四十四話 貞享四年(1687年) 其の六
貞享四年、卯月。
既に香菜姫の母・智乃の腹は大きく膨らみ、いつ赤ん坊が生まれてもおかしくない状態となっていたため、土御門の屋敷には産婆が招かれ、奥向きはお産に向けての準備に入っていた。
「……諸共に すべからく 麗しく 日立行きて 事なく 榮へあらしめ給へと 恐み恐み 白す」
(もうじきじゃな。楽しみよのう)
香菜姫の日課である安産祈願の祝詞も、暖かさと明るさを増していく日差しにつられるように、声に透き通るような明るさを含んでいた。
「そろそろ、華王も戻って来るじゃろうし」
子狐達は月に一、二度、交代で仙界へ修行に行っており、大体四日から七日の間の留守にする。今は華王の番で、既に五日が経っているため、そろそろ戻ってくる頃だと姫が思いながら、部屋へと戻りかけたその時。
どぉんっ!
(痛っ……)
いきなり背後から腰の辺り目がけて、何かが突進して来た。
「姫様、見て下され!我は変化できるようになりもした!」
嬉しげな華王の声に振り返ると、そこには白衣に白藍の袴、同色の狩衣といった稚児装束を身に纏った五歳ぐらいの童が立っていた。しかも色が白く、少しつり気味の大きな目はクリクリとして、大層可愛らしい。
「まだ、この姿にしかなれもせんが、これならば、道場に通う際、我は手をつないでまいれもす!」
嬉しげに姫の手を握り、笑顔を見せるその額には、うっすらとだが見慣れた花紋様が浮かんでいる。
「ほんに、華王か?!」
「あい!頑張りもした!」
得意気な仕草が又、愛らしい。香菜姫は、思わず華王を抱きしめた。
(妾のおきつねは、なんと愛いのじゃろう!)
初めて道場で稽古をした帰り道、やはり稽古帰りらしき姉妹が手をつないで歩いているのを、姫は少しばかり羨ましく思いながら、眺めていたのだ。
兄・泰誠とは年も近いし仲は良いものの、手を繋いで出掛けるような事はとんと無く、弟・泰連はまだ幼いため、共に出かける事はまだ無理だった。それ故の、ちょっとした憧れだったのだが、当然、口に出したことは無かった。
だからこそ、その事に気づき、努力してくれた華王の想いが、姫はどうしようもなく嬉しかったのだ。
「そうじゃの。是非とも手を繋いで参ろうぞ。なんなら衣装も似せようぞ」
姫は華王と手を繋ぎ、楽しげに部屋へと向かうが、ふと後ろを見ると、大層ショボくれた周王がトボトボと付いて来ているのを見て、苦笑した。
(あぁ、やはり妾のおきつねは、愛いのう!)
部屋に戻ってからは、大騒ぎとなった。華王の姿を見たなつめが、香菜姫の幼いころの衣装を引っ張り出して来ると、さきと一緒になって、あれやこれやと着せ始めたからだ。
やれ、こっちの柄が、いやあっちの色が、どれも似合うの、愛らしいなどと、絹に埋もれて女ばかりで盛り上がる。
その横で相手にされずに拗ねていた周王は、隣の部屋に控えていた黒鉄の側に行くと、そのまま膝の上に乗っかるように寝そべり、ちらりと黒鉄を見た後、己の背中を目線で示した。
(これはもしや、撫でろということか?)
