三十七話 貞享三年(1686年) 其の八
「腹に赤子のいる女は動きが鈍い故、簡単に餌食にできよう。それに腹の子は身が柔こうて旨い。ましてや土御門家の赤子であれば、秘めた力も持っておるだろうから、それらを食らえば我が力はさらに強大なものとなろうぞ」
クックックと悦に入った笑い声がする中、友信は肘を使って何とか上体を起こした。バラバラになったこひるの着物の破片が風にあおられ、顔や肩にあたる。震える手を地面につき顔を上げると、宵闇の中、巨大な蜘蛛がその醜悪な全容を見せつけていた。
そこで友信は漸く、全てはこの化け物の策略で、『こひる』なんて者は存在しなかったのだと、頭では理解した。
しかし心はそう簡単に納得するはずもなく、出会ってからの事を事細かに思い起こしては、そんなはずはないと訴えていた。あの笑顔が、約束が嘘偽りとは思えない、化け物は自分を混乱させるために嘘をついているのだと。
その友信の前に、ばさりと何かが落とされた。
「おかしいと思わなかったか?あれは一度も狐の姿を、お前に見せなかったというのに」
そこに転がっていたのは、背の部分が裂けた狐の皮だった。かつては白く輝いていただろう毛皮は斑な灰色となり、額の花弁の形はかろうじて判別できるが、その色は薄茶色にしか見えない。それでも。
(こひる……)
友信は思わずそれに手を伸ばすが、
しゅるり。
化け物の尻から吐き出された糸の束が身体に巻きつき、ギリギリと締め上げながら持ち上げられた。
ぬらぬらと光る太く長い牙が目の前に迫ってくる。あれで身体が噛み砕かれると思うと全身が震え、何とか逃れようともがいてみるが、糸はびくともしない。友信の口は短い悲鳴を吐き続け、目は瞑る事さえ出来ずに牙を凝視する。
「案ずるな、まだ喰わん。人は不思議なほど子に害を加えるのを嫌がる者が多い故、盾に使う。その後はお前の願いを叶えてやろう。あの世で父親と存分に話すがいい」
更に糸が巻き付き、触肢に吊り下げられた友信は動けないまま、こひるの皮が化け物の脚に踏みにじられ、土に塗れるのを見るしか出来なかった。悔しさと不甲斐なさ、そして悲しみで涙が溢れる。
(…………)
「さて、せっかくの餌場だ。ゆっくり楽しまねばな」
大蜘蛛はそう言いながら、門の周りに多量の糸を吐き出し、塞ぎ始めた。
***
「結界に何か入り込んだ!今すぐ調べろ!」
屋敷内の結界に異変を感じた泰誠に命じられ、急ぎ様子を見に来た朱鉄をはじめとする護衛達は、目の前の光景に愕然としていた。
「これは…」
「蜘蛛の…化け物?!」
「くそっ、なんでこんな日に……」
十尺以上は優にあると思われる、巨大な蜘蛛の化け物が屋敷の敷地に入り込んだばかりか、修習生候補の子供を捕らえ、今にもその口に入れんとばかりに触肢にぶら下げていたからだ。
蜘蛛の糸によって幾重にも巻かれた子供の顔は蒼白で、頬や手からは血が流れている。
しかも門周りには既に蜘蛛の糸がべったりと張り付いて塞がれており、外に逃げたり助けを求めることは不可能に見えた。しかも糸で覆われる範囲は徐々に広がりを見せていた。見ると掌ぐらいの子蜘蛛が何十どころか何百匹といて、あらゆる場所で糸を吐き出していたからだ。
(なんて事だ!このままでは一刻も経たない内に、屋敷中が蜘蛛の巣になっちまう!)
