四十七話 貞享四年(1687年)~元禄三年(1690年) 其の二
『火事、新町』 『火事、下立売』 『火事、つらや丁』 『火事、花たて丁』 『火事、西一条』…………
飛び交う式が囀ずる。小さな声だが、幾つもが折り重なると反響し、そこに飛び交う音が混じると、まるで不吉な呪文が呟かれているように聞こえ、更に不安が煽られる。それを振り切るように、姫が叫んだ。
「黒鉄、地図じゃ!」
「直ちに!」
黒鉄が書棚から、折り畳まれた地図を持ってくると、それを広げた香菜姫が、急ぎ、式が知らせる地名を指で追って行き、愕然とする。
「禁裡(皇居)の直ぐ傍じゃ。下手をすると禁裡に迄、火の手が回るやも……」
しかも、火はどんどん燃え広がっているらしく、新たな式が次々に部屋に飛び込んでくる。
『火事、中立売』 『火事、きくや町』 『火事、清和院』…………
「直ぐに父様に知らせねば!」
慌てて探しに行こうとするも、その時、父自らが姫の部屋へと現れた。
「香菜、急ぎ頼みたい事が……、なんだ? この式は…」
「父様、小言は後で伺いまする。今は此方を!」
飛び回る式に怪訝な顔をする泰福に、地図を見せながら説明を始める。
「妾の式の知らせでは、すでにこの一帯に火の手が」
「確かに。おそらく既に烏丸通り沿いは、常火消し(主に禁裏を守るための消火活動が仕事)の者達が対処しておるとは思うが、我らは我らで、出来る事をせねばならん。香菜、お前も華王に乗り、共に参れ」
その言葉に姫は驚いた。既に二年ほど前から、少しずつ陰陽術を習ってはいたが、父からこの様に頼られる日が来るとは、思ってもみなかったのだ。
「承知致しまして!」
「あと、泰誠を周王に乗せたいのだが、出来るか」
「父様。周王ならば、屋敷に居る陰陽師の全てでも、運べまする」
「なんと、既にそれほどか……」
娘とその神使達の能力の高さには、毎度驚かされる泰福だが、今はその高さが有難かった。
「直ぐに泰誠を呼べ!共に出るぞ」
側に控えていた仲間に伝えると姫の方を向き、直ぐに衣装を持ってこさせるから、急ぎ、支度をする様に言い置いて、その場を去った。
「姫様、あまり危ない事はされぬよう」
「そうですよ。できるだけ気をつけて下さいね」
直ぐ側で控えていた、さきとなつめが心配そうにしながらも、身支度を整えてくれる。火事場に向かうため、陰陽師だと判る姿でなければ術の邪魔をされかねないという事で、姫のために用意されたのは、狩衣に立烏帽子だ。
「判っておる。前に約束したであろう。心配要らぬ」
ご無事で戻って来て下さいと言われながら、玄関へと向かうと、そこには既に父と兄、そして四人の陰陽師が準備を整え待っていた。陰陽博士だけは屋敷に残るらしく、脇に控えており、その後ろには母・智乃と、弟・泰連、妹・章の姿も見える。
(化け蜘蛛の事があった故、父様も用心されておるのじゃな……)
「お待たせし、申しわけなく!」
謝罪の声を上げると、一斉に視線が集まった。その中を履物を履き、兄の側へと向かう。
「兄様、御武運を!」
「姉様、気をつけて下さりませ!」
「泰誠、香菜。無茶だけは、するでないぞ」
掛けられた声に兄と二人で頷くと、姫は己の神使の方を向く。
「周王、頼むぞ!」
「畏まり!」
周王が一気に巨大化すると、それを見た者達が皆、息を呑むのが判った。その鼻先では華王が、あまり速くしてはならんと注意しながら、姿を隠す為の『陰行の札』を張り付けている。
伏せるようにして、低く下げられた背に、順に乗り込んでいく。一番手は松葉と楓、そして泰誠だ。その後は陰陽師達、泰福と流華、風華と続き、最後に香菜姫と華王が背に座ると、それを合図とするように、
「参りもす!」
言うなりタンッ、と跳ねて空へと高く舞い上がり、その後は緩やかに駆け出した。上からだと、火事の様子がよく判った。
空は黒ずんだ灰色の煙に覆われ、東から吹く風のせいで、炎はうねりながら西へと走り、まるで生きているかのように、建物を飲み込んでいく。香菜姫は、離れているにも関わらず、ジリジリとした熱を覚えた。
