三十三話 貞享三年(1686年) 其の四
貞享三年 水無月
香菜姫が神使を賜ってから十日ほど立つが、今日も姫の部屋の周りは賑やかだった。
好奇心旺盛な神使の子狐達は、人の世界の物が珍しいのだろう。何にでも興味を示し、その度に姫に質問していた。
「これは何でありもすか?」
「姫様、これは何に使うでありもす?」
「何か音がしておりもす!あれは!!」
その度に己の知識で可能な限り、姫は丁寧に答えていたのだが。
「姫様、これは何でありもすか?」
「あっ、もう無い!さき、我のは?」
もぐもぐと口を動かしながら聞いてくる華王を見て、周王が慌てて華王の前の皿を覗き込み、騒ぎ出す。
どうやら少し部屋を空けていた間に、用意されたおやつを華王が平らげてしまったようだ。
「……おそらくじゃが、みたらし団子じゃ。すでに全部華王の口の中ゆえ、断言は出来んがの」
皿の上に転がった二本の串を見て呆れ顔の香菜姫の横で、さきがくすくすと笑いながら、団子が二串載った皿を二枚差し出す。
「お二方の分は、こちらにちゃんとご用意しておりますよ、ささ、どうぞ」
本来、神使達は食物を食べる必要はないのだが、子狐達は、さきの作るおやつがたいそう気に入っており、稽古後のこの時間を楽しみにしている。
今日は次郎爺の習字の稽古だったのだが、うっかり飛ばした墨が周王の尻尾に付いてしまったため、姫は周王を抱えたなつめを伴って洗い場へと向かい、戻ってきたところだった。
「華王よ。次からは妾が戻って来るまで、食すのは待っておれ。周王も、そう騒ぐでない」
言いながら、姫は自分の前に一皿置いた後、もう一皿を周王の前へと置いてやる。周王は嬉しげに鼻をすんすんいわせながら匂いを嗅ぐと、串にかぶりついた。
「なんとも芳ばしい。これはしょゆうか?」
「ご名答です」
「まぁ、普通は醤油だけじゃが、さきの団子には味醂も使われておっての。ほんのり甘いのじゃ」
少し焦げた醤油の香りと塩味に、味醂の甘味が合わさり、絶妙な味に仕上がっている団子を、姫も堪能する。
「ほぅ。やはり我が姫様は物知りでありもす」
感心する華王に、周王もうんうんと頷いて同意を示す。団子は既に二串分、全て口の中だ。そして、揃って姫の皿に残った一串を見つめている。
これまでも、子狐達に可愛くねだられると、ついつい己の分を分け与えていた香菜姫だが、まだ一串しか食べておらず、少し食べ足りない。どうしたものかと考えていると、書庫に教本を片付けに行っていた次郎爺が戻って来た。すると、なつめがお茶と団子の皿を乗せた盆を運ぶのが見えたのだろう。子狐達の注意がそちらに移った。
(今のうちじゃ)
すかさず残っていた串を手に取った姫は、五つ刺してある団子の内、三つまでを腹に収めることに成功した。そして、残った二つの団子を、それぞれの皿に入れてやる。
主に分けてもらえた事で、納得いったのだろう。子狐達は、それぞれの皿に置かれた団子を嬉しそうにほおばった。
そして食べ終ると、なつめお手製の座布団へと移動していった。これは、香菜姫の古い着物をほどいて仕立て直した物で、その中に詰めてあるのは、座布団にしては珍しく、大半がそば殻だ。
子狐達は、動くとギシャギシャいう座布団の上で寝転びながら、
「我は草餅が最良かと」
「我はおはぎこそが、最適かと!」
「蒸し羊羹も好いぞ。甘葛の甘みと小豆の風味がえもいえん」
次回のおやつを何にするかで、次郎爺と談義をはじめた。
***
「今日は暑いので、葛餅にしてみました」
風を通すために、打ち水をした庭に面した障子を開け放った部屋に運ばれてきたのは、半透明の葛に中の餡が透けて見え、涼し気な餅が二つ載った皿だ。
さきが皆の前に皿を置くと、お茶も冷ました物にしましたと、なつめが香菜姫と次郎爺に茶碗の載った皿を盆を差し出す
「これは良いの。つるんと飲めもす!」
「冷たくて、もっちりしておりもす!」
今日のおやつも、早々に食べ終わったところを見ると、子狐達の評判は上々のようだ。その様子を見ながら、弾力のある葛餅を黒文字で押しつぶすように切り分け、口に運んでいた姫だが、ふと、前から気になっていた事を周王達に聞く事にした。
「そういえば、阿古町様から、周王と華王は仙界で修業をしておったと聞いたのじゃが、どのような事をしておったのじゃ?」
「よくぞ聞いて下された!我は浮かんでおりもした!」
「我は潜っておりもした!」
ほれ、このようにと周王がふよふよと浮かんで見せると、華王が庭に飛び出て、ずもももと地面に潜る。しかも、顔だけを出した状態で、すいすいと地面を泳ぐように移動しはじめた。
「どちらも、すごいの。仙界では、そのような事を習うのか」
感心した次郎爺が手を叩き、誉める。すると子狐達は興に乗り、
「他にも色々出来もする!」
「広い所でお見せいたしもす!」
そう言うので、皆で庭の方へと移動する。
「見ててくだされ!」
「ほれ、このように!」
周王が庭の隅に置かれていた荒縄を、するすると屋根の上まで伸ばして見せると、華王は子供の頭ほどもある水の球を三つほど、宙に浮かべてみせた。
そこへ兄・泰誠が、他の修習生候補達と共に通りかかった。
「すごいな、香菜の神使は。このような事が出来るのか!」
