三話
その瞬間、ウィリアムは心臓が握りつぶされたのかと思った。あまりの痛みに息も碌に出来ない中、ひたすら耐える。
感覚の全て、聴覚や味覚、嗅覚に留まらず視覚までもが、胸部の痛みに集中しているようだった。そのせいだろうか、見えるはずのない己の体内の様子が、ウィリアムの脳裏に浮かんでいた。
半透明だった紐は、徐々に赤から黒へと色を変えており、それらは触手の様にうねりながら、心臓付近から全身の血管や神経へと、絡み、同化し、支配していく。その中心部である血文字の札は、心臓に張り付き、その拍動を押さえ込むかのようにギリギリと締め付けていた。
そこに香菜姫の声が降ってくる。『さっさと受け入れた方が、楽になるぞ』と。
(受け入れる、受け入れるから!だから早く何とか!)
脂汗を滲ませながら必死に願うが、痛みは治まるどころか、逆に強まっていくようだった。すでに手足は氷のように冷たく、身体は床にのめり込むのではないかと感じるほど重い。
しかし札は容赦なく締め付けるため、このままでは本当に心臓がつぶれてしまうと思った瞬間、完全に拍動が札に押さえ込まれ、停止した。
「ぎっ、ぐぅっ…」
食い縛った歯の間から、思わず声が漏れる。しかし、新たな空気が送り込まれずにいた肺は、それで最後の空気を使いきったようで、そこからは声さえ出せない中、あらゆる動きを停止した己の体内を眺める事となった。
札がずぶずぶと埋もれるように心臓の中に入っていくのが見える。それと同時に札に書かれた文字が、ひとつ、またひとつと心臓に浮かび上がっていく。しかし、それらは朦朧とする意識の中で、徐々に赤黒く霞んでいき…やがて、全てが霞に覆われてしまったと思った次の瞬間、
ドクン!
一つ大きく心臓が拍動したかと思うと、それまで彼を苦しめていた痛みは嘘のように消え、心臓は何事も無かった様に鼓動を刻み始めた。忽ち身体が楽になり、肺も普通に空気が取り込めるようになる。
「ふはぁーーっ!」
大きく息を吸う。すると体内の機能が一気に動き出し、冷たくなっていた手足にも、熱が少しずつ戻ってくるのが感じられる。そのまま身体が求めるままに、大きく息を吸っては吐くを繰り返していたウィリアムの鼻腔を、懐かしい香りがくすぐった。それはまだ幼なかった頃を思い出させる、ひどく安心できる香りだったため、一層深く息を吸う。すると。
「ウィリアム…」
己の名を呼ぶ声が聞こえた。そこで漸く、目を開ける事ができた彼の瞳には、心配そうに此方を見つめる母の顔が映っていた。
胸を押さえて苦しんでいたウィリアムの呼吸が、漸く落ち着いてきたのを見た香菜姫が、術の成功を確信した時、それまで固唾を飲んで息子の様子を伺っていた王が、声を上げた。
「おい!わしもあれを受ける!だから!」
「お、俺もだ!俺も、お前の駒とやらになってやるから!」
ウィリアムが生きている事を確認したアルトン王子も、姫に躙り寄るようにしながら声をあげる。しかし。
「断る!これは己が命を差し出してでも、我が子を守ろうとする母の気持ちを慮かっての事ゆえじゃ。言ったであろう?其方等にかける情けは無いと」
香菜姫の返事は、容赦の無いものだった。しかし、諦めきれないのか、王はその言葉に食い下がった。
「それなら、わしも我が子の命を救おうとして…」
その瞬間、圧を増した魔力が一気に部屋を埋め尽くした。三度、香菜姫の髪がうねり、衣服の袖や裾がはためく。
「そのために、妾を謀ったと?この戯けが!息子の命を助けたくば、其方もあの母のように自分の首を差し出せばよかったのじゃ。それをせずに、あのような策で妾を欺こうとする奴など、駒にする価値も無いわ!」