幸い、常火消し達の働きで、禁裡への延焼は今の所なさそうだが、火の粉は空高く舞い上がり、あらゆる場所に降り注いでいるため、油断はならない。
「まずは手前となる南側へ、向かってくれ」
泰福が指示を出す。
火は椹木町通まで来ていたため、その手前の丸太町通で陰陽師二人を降ろす事になった。それでも直ぐ目の前は火の海で、町火消し達が必死に建物と格闘しており、背後では風呂敷を担いだ者や荷車を引く者達でひしめいている。そこへ。
「陰陽師さまだ」、「陰陽師さまが来られたぞ、場所を空けろ!」
町火消し達の声が上がる中、二人の陰陽師は札を手に、九字を唱えながら進んでいく。
その後ろ姿を見ながら、どのように術を使うのか見たいと思ったものの、ぐずぐずしている暇はない。すぐに飛び立つよう、周王に指示を出す。
次に降ろしたのは父と兄、そして神使達だった。蛤御門のすぐ側だ。此方も火消し達が忙しくしているが、父達を見た途端、場所をあけた。
「わしらは此方側から対処する。泰誠、わしの補佐をしろ!残り二人は北側を頼む。そして香菜は、西側だ。これ以上の被害が広がらぬよう、できるだけ早く火を抑えろ!」
「畏まり!」
北側の今出川通で残っていた二人を下ろした時点で、周王は本来の大きさに戻り、香菜姫は華王に跨り、急ぎ西へと戻る。
大宮通に降り立つと、大きく息を吸う。炎のせいだろう、寒さは感じなかった。
半鐘の音や町火消し達の掛け声に混じり、人々の逃げ惑う声や、幼子の泣き声が聞こえる。だが今ここで、一人一人を見つけ助ける事は容易ではない。それに。
(まずは、すべき事じゃ!妾は、妾にしか出来ぬ事をするが最優先!それ以外の事は、他の者に任さねば、結局は何もなされんと思え!)
そう己に言い聞かせ、目の前の炎に意識を集中させる。家々は既に火消し達によって打ち壊されており、わずかに残った家も、雨戸を閉めた状態で屋根に大穴を開られている。しかし、風に乗った炎は、それらも飲み込みながら、突き進んで来た。
「陰陽師さま、お気をつけください!殊の外、火の動きが速いです!」
直ぐ側の家の屋根から降りてきた火消しが、声を掛けてくる。
「了解じゃ」
そう返事はしたものの、香菜姫は暫し思案した。確かにこの風を、何とかしなければならないのだが、下手に風向きを変えると、今度は東に炎が向きかねない。
(いや、此処は父様と兄様を信じようぞ!)
二人は必ず強固な結界を張ってくれている。そう信じる事にしたのだ。幸い然程遠くない所には紙屋川が流れており、使う水に関しては、事欠くことは無いと安堵する。
(いくら華王でも、無尽蔵に水を出せる訳ではないからの)
「周王、風を抑えて、炎を鎮めろ!」
「あいな!」
「華王は水を。まずはこの通り沿いを濡らせ!炎の上ではなく、境を狙って落とすのじゃ!足らなければ、川の水を使え!」
「畏まり!」
(妾は結界じゃ。上手くいくと良いが……)
土御門家の九字は攻撃として有用だが、強力な結界としても使う事が出来る。しかし、香菜姫はこれまで一度も結界として用いた事が無かったのだ。意識を集中して、堅牢な壁を思い浮かべる。
「朱雀・玄武・白虎・勾陣」
手刀で空中に縦に四、横に五本の格子を描くが、いつものように切り裂くように描くのではなく、一本一本が巨大な壁を成すよう押し描いていく。
その間に炎はその速度を押しつぶされるように落としていき、無数の手鞠程の大きさの水球が、空に浮かぶ。
「帝久・文王・三台・玉女・青龍!」
普段の光輝く格子とは全く別の、鈍色の格子が現れる。しかも、その大きさは高さ一丈、幅は二十間ほどもある大きな物で、その壁の向こう側に、次々に水球が落とされていく。
幾つもの大きな水音がし、熱を伴う蒸気が激しい風と共に舞い上がり、結界の向こう側を真白に染める。同時に歓声が上がった。
しかも、こちら側には僅かに蒸気が漂う程度で、何ら被害はない。
(これは、案外いけるやもしれんの)
すぐさま今張った結界の横に、新たな結界を張り、同じことを繰り返す。ならばと、周王は水球を風に乗せ、火の勢いが強い所を狙い、落としていく。すると、その度に大きく蒸気が吹き上がり、歓声が起きる。