「妾もたった今、知りもうした。兄様は、これから稽古ですか?」
「あぁ、今日は漏刻の管理・監督の仕方を教わるのだ。先だって、新しく作り直した物のお披露目も兼ねておる」
土御門家では、常に二台以上の漏刻を管理しており、日時計と併用して、常に誤差無く時刻が計れるようにしている。だが、これは昼夜問わずの作業で、なかなか大変なものだという。
すると、漏刻という聞いたことの無い物の名に、すぐさま子狐達が反応した。
「漏刻とは何でありもす?」
「姫様、我も見とうござりもす!」
その声に、『松葉』と『楓』が兄の後ろからヒョコリと顔を出す。周王達より一回り大きい彼らはどちらも『色持ち』で、額の中心部から両耳にかけての毛に、うっすらと色が付いている。『松葉』は若緑色で、『楓』は浅緋色だ。
「周王、華王。我が儘は駄目。我らは仕える身」
松葉が諌める様に言い、
「それにお稽古の邪魔も駄目」
楓も注意する。どちらも静かな物言いだが、その顔は普段見かける穏やかのものではなく、真面目そのものだ。おまけに、
「香菜。可愛いのは判るが、きちんと教え導くのも又、主の務めだ。甘やかすばかりでは主従として示しがつかん」
香菜姫自身も兄から注意を受ける事になった。確かに、名付けの儀からずっと、可愛がり続けている自覚はあった。ただそれには、最初の一月は仲良くなる事が大事だと、父から言われたという理由があったのだ。しかし。
(確かにの。仲良くなるのと、我が儘を聞いたり、甘やかすのは別のものじゃ)
そう思ったので、素直に頭を下げる。
「ほう、泰誠様、随分と成長されましたな」
「次郎爺か。兄として、手本となろうとしておるだけだ」
些かしかめっ面をしながらも、泰誠が答える。一方、次郎爺は、なんだか可笑しげにしている。
「もちろん判っておりますとも」
そう言って笑った次郎爺が、後から香菜姫にこっそり教えてくれたのだが、実は泰誠が神使を賜った直後は、今の姫以上に神使達に甘かったらしい。
請われるままにおやつを与え、連れ歩いた挙句、漏刻を見に連れて行った際に、松葉が最下段の水槽に落ちて漏箭(目盛り付きの矢)をへし折るという失敗を仕出かしたという。
その結果、泰誠は父から、松葉と楓は風華と流華から、こっ酷く叱られる事になったようだ。
(なるほどの。あれはどちらも、自身の失敗を踏まえての事じゃったか)
立ち去った時の兄の顔を思い出しながら、己と子狐達の主従としての関係を、姫なりに考えていた。
*◇*◇*◇*
(紋様付きだった!)
先刻見た光景を思い出し、友信の胸の内は妬ましさと腹立たしさで一杯となっていた。自室の真ん中に座り込み、両の拳を握りしめながら、ギリギリと歯噛みする。
自室といっても、修習生候補のために用意された部屋で、板張りの一間四方の粗末な物だ。通いで来れるほど家が近場にある者を除くと、修習生候補たちは皆、同じ間取りの部屋に住んでいた。一応、長持と文机は置かれているが、そのせいで、布団を敷くと歩く場も無くなる程の狭さだ。
床は、自前で畳を敷くことが認められていたため、友信の部屋も畳敷きとなっているが、快適とは程遠い。しかも壁は板一枚で仕切ってあるだけなので、隣の部屋の音など筒抜けだった。
だからこそ、友信は喚きたいのを奥歯を噛みしめて、必死で堪えていた。ここで屋敷の姫に対する暴言を叫んでいたと知られれば、己の立場が悪くなるのは確実だからだ。
阿古町が特別な神使をと言っていたものの、所詮は女児。せいぜい『印持ち』の直ぐ下の、『色持ち』程度だと、友信は思っていたのだ。それでも十分に過分な物だと。しかし。
(あれほどくっきりとした『紋様付き』は、阿古町様が引き連れている眷属達の中でも、最前列を陣取る者達ぐらいだ……)
なんせ、土御門家の当主である泰福の神使でさえ『印付き』なのだ。
(それをあんな子供が。しかも、陰陽師にもなれない女が!)
ドンッ!
両の拳を畳に打つ付ける。
「うるさいぞ!」
隣の部屋の候補性が怒鳴る声が聞こえたが、それさえ香菜姫への腹立ちを増幅させた。
板張りの狭い部屋も、己の今の境遇も、ある程度は仕方がないと許容してきた。だが。
(あれほどの神使、あれでは宝の持ち腐れではないか!そもそも陰陽師に仕えてこそ、神使はその力量を発揮出来ると云うのに。それを、あんな猫可愛がりするしか能の無い小娘が!)
この時代の御手洗団子は、今のような甘辛いタレでは無く、醤油が塗られていました。飛騨の御手洗団子は今も、この醤油ダレです。
また、砂糖は輸入量が増えてはいましたが、まだまだ高級品で、一般的な甘みとしては、水飴(麦芽糖含む)、甘糀、白味噌、煮詰めたみりんなどが使われていたようです。特に水飴は『日本書紀』にも記されるほど、甘未としては歴史が古い物です。
作中に出て来る甘葛は、平安の頃から高貴な甘味料として度々文献に登場しますが、今では何からどのように作られ、どんな味だったのかは不明です。ただ近年は、再現を試みようと実験等が行われているようです。
漏刻に関しては、失われた、存在していた等、諸説ありますが、土御門家に代々伝わった物が在ると仮定して書いております。
実際には、香菜姫の弟設定の泰邦君が、勅命で復元を試みたが上手くいかなかったと記した書物があるようです。