恐る恐るその背に手を置き、ゆっくりと撫でていく。目を閉じ、大きく息を吐きだした周王を見て、合っていたのだと安堵した黒鉄は、ふと思いついた事を言ってみた。
「札に『犬』ではなく、『子』と書いてもらえば良いのでは?」
「我はまだ後ろ足だけでは歩けもせん。子に化けても、四つ足では意味がない」
「確かに、それでは手はつなげないか」
「ふん、見ておれ。我もすぐに変化出来るようになりもす故」
「そうだな。きっと直ぐに出来るようになるよ」
所々、少し硬い毛の混ざる毛並みを撫でながら、その時までは、自分が周王を抱える係となるのだろうと黒鉄は思った。
****
香菜姫が華王と手を繋いで通うようになって二回目の稽古日。姫が巻藁部屋で素引きの稽古をしていると、香菜姫の名を呼びながら、中間が駆け込んできた。
見覚えの無い顔ではあるが、屋敷で支給している袴を着けているため、姫も最初は警戒していなかった。だが。
「姫様!奥方様が御倒れに!今すぐ屋敷に御戻り下さい!」
「母様が?」
その時点で、何かおかしいと思った。
「お急ぎを!門前に駕籠を待たしております。そちらで」
やたらと急かすわりには、次郎爺や黒鉄には何も言わない。普通は供の者達も一緒に戻るべきなのに、香菜姫だけを連れて行こうとしているようだった。だから。
「今日は花も共に参っておる。駕籠は二台在るのか?」
香菜姫の言葉に、中間は一瞬たじろいだものの、直ぐに
「あっ、いえ、一台しか用意できませんでしたが、お二方共にお小さいので、一緒にお乗りになればよろしいかと。ささ、お急ぎください。えっと、花、様もご一緒に」
(ふむ。やはり偽物のようじゃな。しかし、小奴等の目的は何じゃろう……)
「爺、黒鉄。妾の荷物を持って、後から参れ」
偽中間の目的を探ってやろうと考えた香菜姫は、俯き気味にそう言って次郎爺に弓を渡すと、狆を抱え、花の手を引き、門へと向かう。案の定、そこで待っていたのは豪華な造りではあるものの、法仙寺駕籠で、智乃の女乗物(駕籠)とは全くの別物だった。
(これほどお粗末な手を使っても、ばれぬと思われておるとは、妾もなめられたものよの)
姫は些か腹が立ってきたものの、まだ相手の狙いが何か判らないため、騙されたふりを続けることにした。せかされるようにして、駕籠へと乗り込む。
戸を閉めた駕籠はすぐに動き出し、少し進んだ時点で、ゆっくりと方向を変え、屋敷とは別方向へと向かっていった。
「黒鉄、今の者に心当たりは有るか?」
次郎爺の言葉に、黒鉄が頷く。
「おそらくは俺と同じ里の者かと」
土御門家の使用人達は皆、華王が変化できることを承知しているが、あの男はそれを知らなかった。それだけで、偽物だと判る。
それに、背丈や見た目、そして声音を変えてはいるが、黒鉄を馬鹿にしたような目つきだけは変えようがない。
(あれは鋼三だ。恐らく変装術を使ったのだろう)
鉄組の黒鉄が教わることはなかったが、鋼組の者達は皆、変装術を教わっていた。そうして、時々鉄組の者を騙しては、馬鹿にし、笑い物にしていたのだ。
「鞍馬衆か。これはまた、面倒な……」
姫の道具を箱に収め、肩に担いだ次郎爺が眉をしかめる。
「おそらく、俺への嫌がらせかと」
「ならばお主にだけ、ちょっかいをかけておれば良いものを、姫に手を出した時点で、大事となるというのに。しかたないの、急ぎ追うとしよう」
言いながら手を広げると、そこから鳥形の式が舞い上がる。先程香菜姫から、弓と共に手渡されたものだ。その胴部分に『我探追尾』の文字が光り浮かぶと、式はくるりと一度旋回して、ある方向を目指して飛びはじめた。それを見失わないようにしながら、次郎爺と黒鉄は後を追った。
その頃、揺れる駕籠の中では、香菜姫達が小声で話し合っていた。
「先ずは我が、奴めらに気づかれぬよう、降りまする」
「では、二番手は我が。このまま幼子の姿で降りて………」
「頼んだぞ。妾は降りると同時に……」
そんな事を話しているうちに、駕籠が止まった。周王がするりと駕籠からいなくなり、次に華王が降りるのを見ながら、姫はそこが寺の境内だと見当をつけた。
おそらく四条寺町あたりの寺のどれかだろう。懐から式を二枚取り出し、手の内に隠し持つ。
「此処は?母上はどこじゃ?」
華王が大声で泣き叫んでみせ、続いて降りた香菜姫も、相手を油断させておくために不安げな表情を張り付け、慌てて見せた。
