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四十六話 貞享四年(1687年)~元禄三年(1690年) 其の一

 貞享四年、皐月。


「おや、香菜。また来たのか」


 智乃がお産用に設えた部屋から、自室へと戻ってきたのは、つい先日の事だ。お産直後に顔を見る事は出来たものの、その後はずっと会うことが叶わなかった香菜姫は、漸く母や妹に会えるのが嬉しくて、日参している最中だ。


「母様、少しだけ」


「章は寝ておる。静かにしや」


 先月生まれた赤子は女で、(あき)と名付けられていた。

 香菜姫の日々の祈祷が効いたのか、ことのほか安産で、生まれた直後に裏山に、盛大な雷が一つ落ちたさい、音に驚き大泣きした以外は、何ら問題は無く、スクスクと大きくなっている。


「ほぅ。いつ見ても、章は愛いのう……」


 章姫は今、嬰児籠(えじこ)の中で口を少し開けて、眠っていた。布の間から覗く両の手はぎゅっと握られ、赤子特有の甘い乳の匂いがする。

 生まれたばかりの時、赤く、しわくちゃに見えた顔も日々、たっぷり与えられる乳のおかげか丸みを帯び、プクプクとした桃色の頬は、つつけば弾けそうなほどだ。


「そうじゃ、母様。これは、なつめに教わって縫うたのじゃが」


 香菜姫が袂から取り出し、恥ずかしげに差し出したそれは夏用の産着で、背守りとして、薄紅色の糸で籠目(かごめ)紋が刺繍されてある。


「これを香菜が縫うたのか。ホンに、よう出来ておる」


 智乃が感心したように、広げてみせる。


「母様も用意されておられようが、妾も章になんぞしてやりたいと思うて」


 照れくさげに語りながらも、どこか誇らしげな娘と背守りを交互に見ながら智乃は、


「これを着る頃には、章は寝返りが出来るようになっておろう。今から楽しみよの」


 そう言って微笑んだ。




 二月後(文月)。


「して、香菜よ。何を、どのように込めたら、こうなるのじゃ?」


 智乃が指し示した先には、うつ伏せになり、楽しげに身体を揺する章がいた。その背には、香菜姫が刺繍した籠目紋があり、そして章の周りには、何匹もの虫がひっくり返り、転がっていた。

 まだかすかに動いている物もいるが、ほとんどは完全にこと切れている。


「……えっと、おそらく此は、章が神力で虫を……」


 思いっきり心当たりのある香菜姫としては、何とか誤魔化したかっのだが、そんな事が智乃に通じるはずもなく。


「他の産着では、この様なことは起きん」


 さっさと説明しろと言わんばかりに睨み付けられ、仕方なく姫は白状することにした。


「厄災を除けるよう、魔よけの籠目紋を刺繍する際、ついでに蚊や虻なんぞに刺されぬよう、白糸で虫退治の呪文を少し……」


「そんな事をしておったのか!」


 呆れた顔だが、怒っている訳では無さそうなので、安堵した香菜姫の口は、少しばかり軽くなる。


「はい!次郎爺の早業を見て、思い付き申した。母様は次郎爺が蝿を退治する様を、見た事がおありでしょうや?手拭いを使って、こう、しゅっ、と一振りしただけで、蝿はポトリと落ちるのです。まさに一撃必殺!なので、その早業から思い浮かんだ『撃打伐虫』の文字を、目立たぬように小さく刺繍して……」


 そう話している傍から、どこからか飛んできた蝉が章姫の側へと飛んでいくが、一尺ほど近くまで来た途端、ばちっ、と音がすると同時にジッ!と一声だけ残して、蝉はそのまま床へと落ち、動かなくなった。


 しかも、章姫がそれに興味を示し、傍に寄ろうと手を伸ばすと、虫は仰向けのまま、その手からのがれるように、スッと遠退いていくのだ。

 あぅあぅと言いながら、虫を捕まえようと床を叩く章姫を眺めていた智乃だが、諦めたように溜め息を一つ、つくと、


「あい、判った。とりあえず香菜よ。こちらの産着にも、同じ刺繍を刺してたもれ。なんにせよ、章が虫に刺されぬのは、悪い事ではなかろうて」


 そう言って、三枚の産着を差し出してきた。これには、香菜姫も驚いた。まさか追加で刺繍をする事になるとは、思っていなかったからだ。


(しかも三枚も!これならば、叱られた方が、まだ良かったやも知れん!)