第二王子に向けられた視線は、さらに冷たいものだった。
「其方も同じじゃ。部屋で大人しくして居ったのならまだしも、身内の処刑の場に嬉しげに現れた時点で、駒どころか、人としての価値も無いわ」
姫は未だに朦朧としているものの、呼吸も顔色も戻ってきたウィリアムを一瞥した後、言葉を続ける。
「どうやら彼方は方が付いたようじゃから、そろそろ、此方の方も付けてしまおうかの」
その言葉に、部屋の中の空気が一気に重くなった。皆が恐れていた事が遂に行われるのだと、一瞬で認知されたからだ。
もしかしたらウィリアム王子のように、何らかの方法で処刑は免れるのでは、少なくとも今すぐの執行は無いだろうから、それまでになんとか考え直してもらえれば。等と考えていた者も少なからずいたようだが、容赦も躊躇も無い姫の前では、誰もそれを口にする事は無かった。
悔しげな顔をする者もいれば、下手に関わって矛先が自分に向いては敵わないとばかりに、俯いたまま顔を上げようとしない者まで、その反応は様々ではあったものの、香菜姫の行為自体を止めようとする者は一人として居ない。皆押し黙ったまま、事の成り行きを見守るばかりだ。
「さて、もらう首は三つじゃ。≪これ≫と、≪それ≫と、そして≪あれ≫じゃ」
≪これ≫、≪それ≫と王と第二王子を指差した後、≪あれ≫と言って香菜姫が指差した先にいたのは、王妃ではなく、今だ這いつくばった状態の側妃トリシャだった。
「ひっ…」
何とか顔を上げて周りの様子をうかがっていたトリシャは、突然我が身に降りかかった死刑宣告に、言葉にならない悲鳴をあげた。恐怖に目を見開きながら、必死にズリズリと後ずさり、なんとか逃れようとするが、そのような状態で逃げれるはずもない。
周王が前足をクルリと回すと、幾筋もの紐がうねるように側妃の身体や顔にまとわりつき、絡み取る。そのまま王達の横に、引きずり出されていた。
「おい、ちょっとまて!待ってくれ!まだ…」
「止めろ、死にたくない!何で兄上だけ助けるんだ!俺の母の首を取るなら、俺を助けるのが筋だろうが!今すぐ放せよ!」
「往生際が悪いの。それでも城の主とその息子か、情けない。周王!」
「あいな」
再び周王が前足を回すと、たちまち二人の口周りに幾重にも紐が巻き付き、喋れなくなる。
「妾は有無を言わさずこの世界に連れてこられたのじゃぞ?共に居た者達と、別れの言葉さえ交わせずにな。それに比べれば、其方達には十分な時間があったと思うがの」
そう言いながら、口をふさがれ転がされている三人の前に歩み出た香菜姫は、その顔を覗き込みながら、言葉をつづけた。
「しかも見ず知らずの場所に来た途端、そこの住人に、自分達では解決出来ぬ事を、お前がしろとまで言われたというのに」
「不躾ながら、香菜様、ウィリアム王子は貴女様にお願いしたのであって、決して命令したわけでは…」
少しでもとりなそうと考えたのであろう、ビートン騎士団長が香菜姫の言葉を訂正しようとするが、姫はその言葉をあざ笑う。
「はっ、戯けたことを。年端もいかぬ娘が見ず知らずの場所に連れてこられて、もう帰る事が叶わぬと言われたのじゃぞ。その様な状況で、保護を申し出る者の≪お願い≫とやらを断る事は、普通は出来ぬと思うがの。もしそのようなことが出来ると思うておるのなら、其方達は希に見る御目出度い頭の集団じゃな」
その言葉に、ビートンや部屋に居た者達は皆、黙り込むしかなかった。
