三十八話 貞享三年(1686年) 其の九
少し前。
「急々如律令、速伝言飛!」
泰誠の手元から飛び立った式は、屋敷の敷地から出る寸前に子蜘蛛の吐き出した糸にぶつかり、引っ掛かってしまった。
それでも飛び進もうとする式は暫くの間、捕らえようとする蜘蛛の糸との力比べをしていたが、何とか引き剥がす事に成功する。しかし、その翼の一部は無惨にも千切れ、均等は失われていた。
フラフラと覚束ない飛翔を続けるそれは、時にぶつかり、時に進路を外れそうになりながらも、目的地である南庭を目指し、飛び続けていた。
***
土御門家の通用口は使用人や出入りの商人、領地の役人など多くの者達が利用する。その為、客を迎えるための表玄関とは違い簡素な造りとなっているが、その分間口は二間と広く、それに続く土間も八畳ほどの広さがある。
その先は納戸のある板張りの細長い部屋が二間あり、そこから奥へと向かう廊下に続いている。
今、泰誠達はその板張りの間に陣取り、化け蜘蛛と対峙していた。もっとも、迂闊に飛び出せば糸に捕まるため、真言による結界の補強と、松葉と楓が繰り出す術による子蜘蛛退治で精一杯の状態だ。
「さて、そろそろ良かろう」
化け蜘蛛はそう言うと、脚を使って子蜘蛛達の張った糸を一斉に引っぱりだした。ミシ、ミシッと軋むような音に続き、
ベキッ、バキバキッ、バキン!
通用口の屋根の一部が剥ぎ落とされ、空いた穴から子蜘蛛がバラバラと土間に落ちて来て、すぐさま板間に向けて糸を吐き出した。
「皆、奥の廊下まで下がれ!入口の結界が破られた!」
泰誠が叫ぶと、主を守ることを最優先とする松葉と楓が両側につき、そのまま一気に風の力で泰誠を押し下げていく。
護衛達も、修習生や候補生を庇うようにしながら下がった。しかし、座り込んで真言を唱えていた候補生が二人、足元をもつれさせたことで逃げ遅れてしまい、糸に捕らわれてしまう。
「い、嫌だ。助けて……」
「ひぃっ、死にたくない……」
二人の身体は見る間に顔と足先を残して、糸で覆われていく。そして。
ぎぃっ、どずんっ。
化け蜘蛛が通用口を壊しながら、土間に踏み込んできた。
「やはり屋根を壊せば入れるか。ならば!」
先程よりも更に多くの糸を引き、屋根を剥がし、壁を壊していく。既に土間の上には屋根はなく、壁も残骸となり辺りに散乱していった。そのとき。
「周王、糸を切れ!」
「畏まり!切破!」
幾つもの小さな鎌鼬が土間を舞い、子蜘蛛の糸を切り裂いていく。
捕らわれていた二人の糸も切れたため、二人はかろうじて動く足を使い、仰向けのまま芋虫のように這いながらだが、何とか朱鉄達の側まで逃げる事が出来た。
「香菜?!何故ここに……」
「兄様、加勢に参りました!」
「……判った。頼む」
笑顔で申し出る香菜姫に、泰誠は一瞬迷うよう仕草をしたものの、直ぐに姫の申し出を受け入れた。それと同時に、後ろで震えている修習生達に渇を入れる。
「おい、お前達、声が止まっているぞ!まだ破られたのは一部だ。唱え続けろ!」
我にかえった者達が、慌てて真言を唱え出した。
兄には笑顔を向けていたが、香菜姫は生まれて初めて見る怪異に気圧され、その心の臓は早鐘よりも速く打っていた。なんせ想像していたよりも、ずっと大きくおぞましいのだ。
しかし、わずか二歳しか変わらぬ兄がここで踏ん張っているのに、自分が隠れている訳にはいかないと、己を叱咤する。
そんな香菜姫を化け蜘蛛は睨め付けると、
「餌を横取りするとは、生意気な。だが、お前も美味そうよ」
「妾は土御門 泰福が娘。蜘蛛なんぞに喰われぬわ!周王、華王!」
「「あいな、姫様!」」
「足と目を狙え!」
「「畏まり!!」」「切破!」「氷礫!」
幾つもの鎌鼬が化け蜘蛛の脚を切り付け、氷礫が八つの目を狙い飛ぶ。香菜姫も呪符を出し、
「急々如律令呪符退魔!」
息を吹き掛け、神力を込めて飛ばせば、それを後ろで合唱される真言が後押しする。
パンッ!