 情けない顔で受けとる娘を見て、智乃は笑いたいのを堪えながらも、一枚は今日中に頼むと付け加える。

 香菜姫の顔が、一層情けないものになったのは、言うまでもない。





 長月。


「姫様!これで我も手をつなげもす!」


 鼻息も荒く部屋に駆け込んできたのは、白衣に緋色の袴、同色の狩衣を身につけた周王だ。華王に遅れること五カ月。漸く変化出来るようになったのだ。しかし。


「おや、こちらもまた、お可愛いらしい!」


 その姿を喜んだのは、香菜姫だけでは無かった。さきとなつめが喜び勇んで兄・泰誠(やすまさ )の昔の衣装を借り出してきて、あれやこれやこれやと着せ始めたのだ。

 しかも、今回は衣装を運んできた泰誠の侍女達が、何故か香菜姫の昔の衣装を手に、華王の着せ替えをし出したため、一層の大騒ぎとなった。


 その結果、一時以上、着たり脱いだりを繰り返す羽目になった周王は今、くたびれ果て、おやつの葛餅を飲み込みながら、ぼやいている最中だった。


「華王。お主、よく平気でありもすな」


「あれごときで根を上げるとは、ふっ、周王もまだまだじゃの」


「何を言うか。あれは広目天様の修行より、大変でありもす。あれを一時でも羨ましいと思った我が、愚かでありもした……」


 空になった皿を持ち上げ、さきにお代わりを催促しながらも、ぼやきは止まらない。そこへ、


「ほう、これは可愛い武者殿がおるの」


 次郎爺が入ってきた。子狐達と、おやつを食べようと思ったのだろう。葛餅と茶碗の乗った盆を手にしている。


「次郎爺、聞いてくれもせ!」


 またしても愚痴を言おうとする周王だったが、せっかく若武者のような格好をしているのだから、剣でも振ってみるかと次郎爺に問われ、途端にさっきまでの不満顔は何処へやら、目を輝かせ、次郎爺に飛びついた。


「我が剣術の稽古を?」


「そうですな。嫌でなければ、この爺が稽古をつけますが」


「ならば、我は塚原卜伝(つかはら ぼくでん)殿の様に為れようか?」


「真面目に取り組まれれば、必ずや」


 塚原卜伝は剣聖と謳われ、草紙の題材にもなっている人物で、周王一番のお気に入りの剣豪だ。その人物のようになれると言われたものだから、周王は大はりきりで、なつめに稽古着は無いかと聞きにいく。

 木刀も要るのだとせがめば、それは道場にあるのではと言われ、ならばと黒鉄を道場まで引っ張っていった。戻ってきた時は、二本の短い木刀を手に御満悦で、


「秘儀、一の太刀」


 などと叫んでは、木刀を振り回す始末だ。結局、襖紙を二枚ほど破った時点で、木刀は姫に取り上げられた上に、室内での使用は禁止だときつく言い渡されて、その日は収まりをつけた。


 翌日からは、香菜姫の稽古の前とおやつの後に、周王の稽古が行われる事となった。次郎爺から、剣の握り方に始まり、構え方や剣のふり方を教わっていく。

 当然、次郎爺が香菜姫の稽古についている間は、黒鉄が付き合うことになった。しかも、いきなりの掛かり稽古だ。


 これが意外と大変で、なんせ技術は拙いし、力も然程強くはないものの、その身は軽く、おまけに空を駆けて攻撃してくるため、中々に厄介なのだ。お陰で黒鉄にとっては、気の抜けない良い稽古になっていたのだが、


(これ、毎日は、さすがにきついかも……)


