますな。人はそれぞれ己の力量の及ぶ事しか、出来ないもの。力の限り動いたのなら、そこから先は、神や仏の手に委ねるしかない。昨日姫さんは火事を消し、多くの者を救われた。それは姫さんだからこそ、出来た事だとわしは思うとります。しかし、それ以上を求めるのは、強欲というもの」
「強欲……」
「それにもし、他の者が姫さんにその様な事を求めるのならば、それこそ強欲の極み。そのような者達は、得てして己では何もせぬのに、求めて来たりしますでな。その様な輩は、捨て置くに限る」
そう言うと、カラカラと笑う。
(傲慢で、強欲か……そうやも知れんの…)
「もし、姫様にその様な事を求める者が居れば、我が焼いてやりもす!」
「我は氷漬けにしてやりもす!」
話を聞いていた周王と華王が足元に降りて来ると、鼻息も荒く、宣言する。頭では判っていても、何処か納得しきれずにいた事も、こうして他の者から言われると納得出来てしまうのだから、不思議なものだ。
「すまぬの、次郎爺。くだらぬ話に付き合わせてしもうた」
「姫様、次郎殿!」
その時、話が終わるのを見計らったように、少し下がった所に控えていたなつめが、声を掛けてきた。さきと二人して、こっちこっちと手招きされるままに、そちらへと向かう。
「ご覧下さい。ほら!」
指し示す方を見ると、そこにだけ艶やかな緑と、可憐な白が混在している。五尺ほどの藪椿が、今を盛りと花をつけていたのだ。周りの木々が葉を落とし、寂しげな風情なだけに、その色は一層引き立つ。
「ほう、これは綺麗じゃの……」
屋敷にも椿の木は何本か有るが、そのどれもが赤い花であるため、白い椿は目新しく映ったのだろう。香菜姫の顔に、笑みが浮かぶ。側に寄り、暫くの間、眺めていたが、
「のう、次郎爺。ここにあった城は、信長公に焼かれたのであろう?」
「そうですな。信長公に反旗を翻した挙句、二条御所に籠った将軍足利義昭に示威するため、京の都に火を放った際、ここも焼かれたと」
「では、この椿は何処から来たのじゃろうな。勝手に生えてきた、とは思えぬ故、誰ぞ酔狂な者が植えたのか、それとも嘗て城に居った者が生き延びて、弔いのために植えたのか……」
しばし思案にくれるが、答えが出るはずもなく。
「それにしても次郎爺は、ほんに武将の話に詳しいの」
「まぁ、それが仕事のようなものでしたから。それに、信長公は刀の蒐集家としても、有名なお方でしたし。しかも集めるだけでなく、部下に下賜するのは勿論、太刀を磨上げて自ら使われていた方ですから。もっとも、幽斎殿の例に違わず、あの時代の武将はそういう方が大半であったようですな」
「今は違うのか?」
「近頃の蒐集家は、人に見せびらかすために、蒐集している様に見えますな。そのせいか、贋作による騒ぎも年々増えており、全く以て嘆かわしい限りで」
寂しげにため息をつく。
「かつて刀や槍は、己や主君、自らが納める土地など、大切な物を守るための武器でありました。しかし、今は金儲けの道具か、見せ物の様にひけらかす物に成り下がっておる。だからこそ、かもしれません。わしが彼らの活躍した時代の話を好むのは。あぁ、別に平穏が悪いと言っておるのでは無いのです。それに、無闇と人が死ぬのを善しとする気もない。ただ少し、寂しく思うのですよ」
「武器として生まれたもの達は、武器として使ってやらなければ、可哀想な気がして。見せ物にするくらいならばいっそ、静かに眠らせてやればいいのにと思ってしまう」
「道具は使うてこそ。と、いうことか」
「まぁ爺いの戯言です故、お気になさるな」
***
行きと同じように、皆で裏山を下りていると、
「そういえば、泰誠殿の出立はどうなされるので?」
「予定通り、三日後じゃ。今回のことで延びるかと危惧しておったが、変わらぬようじゃ」
「保井様の所の、新しく建てられた天文台に行かれるとか」
今は幕府の天文方に任命されている保井 算哲は、兄・泰誠を、まだ幼い頃から大層可愛がっており、屋敷を訪ねて来た時は必ず、二人で算術や天文の話を熱心にしていたのを姫は覚えていた。そのような相手からの誘いを、泰誠が断る筈がない。