張り巡らされた糸に邪魔されて、些か札が逸れたものの、脚が一本弾け飛び、既に二つ目を潰された化け蜘蛛の身体がぐらりと傾く。他の脚も既に傷だらけだ。
(糸が邪魔じゃ。ならば!)
香菜姫が九字を唱えようと構えるが、その時数歩前に出たのがまずかった。
「こしゃくな!小娘と子狐ふぜいが!」
怒り狂った化け蜘蛛が吐き出した糸に、姫の利き腕が捉えられてしまったのだ。
「姫様!」「香菜!」
「クックッ、肉は少ないが、その神力。喰えば力が付きそうじゃ」
ギリギリと引っ張られる姫を、朱鉄たち護衛が数人がかりで抑え踏ん張るが、徐々にズルズルとその身は引き寄せられていく。その間も
「氷礫!氷礫!氷礫!」
「切破!切破!切破!」
華王が氷礫を化け蜘蛛に飛ばし続け、周王が鎌鼬で糸を切ろうと何度も仕掛けるが、子蜘蛛の糸よりもずっと太いせいか、上手く切れない。
「ならば、焦火!」
いっそ焼き切ってしまおうと炎を飛ばす。すると火は嫌な臭いのする煙を出しながら、直ぐに消えてしまうが、
ぶちん
糸は切れた。勢い余って尻もちをついたりしたものの、すぐさま朱鉄が姫を抱えて安全な場所まで下がる。しかし腕に絡んだ糸は酷くねば付き、はずそうとしても上手く外せないでいた。そこへ、
「「姫様、こちらを!」」
さきとなつめがそれぞれ、大きな瓶を抱えて廊下を走ってきた。
「さき?なつめも……権殿に行ったのでは……」
「とにかく腕を!」
さきが糸に巻かれた姫の腕を掴み、なつめがそこに瓶の中身を柄杓でかける。すると糸がぼろぼろと崩れていった。
「これは……」
「灰汁を薄めた物です!洗濯場から持って参りました!」
なつめが叫んだ。
大人数が生活する土御門家では、洗濯や調理に使う灰汁は常にそれなりの量が用意されているのだが、今二人が持ってきたものは掃除用で、これは手が荒れぬようにと井戸水で倍に薄められていた。
実は十三日に行われた煤払いに使われた物だが、まだ幾つか残っていたのを、なつめは覚えていたのだ。
(私の蜘蛛嫌いが、姫様の役に立った!)
大事な姫様の役に立てた事が、なつめは何より嬉しかった。
幼い頃から極力、蜘蛛との遭遇を避けていたなつめは、ある時、灰汁桶やその傍には蜘蛛が巣を作らない事に気づいた。その理由までは判らなかったが、幼い彼女にとって、それは大きな恵みだった。絶対に安全な場所を発見したのだから。
それからは灰汁桶の傍が彼女のお気に入りの遊び場となり、やがては手伝いの場となった。
幼いなつめが最初に任された仕事は、洗い張りをするために、着物の糸を解く事だった。その横では少し年長の娘達が、それを粗く縫い合わせて四角の布に仕上げていた。そこから着物の仕立てに興味を持ち、今の仕事に就くきっかけとなったのだ。
その過程で、薄めた灰汁でも蜘蛛の巣を溶かす事や、洗濯の水をかけられた蜘蛛が動かなくなる事等に、自然と気づいていった。だから今回、蜘蛛の化け物と聞いて、もしかしたら効くかもと思い、灰汁を取りに走ったのだ。
「あ、後できれいな水で洗ってくださいね。でないとヒリヒリしますから」
さきが言うと、華王がすぐさま小さな水球を出して姫の腕を洗い、周王が風で乾かす。完全に糸が剥がれ、きれいになった腕を眺めた姫は、にんまりと笑う。
「華王、この灰汁を霧のようにして撒けるか?周王はそれを風で操り、蜘蛛と糸を狙うのじゃ」
それを聞いた神使達は、主と同じような笑みを浮かべると、
「「無論!」」「爆霧!」「流散!」
瓶の中身が飛び出し、大きな水球になったかと思うと、
しゅぱんっ!
一気に霧散する。それを周王が風で操り糸と子蜘蛛を覆うと、瞬く間に糸が切れ、崩れていく。しかも子蜘蛛達の動きが鈍くなり、中には動かなくなる物も出てきた。それを見た朱鉄が、何人かの護衛に追加の瓶を取りに走らせる。
どすん。化け蜘蛛の触肢にぶら下げられていた友信も、糸が脆くなったせいで、地面に落ちた。
「ちっ」
化け蜘蛛は残された目で、一瞬友信の方を向くが、直ぐに注意を姫に戻す。
「よくも!小賢しい小娘がぁ!」
ミシィッ、ギイッ
化け蜘蛛が結界に阻まれながらも、姫に向かって残った脚を振り上げた、その時。
パシンッ!ドゥオーーーン!