結局、この後更に二つの結界を張った香菜姫は、無事、炎を抑えることに成功した。
そして逃げる為に右往左往していた者達は、気がつけば、呑気な野次馬へと姿を変えていた。
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「ところで、この式の事だが。確か小言がどうのと申しておったな」
(あー、こちらが残っておったわ……)
消火に成功し、盛大に父から褒められた香菜姫は、全身余すことなく燻されたような臭いをさせていた為、屋敷に戻ると早々に、風呂に放り込まれることになった。髪まで綺麗に洗われ、きれいな着物に着替えた姫が、ようやく一息ついたところへ、父・泰福から呼び出しが掛かったのだ。
そして、先ほどの状況になっていた。部屋に散らばった式は、消火に向かっている間に、さきとなつめが片付けてくれていたのだが、泰福は部屋を訪れた際に飛んでいる式を一つ、捕まえていたようで、それを懐から取り出して聞いて来たのだ。
『在査異察・急々飛令』。
そう書かれた鳥形の式は、香菜姫が道場に通い始めた四年前から、少しずつ京の町に貼っていった物だった。最初は、自分で貼っていたのだが、貼る場所を見繕う際、あまりにキョロキョロしていたせいで、直ぐに次郎爺にばれてしまったのだ。
そのため、その後は貼るのは黒鉄に押し付けたものの、その数は少しずつ増え続け、今では洛中を網羅している。
この式は、『陰行』と書いた札を巻きつけた状態で、壁の隙間や軒下等に潜ませると、その場に貼りつき、近辺の様子を窺い続ける。そして何か異常があれば、姫のもとに伝えに来るようになっていた。
数年前に起きた拐かしも、式の知らせによって、見知らぬ者が屋敷と道場の周りを彷徨いていることを知った姫が、用心のために余分に札を持ち歩いていた故に対処出来たのだ。
だが今さら、あの時ばれなかったのを良い事に、どんどんと範囲を広げていた、などとは言えるはずもなく。
「いえ、父様。そのように些末な事など、忘れていただいて構わぬかと……」
「わしには些末とは、到底思えんのだが?」
式を振りながら泰福が言う。
「しかし、それは最近ようやく、使えるようになりもうした物で……」
「ほぅ、最近とな」
「そうです、父様。特に最初の頃などは、どうでも良いことも一々報告してくる故、うるそうて、うるそうて。なので、ほんに大事な事だけを報告するようになるまで、結構な時を要しておりまして……」
なので、きちんと使えると判った時点で、報告しようと思っていたと、些か苦しい言い訳するが、そんな事で父のこめかみの青筋が消えるはずもなく。
「それで?いったい、いつからこの様な物を町中に貼り回っておったのか、さっさと申せ!しかも、今日火事となった場所なんぞは、行った事もなかろう!」
結局姫は、昔の事から色々と白状する羽目になった上に、護衛をお八つの買い出しに使っていた事まで白状させられ、盛大な雷を落とされる事となった。
地名や通りの名に関しては、国際日本文化研究センターの所蔵地図のデータベースから、昔の地名を引っ張て来て、現在の地図と照らし合わせたりしているのですが、秀吉君が色々とやらかしてくれた事もあり、判らない所が多々あります。「ここ、おかしいよ!」と思われる個所がありましたら是非、お教え願えたらと思います。
この元禄三年の大火は、少し不思議な火災で、多くの文献が記録に残しているにも拘らず、いずれもが断片的で、被災の数も異なっているのです。南北二丁(町)、東へ六丁(町)余り、すなわち南北へ約220m、東西へ約660m焼失したという記録がある一方、幕府の公式記録では、「京都で火災があったと報告があった」程度のものとなっています。しかも「一千余戸焼失」と記録されているものもあれば、「三百余軒が焼失」と書かれたものもあります。ほんとに不思議です。
江戸で町火消が組織されるのは、1718年以降ですが、京ではその前から町奉行所が直属の火消人足を雇って、経費を町人に負担させる方式をとっていました。火消しの仕事は近代になるまで基本、破壊消火です。
一丈は約三メートル、二十間は約三十六メートルです。




