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三十四話 貞享三年(1686年) 其の五

 貞享三年 文月



 智乃は舞の稽古場で一人、正座していた。今日は三日に一度の稽古の休み日だという事もあるが、少し一人で考え事をしたいというのが本音だ。


 立秋りっしゅうを過ぎたとはいえ、陽射しはまだまだ強く、当分暑さは続きそうだが、稽古場の中には涼しい風が吹いている。

 その風に、変わらず甘やかしてくる存在を感じ、智乃の頬が緩む。


(妻となり、三人の子の母となった今でも、幼かったころと変わらず、このように甘やかして下さるとは……)


 そう思いながら、稽古場の北側にある神棚を見上げる。祀られているのは天満(てんまん)大自在天神(だいじざいてんじん)(菅原道真を神格化した呼称)のお神札のみだ。

 神棚をお祀りした当初は、神宮大麻と氏神様のお神札も共に祀ってあったものの、直ぐに灰となって床に落とされてしまったため、そのままになっている。

 そんなところにも執着や独占欲を感じるが、別に嫌ではない。



《紅に似ておる……》


 六歳の時。(かんなぎ)として初めて道真公にお声がけされた時に、言われた言葉がそれだった。紅とは、道真公の御息女・紅姫の事だと直ぐに判った。



 紅姫とその弟の隈麿は、父である道真公を慕うあまり、左遷先まで同行したという。しかし、公の死後、四国の長兄・菅原高視への密書を託された紅姫は、藤原氏の刺客の手によって非業の死を遂げていた。


 その紅姫に、智乃は似ていると言われたのだ。真偽の程は智乃には判らないが、公が娘の面影を己に見ているのは確かだった。なぜなら、《今後は(とと)様と呼べ》と、言われたのだから。



 智乃は物心付いた時には、既に巫と成る修行をしていた。親の顔は知らない。周りの者に己の出自を尋ねても、神力の高さを買われ、天満宮に引き取られたとしか聞かされなかった。

 ただ、誰も会いに来ず、文さえ何処からも届かない事から、何時しか自分は捨てられたのだと思うようになっていた。


(大方、どこぞの公家の息子と白拍子の間にでも出来た子なのだろう。そして邪魔だから、これ幸いと天満宮に押し付けたのだ)


 そう思っていた。だから道真公から父と呼べと言われたとき、驚くと同時に、胸の奥がこそばゆく感じた。嬉しかったのだ。


 それからは巫であり娘として、精一杯お仕えしようと決め、修行や稽古に励んだ。お陰で、京に於いて道真公の神事が行われる度に、智乃が呼ばれる事となった。それは巫の座を退いた今も、変わることなく続いている。



 そんな智乃が泰福(やすとみ)から婚姻の申し込みをされた時、誰もが土御門家は、道真公の怒りを買ったと信じて疑わなかった。しかし、それらの予測に反し、公はその申し込みを条件付きではあったが認め、今に至っている。


 もっとも智乃は、この婚姻は稲荷神ゆかりの土御門家だからこそ、許されたのだと知っていた。


 元々、道真公と稲荷神とは、関わりが深い。


 道真公の母の霊が、左遷された息子を心配し、伏見稲荷大社から稲荷神を大宰府の石穴神社に遣わした話は有名だ。その稲荷神は、道真の配所に稲穂を届け、公の飢えを救ったという。

 そして、非業の死を遂げた紅姫もまた、紅姫稲荷神社において、紅姫天王という稲荷神として祀られている。

 その為だろう。泰福が天満宮に対して、正式に婚姻の申し込みをしてきた際も、


()()には、何かと借りがある故……》


 そう呟いていたのを覚えている。もっとも、当時の土御門の屋敷の周辺には、降るように雷が落ちていたらしいが、それさえも、智乃にしてみれば気にかけてもらえている証でしかなく、嬉しく感じたものだ。



 そして今、自身が親となって判ったことが、幾つもある。その中でも子達への想いは、驚くほど強かった。とにかく可愛く、愛おしい。生意気を言う歳になろうと、それは変わる事は無かった。


 だが同時に、優しいとは言いがたいこの世を生き抜く強さを、教えなければと思い焦りもする。そのため、悦びと憂いという、相反する感情に揺さぶり続けられるのが、母というものかもしれないと、最近の智乃は思っていた。それでも。


 神棚に向かいゆっくりと頭を下げる。


稚児(ややこ)が出来たようです。父様には一等最初にお知らせをと思いましてございます」


 少し離れたところで、雷の音が聞こえた。




 *◇*◇*◇*




 母が体調を崩し寝込んでいるとの文が届いたため、友信は数日前から大和国高畠幸村にある生家へと戻っていた。ここでは次期当主である友信は、若様、若君と呼ばれ、下にも置かない扱いを受けるため、ここ最近溜まっていた鬱積も、少し減った気がしていた。


 母の具合も思っていたほど悪くはなく、快方に向かっているため、あと数日したら京へと戻るべきなのは、判っていた。


 戻る前に父の墓前に手を合わそうと、その日は朝から一人で菩提所へと出かけ、その帰り道の事だ。


(あそこへ戻るのか。そして又、あれを見せつけられるのだ……)


 そんな事をつらつらと考えながら、友信が歩いていると、


「主さま!」


 そう呼び掛ける声が聞こえると同時に、何者かに後ろから抱きつかれた。


(なっ!?)