「直ぐに泰誠様に知らせろ!敷地内に物の怪が浸入したと!」
朱鉄は声を張り上げ、中間や小物に指示を飛ばす。
「それと、智乃様と香菜姫様、泰連様を第一として、屋敷の者達を安全な場所へ避難させろ!」
「「はっ!」」
「クックッ、無駄じゃ。逃げ場は無いわ」
朱鉄の言葉を聞いた化け蜘蛛が、笑いながら更に糸を吐き出す。それば近くの建物の屋根に付き、その糸を子蜘蛛がシャカシャカと駆け上っていったかと思うと、屋根の上から一斉に糸を吐き出した。
「ここは既にわしの餌場じゃ。諦めて喰われよ」
「くっ、でかいとはいえ、たかが蜘蛛。俺が!」
朱鉄が止める間もなく、まだ年若い護衛が刀を抜いて飛び出すが、
「おや、活きのいい餌じゃ」
化け蜘蛛がそう言うと同時に、何本もの糸が吐き出され、護衛に襲いかかった。
「うわっ!」
瞬く間に刀を巻き取られ、腕や足に絡んだ糸に動きを封じられた護衛は、首に巻き付いた糸が苦しいのだろう。必死でもがいていたが、直ぐに動かなくなった。
「あぁ、しもうた。死んだら旨うない」
ゴミを捨てるように投げ捨てられた仲間の死体を見ながら、屋内へと退いた朱鉄が叫ぶ。
「良いか、絶対にむやみに突っ込むな!」
今、屋敷を守るために残っている護衛の者達はそれほど多くは無い。大祓の為に出掛けている陰陽師達の護衛として、結構な数が同行している事もあるが、元来、土御門家は幾重にも張られた結界に守られており、外からの侵入は困難な為、必要無いと見なされたからだ。
ただし、中の者が招き入れた場合は別だ。その場合、結界の効力は発揮されること無く、屋敷に入り込めてしまうのだ。
(恐らくあの小僧が、何らかの形で化け物を招き入れたに違いない。まだ建物の結界が効いているが、もし建物ごと結界が破壊されたら……)
***
「蜘蛛の化け物が屋敷に?!」
知らせを受けた泰誠の行動は早かった。
「松葉、楓、すぐ朱鉄の援護に向かえ!天文台横の通用口近くだ」
「「意のままに」」
走り去る神使達を見送ると、次に矢立を取り出し、鳥形の式に急ぎ要件と方角を書き記す。
(父上は今、紫宸殿前の南庭に居られるはず……)
「急々如律令、速伝言飛」
息を吹き掛け式を飛ばすと同時に、事態を確認するために、自身も通用口へと走った。その際居合わせた中間に、屋敷に残っている修習生や候補達を集めるように命じる。
しかし、通用口まであと一歩の所に出た瞬間、泰誠の足が止まった。化け蜘蛛の想像以上の大きさと悍ましさに、恐怖が一気に押し寄せて来たのだ。しかしそれを必死で押し退け、後退りしかけた足を踏み留まらせる。先に来ていた松葉と楓が主を守るよう、スッと前に出るのを見て、漸く声が出た。
「既に父上には知らせた。急ぎ戻られるだろうが、それまでは何としても守るぞ!」
朱鉄達に声をかけ、自らも結界の補強ために金剛軍荼利呪を唱える。
「オン キリキリ バザラ ウン ハッタ、オン キリキリ バザラ ウン ハッタ、オン キリキリ バザラ ウン ハッタ」
唱えながらも、泰誠の胸のうちの不安は更に大きくなっていった。いくらか神使持ちの次期当主と言えど、まだ十歳。護衛や中間に次々と命令を飛ばしているものの、それが本当に正しいのかさえ、判らないのだから。
(せめて父上の風華か流華のどちらかが、先に戻って来てくれれば、尋ねる事が出来るのだが!)