「では、周王、華王、頼んだぞ。あぁ、ただし、床は汚さぬようにな」
「「畏まり!」」
「脱!」
崋王がポンッと前足を大きく打ち付けながら唱えると、その瞬間、王と第二王子、側室の身体が前に引き出される。同時に着ていた物が剥がされ、三人が下着姿になったかと思うと、
「斬!」「凍!」
周王と崋王が同時に声を発した。
ヒュンッと風が舞ったかと思うと、シャリリンッという音に続いて、ゴト、ゴッ、ゴトンッ。
三人の身体から首が落ちる。あまりにも呆気なく。しかしその切り口から血が吹き出す事はなく、何故かキラキラとしていた。重く沈んだ空気の中、多くの者がその切り口を見つめていたが、誰一人、そのことを問いただす者は居なかった。
香菜姫は三人の首が落ちた瞬間、潮が引くように一気に怒りが引いていったのが判った。それはまるで、今まで囂々と音を立てて燃え盛っていた炎が、急に静かな熾火になったような、ひどく不自然な感じであった。
(怒りが消えたわけでは無いが…この感じは、ひどく不愉快じゃの)
眉をひそめ、考え込む香菜姫に、困惑した声がかけられた。
「あの…香菜様、何故わたくしではなく…」
それは、たった今行われた惨劇から、目を逸らす事が出来ずにいる王妃のものだった。その顔色は青ざめており、もう動く事のない三人を見つめる目は、痛ましさに溢れている。しかし、その手は震えているにもかかわらず、しっかりと我が子の身体を抱えていた。
「謀られた時点で、貰う首の数は三つと決めておった。ただ、どちらを残すのが妾にとって有用か考えた場合、あれは役に立ちそうも無いゆえ、要らぬと判断した。じゃが、お主は使えそうじゃからの」
そう答えた香菜姫は、未だ王達の遺体を凝視したまま、動く事が出来ずにいる騎士団長に声をかけた。
「ビートンとやら。悪いが片付けておいてくれぬか。ただし、あれ等は凍っておるから直に触ると、凍傷になるので注意が必要じゃ。後、シャイラには頼みたいことがある故、そやつの事も頼みたい。寝所にでも運んでおくのが良かろう。今日はもう、動かさぬ方が良いじゃろうしの」
「…承知いたしました」
「心配するでない。妾を拐かしたことに関して、これ以上の対価を要求するつもりは無いわ」
そう言うと香菜姫は、不安げな視線を王妃に向けるビートン騎士団長に対し、さっさとウィリアムを引き受けるよう促す。騎士団長は何とか自力で立てるようになっていた王子を抱き起こすと、かろうじて壊れずに残っていた椅子の一つに腰かけさせた。
「シャイラ、嫌でなければ、案内を頼む。二、三、やっておきたいことがあるのでな」
そう言うと、まだ顔色の戻らない王妃を従えるようにして歩き出すが、扉の前まで来ると立ち止まり、振り向く。
「あぁ、その前にひとつ、面白い物を見せてやろうぞ」
そう言いながら、おもむろに懐から出した刃物で、見せつける様に己の腕の外側に傷をつけた。
その行為は、皆の驚愕の視線を集めると同時に、重苦しい空気に包まれた部屋の温度を、一気に凍り付かせた。
「うっ、つう!」
次の瞬間、ウィリアム王子が苦痛に顔をしかめ、腕を押さえる。その様を満足そうに見た香菜姫は、部屋の中の者達に笑みを向けながら、
「妾にもし傷をつけたらば、痛みは全てそやつに降りかかる。毒も又しかり。もがき苦しむのは、そやつじゃ。心せよ」
そう言ってくるりと向きを変えると、王妃を従え退室していった。
『ぱたん』、扉の閉まる音が響くと同時に、先ほどの言葉の意味なすところが、部屋の中に浸透していく。
≪王子は、聖女の人質にされた≫のだと………