 柔らかな物が両肩にあたり、抱きついて来た者が女だと、それも自分より歳かさで、背も高い事が判った。それにふんわりと甘い匂いが鼻をくすぐり、友信の鼓動が一気に速まる。


 しかも相手の顎が、頭に乗せられたのが判った。肩に当たっているものが、一層きつく押し当てられたせいで、更に鼓動が早くなり、顔が火照る。しかし。


「あらっ?主さま、縮みました?」


 その言葉に我に返った友信は、急いで相手を振り解いた。


「ちっ、違う!俺はお前の主などてはない!」


「あ……でもこの気は確かに……」


 友信が振り返った先にいたのは、見たところ二十歳を少しばかり過ぎたと思われる女だった。色が白く、儚げな雰囲気の美人ではあるが、人では無いのは明らかだった。髪色は黒いが、黄褐色の瞳の瞳孔は、猫のそれのように細長で、何よりその額には、薄紅色をした花弁型の印があった。


「印持ち? 何処の者だ、お前」


 怪訝な顔をして尋ねる友信に、女は少し驚いたようだったが、直ぐに笑みを浮かべ、


「あぁ。少なくとも、私がどういう者か判るお方なのですね。この辺りなら、幸徳井家の縁の方でしょうか?お名前をお伺いしても?」


「友信だが……」


「では、友信様。この度は失礼をいたしました。あまりに主と似た気をお持ちでしてので。それと、何者かと聞かれましても……そうですねぇ。しいて言えば、かつて『こひる』と呼ばれていた者、でしょうか……」


 もっとも、我が名を呼んでくださる方を失ってから、随分と時が経ちましたけどと、寂しげに笑いながら答えてきた。


(主を亡くした神使ということか?だが、そのような者が居るなどと、聞いたことが無い。もしや、野狐にでも騙されているのでは?)


 そんな疑いを持ったものの、口には出さず、友信は屋敷へと戻る道すがら、相手の話を聞くことにした。


 それによると、こひるは元々は、『はやて』という名の者と共に、若い主に使えていたという。しかし、その主が急な病に倒れ、そのまま身罷ったらしい。


「その時すぐさま、はやてと共に仙界へと戻れば良かったんでしょうが……」


 主と過ごした地を離れがたく、一人でぐずぐずしている間に、月日がたってしまったのだという。


「時々、魂呼(こんこ)の術をつかい、主様とお話ししたりしながら、長い間、ふらふらとしておりました。けれどいつしか、お呼びしても答えて下さらなくなっていて……。それに、今となっては、仙界へと帰る術さえ判らない有様で…」


 そう言いながら、友信をじっと見つめた。その視線が気恥ずかしく、顔を背けると、


「こひるの主の名は何というのだ。もしかしたら墓の有る寺が判るかも知れない。もし、墓前に参りたいのなら、俺が調べてやっても良いが」


「お願いしてもよろしいのですか?ありがとうございます」


 ならばとこひるが口にしたのは、勘解由小路(かでのこうじ)在高(あきたか)という名だった。勘解由小路(かでのこうじ)は、賀茂氏の嫡流の名だ。


 その時点で、こひるへの疑いが少し薄れた。結局屋敷の門前で、明日同じ時刻に会う約束をして別れたのだが、友信の頭の中は、いろんな疑問といくらかの期待で膨れ上がっていた。


 調べてみると、賀茂氏の系図の中に、確かにその名はあった。勘解由小路家に養子として入った人物だが、元は土御門家の出で、神使として『こひる』と『はやて』の名も記されている。


(土御門家の者だったか。なら、神使を賜っているのも、納得だ)

 

 こひるの話の信憑性が更に高まる。だが在高は天正3年(1575年)に二十三歳で亡くなっており、それから既に百年以上たっていた。


(ならば、こひるは百年もの間、この地を彷徨っていた事になる。そんなことがあり得るのだろうか。だが、これを見る限りでは、話に偽りは無さそうだ。それにもし本当に主を失った神使だとしたら、俺が新しい主に成れば良いのでは……)


 印付きの神使の主となる。それは今の友信にとって、あまりにも魅力的な考えだった。それに、魂呼の術と言うのも、気になっていた。こひるの口ぶりから、死んだ者との対話が出来る術のように聞こえたからだ。


(それを使えば、父上と話ができるのではないか……)


 そう思うと、居ても立っても居られず、出来るだけ早くこひるに会いたいと思うようになっていた。その時点で友信は、抱いていたこひるへの疑いを、すっかり手放していた。


 翌日、朝から友信は墓のある寺の詳しい場所などを調べながらも、落ち着かず、ようやく待ち合わせの時間となると、急いで目当ての場所へと走って向かった。昨日別れたのと同じ場所で待つこひるの姿を見て、ようやく落ち着き、そこからは歩いて傍へと向かう。


「どうやら、京の勝持(しょうじ)寺に墓があるようだ。俺は後二日ほどしたら京へと戻るから、その時に一緒に行くか?なんなら、案内するぞ」


 主になる術を探りたい友信は、こひるに恩を売るためにも、同行を承諾して欲しいのだが、そんな思いを隠して伝える。


「本当に?では、お願いします!」


「しかしその目は些か目立つ。できれば頭巾かなにか……」


「なら、袖頭巾を被ります。あれなら、直ぐに用意が出来ますので」


「では、二日後の明けの六つに、屋敷の前で待っていてくれ」


(よし!これで、上手くやれば……)

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