閃光が走ると同時に豪音と激しい振動が屋敷を襲った。
そのあまりの眩さと音と揺れに、そこにいた者達は全員、手や袂で顔や頭を被いながら座り込むしかなかった。ガラゴロガラゴロという音と共に、
「虫ごときが、妾の子に手を出そうとは笑止。思い知るがよい!」
そう怒鳴る声が響き、さらに閃光と轟音、振動が続く。髪の毛が焼け焦げるような臭いがするが、恐ろしくて誰も顔を上げることが出来ないまま、ひたすらにじっとしていた。
漸く光も音も静まり、これ以上は何も起こらないと確信が持てるほど待ってから、香菜姫はそっと目を開けた。すると、そこに見えたのは、黒焦げになった化け蜘蛛と、大きなお腹を片手で撫でながら笑う智乃の姿だった。
しかし、殊更に香菜姫の目を引いたのは、母の横にぷかりと浮かぶ物で。
「母様、それは…?」
母の側には何故か、小さな雷雲が浮かんでいたのだ。
「これは道真公の御分霊じゃ。先だってお借りしてきた物での。稽古場の神棚に祀ってっおったので、取りに行くのに時間がかかってしもうたわ」
なんせこの腹じゃ。歩くのも、ままならんと笑う。
「では、最近、ゴロゴロと聞こえていたのは、母様の体調が悪いのではなく…」
「道真公が最近不穏な物が動いているようだと、心配されておっての。そのせいじゃ」
言いながら、袂から小さな文箱のような物を取り出すと、その蓋を開ける。すると雷雲は、しゅるんと箱の中に収まった。
「遅うなってすまなんだ。じゃが、泰誠も香菜も、よう頑張ったの」
そう言って、二人を抱き寄せた。緊張がゆるんだ姫はそのまま母の身体に抱きついた。あまりの安堵に、涙が出る。
(やはり母様は最強じゃ)
見ると兄も又、涙ぐみながら母に抱きついている。
(兄様も恐かったのじゃろうか。皆に命令を下す姿は、妾よりもずっと大人に見えておったのに)
「おい皆、無事か!」
風華に跨がり、流華を引き連れた泰福が、真っ青な顔色で門を飛び越え入ってきた。手にはぼろぼろになった式を持っている。
つい先程フラフラと自分の元に飛んできた式を見た泰福は、急いで帰宅しようと風華に飛び乗ったのだが、屋敷の方角に幾つも雷の閃光が見え、更に不安を募らせながら戻ってきたのだ。なのに。
「父様、遅い……」
愛娘の最初の言葉がそれだった。しかも屋敷の通用口の土間には巨大な蜘蛛の黒焦げがあり、至るところに子供の手程の蜘蛛も転がっている。そして屋敷中がぼろぼろになった蜘蛛の糸と変な臭いに包まれていた。泰福はため息を一つ付くと、
「何があったのか、泰誠は説明を頼む。流華、悪いが屋敷を洗ってくれ。風華は乾かせ」
「「畏まりまして」」
流華が水を操り屋敷のいろんな場所を洗い、その後を追うように風華の風が舞い、乾かしていく。それと同時に、屋敷の中は少しずつ通常に戻っていった。
****
地面に横たわったまま、友信はぼんやりとしていた。まだ生きているのが不思議だったが、それ以上に自分の身体が自分のものでは無いような、そんな変な感覚に陥っていた。
それは誰かに引き起こされた時も、変な臭いのする水をかけられ、漸く身体が動かせるようになっても変わらなかった。
しかし汚れた体を洗うよう言われ、何人かと共に風呂場へと歩き出した時、それは終わった。泥池のようになった場所に灰色の毛が見えた途端、感覚が戻ってきたのだ。
(こひる、こひる、こひる……)
友信は急いで走り寄ると跪き、何度も手で泥をかき分けてボロボロになった毛皮を拾い上げる。泥水に染まったそれを、ぎゅっと胸に押し当てると、泥水が着物に染み込んできた。その冷たさに、思わず涙が出た…………
灰汁桶とは、竈や風呂焚きなどで出る灰と水を入れ、桶の下の栓口から灰汁が落ちる仕掛けになったものです。
こうしてできた灰汁は洗濯や染め物、料理などに使用されました。また、木材の黒ずみや汚れを洗い落とすのにも使われました。
結構強いアルカリ性の液体(炭酸カリウム水溶液)なので、タンパク質でできている蜘蛛の糸は解けますし、蜘蛛退治にも有効です。