しかし、だからといって不安を顔に出すわけにはいかない。
(今ここは戦場で、大将は私だ)
更に真言を唱えようとした時。
「泰誠さま、連れて参りました!」
何事かと訝る修習生や候補を、中間が追い立てるようにしながら連れてきた。どうやら、なんの説明もなく集められたようだ。
おかげで、大蜘蛛を見た途端、逃げ出そうとしたり、中にはへたり込んで小便を漏らす者まで出る始末だ。
「既に出口は塞がれて逃げられん!死にたく無ければ、お前らも手伝え!幸い建物の結界は無事だ。少しでも術を使える者は真言を唱えて結界の強度を上げろ!そうでない者は、加護の真言を唱えろ!」
「「ど、どなたの真言を……」」
「誰でもいい!生き残りたかったら、知ってる限り、かたっぱしから唱えてろ!」
「「「は、はい!」」」
直ぐに修習生達の幾人かは、降三世明王の真言「オン ソンバ ニソンバ ウン バサラ ウン パッタ」や、金剛軍荼利呪を唱え出した。
そして候補達は、
「オ、オン アビラ ウンケン バザラダト バン 、「「オン アビラ ウンケン バザラダト バン、「「「オン アビラ ウンケン バザラダト バン」」」
一人が大日如来の真言を唱え始めると、次から次へと唱和するものが増え、あっという間に大合唱となっていった。
大日如来は「無限の慈悲」と「膨大な智慧」を併せ持つ根本仏で、その真言の効果は多肢にわたるが、浄化と退魔に効果が高い。それに、神力がさほど高くない者達でも、集団で思いを一つにして唱えたのが良かったのだろう。
その効果は直ぐに出た。屋根の上の子蜘蛛達がポロボロと落ちてきたのだ。
「よし、効いている。続けろ!」
泰誠が激を飛ばす。しかし、それは化け蜘蛛の怒りを一身に集める事になった。
「小癪な小僧め!まずはお前から喰うてやるわ!」
***
「姫様!今すぐ安全な場所へお逃げ下さい!」
普段は奥の間には入ってこない中間男が現れた為、驚いて声を上げる侍女達を制しながら、香菜姫が聞く。
「先程から屋敷の結界に異変を感じるが、何事じゃ」
「お屋敷の敷地に蜘蛛の化け物が入り込みました。それも、身の丈十尺以上あるばかでかい奴です!」
それを聞いた途端、なつめは座り込み、動けなくなってしまった。幼い頃から身体が大きく、男勝りな性格の彼女だが、何故か蜘蛛だけは昔から大の苦手だった。
小さいものならまだしも、親指の先程の大きさになるともうだめで、見ただけで飛び上がって逃げてしまう。それが、十尺以上もあると聞かされたのだ。想像しただけで腰が抜けたのだ。
香菜姫もさきも、なつめの蜘蛛嫌いは重々承知していたから、
「その方、すまぬが手を貸してくれ。さき、なつめを頼む!妾は……」
「姫様!」
その時、周王が姫の袖を強く引いた。均等を失い尻餅をつくが、その目の前を何かが飛んできた。
見ると、中間男の肩に小さな蜘蛛が乗っており、それが姫に向かって糸を飛ばしてきたのだ。更に糸を飛ばそうとするそれを
パシンッ!
華王が氷礫で払い潰す。中間男は己の失態に真っ青になっている。
「いったい、いつの間に……」
「動くでない。まだ居るやもしれん。周王、華王、この者の身体を調べよ!」
「「畏まり!」」
結果、更に二匹を叩き潰し、これ以上居ない事を確認した。
「母様と泰連には?」
「既に別の者が知らせに」
「判った。しかし既にこのような物が入り込んでおるのなら、ここは安全とは言えぬ。さきはこの者の手を借りて、なつめと皆を連れて権殿へ参れ。あそこは特別な術式で結界が張られておる。ただし、互いの身体や着物を調べて蜘蛛が付いていないか確認してから入るのじゃぞ」
さきは頷きながらも、心配げに、姫を見る。
「姫様はどうされるのですか?」
「妾は兄様の手伝いに行く」
「そんな!危のうございます。お止めください!」
「いいや。恐らく今この屋敷で動ける者の中では、妾が一番神力が高い。それに周王と華王は紋様持ちじゃし、先だっての修行で攻撃の術を習得しておる。ならば、父様が戻ってこられるまで、兄様を助け、屋敷を守るのは妾の務め。参るぞ、周王、華王」
「「あいな、姫様!」」
(だめだ、私がこんな事じゃ……)
大事な姫様が自ら化け物を何とかしようと走り去るのをみて、なつめは漸く己を取り戻していた。
そこで最初に思ったのは、香菜姫をなんとしてもお守りせねばという事だった。蜘蛛への恐怖が消えたわけではないが、それ以上に、今自分に出来ることを考え、行動しなければと思ったのだ。
そこであることを思いつく。それは子供の頃から常に蜘蛛に注意を払っていた自分だからこそ、気づいた事に思えた。
(あれのそばには、蜘蛛は巣を張らない……だから、あれを使えば、もしかしたら……)
なつめは覚束ない足取りで立ち上がると、中間男に先程の姫の指示通りに皆を避難させるよう頼み、さきの手を引いて、ある場所を目指して走り出した。
中間や小物とは公家、武家、寺家に仕えた従者のことです。
また、権殿とは社殿を造営・修理する間、神体を一時的に奉安する場所を言います。古い地図を見ると、土御門家には御本社の奥に、権殿も建てられていました。
ちなみに、蜘蛛の糸は防弾チョッキなどに使われるケブラー繊維と同程度の強度があると言われています。