 時々は朱鉄に交代してもらおうと、上空から打ち込んでくる周王をかわしながら、黒鉄は固く心に決めるのだった。





 貞享五年(1688年)、弥生(香菜姫十歳)。


「姫様!先だっての修行で奪衣婆(だつえばば)様から便利な術を教わりもした!見ていて下され!」


 華王が嬉し気に、これを使えば着替えがうんと楽になると胸を張る。そんなに便利な術ならばと、姫はさきやなつめと一緒に見学することにした。


「脱!」


 華王のかわいらしい声が響き、ポンッ、と音がして術が発動した結果、


「あらま」「おやまぁ」


 確かに、さっきまで華王が来ていた着物は、すぐ側に脱ぎ落されているが、そこには肌襦袢や足袋までもが乗っかっている。当然、華王は素っ裸だ。急いでさきが肌襦袢を着せるが、華王は何が起きたのか理解出来ていないらしく、驚いた顔のまま、固まっている。


「あーっ、華王よ。童にその術を使うのは、風呂に入る時が良いと思うぞ」


 笑いたいが、笑えば華王が傷つくだろうと、姫が気を使いながら声をかけるものだが、離れた場所では周王が笑い転げて息さえ出来ず、ひぃひぃと言いながらこちらを指さしていた。

 当然我に返った華王はそれに気づき、周王をにらみつける。そして。


「脱!」


「ぎゃぁぁ!!」


 なつめがカラカラと笑いながら、周王に肌襦袢を着せるために動いた。





 元禄二年(1689年)、文月(香菜姫十一歳)。


(今回の修行は長いようじゃな)


 周王が修行に出て、既に七日が過ぎていた。さすがに、そろそろ戻ってくる頃だろうと姫が思っていると、


「只今戻りもした!」


 意気揚々と香菜姫の部屋へと入ってきたのは、父・泰福の風華や流華と大して変わらぬ大きさの、神使だった。


「…………誰じゃ?」


「えっ……姫様、周王でありもする!まさか、お忘れに……」


「えっ、あっ、周王?いや、確かにその紋様は周王じゃな。あまりの変わりように、直ぐには判らなんだ。すまぬの」


 子狐達は少しずつ、大きくなっていたとはいえ、父や兄の神使達に比べると、まだずっと小さかったのだ。なのに急に大きくなられると、その見慣れぬ姿には、違和感ばかりが先に立ち、大きくなった事を素直に喜べないのだ。


「しかし、ほんに大きくなったものよ」


 感心したようにまじまじと見ながら、その背に手を伸ばすも、毛の手触りも幾分変わったように感じ、やはり寂しく思う。

 するとその様をじっと見ていた華王が、トコトコと姫の前まで来ると、その膝にちょこんと座り、周王を見上げてにんまりと笑った。

 むっとした周王が、己もと思うが片足を姫の膝に乗せた時点で、華王の笑みの意味を理解した。大きくなった己は、もう、膝に乗ることが出来ないのだと気づいたのだ。衝撃のあまり、口が開いたまま塞がらない。


「うむ。さすがにこの大きさでは、膝に乗るのは無理じゃの」


 姫の言葉が追い討ちをかける。


「そんな……」


 そのしょぼくれた顔はまさしく周王特有のもので、大きくなっても変わらない箇所を見つけた姫は嬉しくなった。しかし、ここで笑うわけにはいかない為、まじめな顔を繕って、


「そう嘆くでない。ほれ、横に座ってここに頭を乗せれば良い」


 そう言われ、周王は伏せるようにして座り、頭だけを膝に乗せる。そうして頭を撫でてもらい、ようやく機嫌が直ったのだろう。嬉しそうに目を細めた。


(あぁ、大きゅうなっても、妾のお狐達は、なんて愛いのじゃろう……)



 それから十日後。今度は華王が大きくなって、修行から戻ってきた。

 周王の事があったため、それほど驚きはしなかったものの、さすがに続けざまに大きくなられると、ついこないだまで膝に乗っていた感触が恋しく、香菜姫は少しどころか、とても寂しく感じていた。


(これはもしや、成長期というものじゃろうか?松葉と楓にもそんな時期があったのか、今度、兄様に訊ねてみようかの……)


「ふん。これでお主も、もう抱っこしてもらえぬの」


「ふふん!我は変化を使うて、更に大きくなれもす。姫様、どうか我が背に!」


 先程よりも二回りほど大きくなって見せ、姫に背を差し出す。


「あ、ずるい!我が背に乗せると申しておったのに!」


「早い者勝ちでありもす」


「ほんに妾が乗っても、大丈夫か?」


「是非とも!!」


 香菜姫が恐る恐るその背に跨ると、


「では参りもす」


 すいっと空へと駆ける。速くはなく、むしろゆっくりだが、それがありがたかった。


「良い眺めじゃの」


 いつかは父のように神使の背に乗りたいと思っていた。それが今、叶ったのだ。


(華王はいつも、妾の願いを察してくれる。ほんにありがたいの)