「妾達をどうするつもりじゃ!」
すると道場に来た偽中間とは別の、若い男がへらへらと笑いながら近づいて来た。先ほどの偽中間は、陸尺(乗物を担ぐ者)達と何やら話をしている。
(ふん、奴らも仲間か。ならば……)
準備していた式を二枚一度に飛ばす。式は陸尺達めがけて飛んでいき、一気に背後から拘束する。偽中間が驚き目を見張るが、若い男はまだ気づいていない。泣きじゃくるふりをしている華王の側によると、
「心配要りませんよ。直ぐに返して差し上げますから。ただ少し、此処で大人しく……」
慰めるつもりなのだろう、手を伸ばしてきた。その手を掴んだ華王がにんまりと笑い、「枝絡」と呟く。すると男の足元から植物の蔓がするすると伸びてきて、見る間にその身体を縛り上げていく。慌てた偽中間がこちらに走り寄ろうとするが、
「縛!」
即座に周王も術を繰り出し、偽中間を捕えた。
「さて、妾を騙し、拐かした罰は、どのようなものが良いかの」
式の後を追って来た次郎爺と黒鉄が、香菜姫達を見つけた時、そこには信じがたい光景が、繰り広げられていた。
地面には、姫の式に拘束された陸尺達が転がり、寺の一番高い木には、二人の男達がぶら下げられている。
しかもその下では、子狐達が狐火を飛ばしては、男達にぶつけていた。
「おぉ、着いたか。では、式は上手い具合に動いたようじゃな」
「姫さん、あまり年寄りを走らさんでくだされ」
「次郎爺、すまなかったの。じゃが先ほど父様にも連絡を飛ばしたゆえ、直に本物の家の者達がきよる」
楽し気に言う香菜姫と、拘束された男達を眺めていた黒鉄が
「おれ、姫さんに護衛は必要無いように思えてきた」
思わず呟くと、
「何を言う。妾はいたいけな九歳じゃぞ?しかもこのように愛らしいのじゃ。なんぞあったら、どうするのじゃ?」
えらく不服そうに、そう言い返されたものの、いたいけな九歳は、わざと拐われたりしないし、下手人に対して、ここまでしないと思った黒鉄だった。
***
「香菜。本日、大変な目にあった聞いたが、怪我などは無かったようで何よりだ。だが、いくつか気になることがあっての」
その日の夜、香菜姫は父から呼び出されていた。
「なんでありましょう?」
「まず、あまりにも準備が良すぎた気がしての。あのような呪文札を、しかも何枚も、どうして持っておったのだ?」
「もちろん、外出時の用心の為として……」
「それに何やら新しい呪文札も用意していたらしいではないか?」
「あれは、その、ちょっとした物で、呪文というほどの物では……」
「おまけに、わざと拐われたそうだな?」
「あ、それは相手の思惑が判らなかったゆえ、ならいっそ、騙されたふりをしようかと思い……」
「この馬鹿者が!己の力を過信するのも、大概にせんか!」
ごんっ!
「いっ!」
雷と拳骨が同時に姫の上に落とされた。
「よいか。化け蜘蛛の時のように、屋敷で大勢の者達と共に術を使うのと、外で単独で行った今回とは全く別物だ!おまけに効果や安全の確認も出来ておらん術を、勝手に使うとは!そもそも、お前が駕籠に乗らなければ、此度の事は起きなかったのだ。なぜ自ら危ない目に合うような行動をとったのだ!幸い、無事だったから良かったものの」
そこまで一息に捲し立てると、大きく息を吐いて、そっと姫の頭を撫でた。
「あまり心配をかけるでない」
「はい……」
「香菜よ。確かにお前は神力が強い。だが、まだ幼いゆえに、思慮が浅い。悪巧みする者は、巧妙に立ち回り、周りをも騙して、計画を進めるものだ。表に見える物が事実とは限らん事も多い。今回大事に至らなかったのは、偶々奴等の狙いがお前では無かったからだ」
「……確かに。此度は軽率な行動をとり、申し訳ございません」
実は姫としては、草紙に出てくる冒険譚のようで、胸が躍り、楽しかったのだ。だが。
(父様の言うのも、もっともじゃ。事は起こさずに済めば、それに越したことはないのに、妾はわざわざ事を大きくしてしもうた。それに、皆が心配する事は、少し考えれば判る事だというのに……)
姫がうつむき考え込んでいると、
「反省したのなら、もう戻って良い。ただし、今持っている札は全部置いて行くように」
そう言って、目の前に父の手が突き出された。仕方なく姫が三枚の札を載せるが、手は動かない。更に二枚、式を載せるが、手は引っ込むどころか更に突き出される。観念して残りの札二枚と式二枚を載せると、漸く引っ込んだ。