「そうじゃ。年明け早々に日食があるらしく、共に観測をせぬかという誘いの文が来たと聞いておる。ならば江戸迄、妾が周王でお送りすると申したのじゃが、断られてしもうた」
「神使達ならば、一日もあれば着くでしょうが、そうすると旅の醍醐味が無くなってしまいますでな。見知らぬ場所で見る風景や、その土地ならではの食べ物。それに温泉地に寄ったりするのも楽しいですから」
「難所も有ろうし、何より寒い中での旅路は、疲れる上に、凍えるであろうに」
「それも又、醍醐味の一つですからの」
次郎爺の言葉に、妾は寒いのも、疲れるのもごめんじゃと、香菜姫が思いっきりしかめっ面をすると、それをなつめが笑い、さきが声をかける。
「戻ったらお八つにいたしましょう。今日は温かな善哉を用意してありますから」
「餅か、それとも団子か?我は団子が好みでありもす!」
「我は餅が!」
お八つと聞き、周王と華王が浮いたまま騒げば、次郎爺がそれに混ざる。
「ならばわしは、両方じゃ!」
「「あっ、ずるいでありもす!」」
その様子を眺めながら、このような感じが続くのならば、旅もそう悪いものではないのかもしれないと、少しだけ姫は思った。
***
三日後の出立に備え、諸々の手配をしていた泰誠は今、どの算術書を持って行くか、思案していた。
かつては大坂や京が中心であった算術も、今や江戸の方が盛んとなっている。それに伴い天文学も彼方が中心となりつつあった。幕府が天文方を設け、そこに保井 算哲を据えたのも、その現れだろう。
だからこそ、いずれは江戸で学びたいという思いは泰誠の中で、日に日に大きくなっている。その為、今回の誘いは、良い機会だと思っていた。
父との約束通り、一昨年の元服の際に、弟・泰連を養子としており、何事もなければ、数年後には江戸で学ぶ準備が整う。泰誠は今回の旅で、その為の下準備をするつもりでいた。
同行する護衛は朱鉄だけだが、松葉と楓がいるので、さほど心配はしていない。
(香菜が送ると申し出てくれたが、兄として、さすがにそれはな……)
苦笑しながら、先日の火事の時の事を思い起こす。巨大化した神使で空を駆け、大量の水と堅牢な結界で消火に貢献して見せた妹には、神力の差を、まざまざと見せつけられていたからだ。
(あの才を羨ましく思い、あの力を妬ましく感じた事は、幾度となくあった……)
それでも泰誠が腐る事なく此までこれたのは、算術と天文学のお陰だった。この二つだけは「自分の才」であり、それに対する思いは、誰にも劣らないと自信を持って言えるものだ。
そして、何よりその才を認め、伸ばせるよう指導してくれた保井殿のお陰でもある。だからこそ、旅には些か厳しい季節ではあるものの、この誘いを受ける事にしたのだから。
(真新しい天文台で、保井殿と日食の観測をする。考えただけで、胸が踊る!)
しかも、保井に師事する者達も幾人か、参加すると言う。その中で、己の実力がどれだけ通用するだろうかと、少し不安になるものの、それ以上に、同じ年頃で話の合う友が出来るかもしれない、という期待が大きかった。
(もし、その様な者達と、切磋琢磨出来る様な関係を築けたら……いや、必ずやそんな友を作るのだ!)
近い将来、そんな友達と共に、空を見上げて語らい、計算を競い合う己の姿を、泰誠は夢見ながら、一冊の本を手に取り、積み込んだ。
コミカライズに関しては、順調に進んでおります。ただ、まだご報告出来るだけの事が無くて。(^_^;)
進捗がありましたら、此方と活動報告にあげたいと思っていますので、もう暫く、お待ち下さい。
梅小路城は、天正元年(1573)四月四日の織田信長の上京焼き討ちの際、対象外の下京にあるにもかかわらず、なぜか焼き討ちに遭い、焼失しています。今はその痕跡は何もありません。
平城だったらしいのですが、その外観も判らないため、話の都合上、それなりに土居や石垣等があった風に書いています。
信長公の太刀の「磨上げ」に関しては、細川藤孝(幽斎)との「振分髪」にまつわるエピソードからの引用です。