「華王よ。礼を言うぞ」


 少し照れ臭げな華王の背上から、拗ねた周王が次郎爺にまとわりついているのが見える。そろそろ降りた方が良かろうと思うまもなく、地面が近づく。それに気づいた周王が走り寄る。


(こうやって、少しづつ変わっていくのじゃな。じゃが変わらぬものもあって、きっとどちらも大切にせねばならんのだろう。いつか、妾も変わるのじゃろうか?その時は、善き方向に変わりたいものよ……)





 三月後(神無月)。


「姫様、我の背にもお乗りくだされ!」


 変化で大きくなれるようになったという周王だが、その大きさが半端なく大きかった。高さは天井に届かんばかりで、その背の広さは畳にして軽く三枚分はありそうだ。


「周王よ。これはちと、大きすぎはせぬか」


「大きければ良いというものではないわ。加減を知らぬのか」


「何をいう!大は小を兼ねると言うではないか!」


 とりあえず、さきになつめ、次郎爺と黒鉄まで誘い、全員でその背に座る。それでもまだ場所が余っているが、これ以上はどうしようも無い。華王以外は皆、落ちぬよう、周王の毛をひしと掴んでいる。


「周王、良いぞ。ただし、ゆっくりで頼む」


「畏まりー!」


 言うが早いか、ふぉんっ、と飛び立つ。香菜姫は、身体を後ろに持っていかれそうになるのを、必死で掴まり堪える。次郎爺の楽しげな笑い声が聞こえるが、それ以外は、耳元を風が通り抜けていく音しか聞こえず、周りを見る余裕すら無い。


 漸く地面に降りたときは、ほっとして座り込みそうになった。実際、さきは座り込んでいるし、なつめと黒鉄の顔色も良くない。唯一人、次郎爺だけが楽しかったようで、ニコニコとしていた。


「いかがでありもした?」


 誉めて欲しいと言わんばかりの周王に、恐かったとも言えずにいると、その鼻面を華王がパシリとはたき、


「速すぎでありもす!姫様はゆっくりでと、仰せられたというに!」


 この耳は飾りか、それとも飾りは頭の方かと、えらい剣幕で叱り始めたものだから、香菜姫の顔に笑みが戻る。


「そう怒るでない。妾には些か速かったが、次郎爺には丁度良かったようじゃ」


 言いながらも、こっそりと「明日のおやつは華王の好きなものにしようぞ」と言うと、「我は白玉入りの冷やし甘酒が良いかと」と返ってくる。


 こうして密約を結びながら、このような変化しながらも、変わらない日々が続く事を、姫が疑うことはなかった。


 元禄三年(1690年)、師走(香菜姫十二歳)。


 師走に入り、何となく忙しない空気が、京の都を覆っていた。雪も早い時期から結構な頻度でふり、寒さも厳しいと、皆口を揃えて言うほどだった。


 そして、九日。


 その日は朝から風が強く、香菜姫も、いつもより一枚余分に着こんで稽古に励んでいた。


 最初聞こえてきた時、その音は、遠くから微かに聞こえるほどの物だった。しかし、しばらくすると、音はどんどん大きくなっていき、そのため、屋敷中が不安に覆われることになった。

 火事を報せる晩鐘が、都中で鳴らされているのかと思えるほど、鳴り響いていたからだ。そして、そんな中を、鳥型の式が次々と香菜姫の部屋に舞い込んできた……

塚原つかはら 卜伝ぼくでんは戦国時代の剣士で、兵法家でもあります。鹿島新當流を開いた。「幾度も真剣勝負に臨みつつ一度も刀傷を受けなかった」などの伝説があり、中でも有名なのが、「無手勝流」の話です。これは琵琶湖の船中で若い剣士から決闘を挑まれた卜伝の機知に富んだ逸話で、この中で卜伝は「戦わずして勝つ」という事を、見事やってのけます。


暦に関しては、貞享5年9月30日(1688年10月23日)に、元禄に改元しています。

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