三十二話 貞享三年(1686年) 其の三
「主よ。命婦様は三日後、香菜殿の神使と共に参られるとのこと」
額に水色で雫型の印を持つ風華が泰福に阿古町の言葉の半分を告げ、
「しかと準備をしておくように、との伝言を賜っております」
残りを濃い青で丸型の印を持つ流華が告げる。
「承知した。ところで香菜が賜る神使達だが、お主等の目から見てどのような者達だ?」
「……まだ幼いですが、どちらも『紋様持ち』です。しかも一方は風と火を、もう一方は水と植物を操る二属使い。おそらく十年もせぬうちに、神狐となれる者達かと」
少しばかり悔しげに、風華が答える。風華と流華は『印持ち』で、気狐の中では上位となるが、『紋様持ち』は最上位だ。更に二種の力を操れるとなると、ほぼ神狐の領域に達している。
「なんと、それほどか……」
「それだけ葛の葉様は、香菜殿を大事に思うておられるのでしょう」
流華の言葉に泰福は溜め息をついた。強い神力は、それだけで多くの者の耳目を集める。それは人だけではなく、神や妖呼ばれる者達も含まれていた。
香菜姫も、生まれる前からその神力の高さが推し量れたため、心配した葛の葉の計らいで、屋敷の回りには新たな結界が設けられた。まだ生まれてもいない赤子を、他の神々からの余計な干渉から守るためにだ。
神々は時に、異様なまでに人に執着する。
現に妻・智乃は未だに道真公の御霊の寵愛を賜っており、公の権能の一つである雷を操る力によって、守護されている。その為か智乃が機嫌を悪くしたり、ひどく体調を損ねると、必ず暗雲が立ち込め、雷が落ちた。
それ故、泰福が智乃との婚姻を結ぶにあたっては、朝廷と天満宮の両方から様々な条件が出される事になったが、最も念を押されたのは、智乃が京から出ることを禁ずるというものだった。
未だに道真公の祟りを恐れる天皇家は公のお気に入りの巫を、その座を退いた後もなお、目の届く場所に据え置く事で、機嫌を損ねぬようにしておきたかったのだろう。
もっとも、婚姻を申し込んだ時点で屋敷の回りには、かなりの数の雷が落ちてはいたのだ。幸いにも屋敷に張り巡らせていた結界のお陰か、被害は出ることはなかったが。
おそらくだが、道真公は稲荷神様と縁の深い土御門家に、害をなす気は無かったのだろうと、泰福は思っていた。何故なら屋敷の周りに盛大に雷が落ちたにもかかわらず、火事も起こらず、領地の作物への被害もほとんど無かったからだ。
(そう言えば、あの年は、我が領は椎茸が豊作だったな……)
十年以上も前の話だが、今もなお語り草になるほどの大量の椎茸が収穫されたのだ。特に家人が裏山と呼ぶ場所では大豊作で、役人を立たせて近場の村民達に収穫させたのだが、その一部を持ち帰れるようにした事もあり、大層喜ばれたのを記憶している。
(おかげで、暫くは進物には苦労せなんだし)
もしかすると、あれは道真公からの祝儀であったのかもしれないと束の間思うが、さすがにそれは無かろう、馬鹿げた考えだと振り払う。
(それより今は香菜の事だ。先行きの数奇な物というのも、おそらくは、どこぞの神に見初められるか、もしくは大妖に目を付けられるかの、どちらかであろう)
どちらにしても、人が対峙するにはあまりにも大きな存在故に、その事に関しては主祭神様達に頼るしかないのは、泰福も重々承知している。ただ親としては、その時に娘が困らぬよう、できる限りの事をしてやるしかないのだと腹をくくる。
(それにしても、どうやら用意していた名では器が小さいようだ。もっと大きな器の名でないと、その成長を妨げてしまうやもしれん。それに、できれば家紋である揚羽蝶との相性の良い名にしたいが……)
泰福は矢立を取り出し巻紙を広げると、そのまま瞑目した。
(風と炎……水と植物……そして羽ばたく蝶……)
思索の深淵へと沈みこむ。長い時間そのままだったが、やがて目を開けると、巻紙に新たな名を二つ、書き記した。
三日後。
屋敷の奥にある御本社と呼ばれる社殿では、早朝から女中達を動員して祭壇が組まれ、供え物が幾つも並べられていた。香菜姫も、さきとなつめの手を借りて、既に白衣と白の切り袴姿となっている。
(うぅっ、緊張で心の臓がバクバクいっておる……)
祭壇の側に用意された腰掛けに座っていても、尻の辺りがどうもモゾモゾとして、落ち着かない。この二日間、母・智乃によって作法や祝詞は徹底的に仕込まれてはいたが、やはり緊張せずにはいられなかった。
すぐ横に座る、全て白の浄衣を纏った父・泰福の泰然とした様子を見ても、落ち着くどころか、かえって緊張が高まる気がしてならない。
やがて辺りに霞が立ち込めたかと思うと、阿古町が眷属達を引き連れて現れた。今日は最初から人の姿をとっている。
その場に居た者が皆一斉に平服し、泰福が口上を述べた。
「命婦様におかれましては、此度のご来訪、誠にありがたく存じます。この泰福 、屋敷の主として、心から感謝の意を申し上げます。又、我が娘・香菜に対する過分なまでのご配慮、御身に感謝し奉ります」
「ふふっ。待たせてしもうたかの。なにぶん仙界とこちらでは時の流れが違うゆえ、中々思うたようには行かんでの。ほれ、其方達、前へ出ぬか!」
阿古町に促され、眷属達に押されるようにして、二匹の子狐が転がり出てきた。
「キュンッ」「キュウ」
どちらもまだ子狐特有のふわふわとした毛並みをしており、一方には薄藍色の花の紋様が、もう一方には紅赤色の炎の紋様が、額の部分にあった。
気狐の中でも力の強い者は、その額に印をもっているが、その大半は使える力の属性の色が小さく印される程度だ。このようなくっきりとした紋様が印されている時点で、この者達の力の強さは明らかだ。
「先だって、伝えておった者達じゃ。これらは葛の葉の一族の者での。まだ気狐じゃが、妾から見ても中々に筋が良い故、有望ぞ。花の紋のあるのは、水と植物を操る能力に長けており、炎の紋は、風と炎を操れる。泰福、名は考えてあろうな」
「はい。ひどく勘案いたしましたが」
(妾のお狐が、炎の子とお花の子とは!しかも、なんと愛いのじゃろう。それに尻尾なぞ、ふわふわしておる!)
先程迄の緊張はどこへやら、己が賜る狐達の愛らしさに香菜姫が惚けていると、「こほんっ」と、注意を促す咳払いが聞こえた。
(はっ、いかん!惚けている場合では無いわ。しゃんとせねば!)
慌てて居住まいを正すものの、母の圧のある視線を後頭部に感じ、しまったと思う。
(これは、後でお説教じゃな……)
そっと目線をあげると、少しばかり呆れた様子の父と目が合った。
「では、香菜。早速だが、名付けの儀式に取りかかるよう。こちらが名だ」
「賜りました!」
父から折り畳たまれた紙を渡された姫は、それを恭しく受け取ると懐へと仕舞う。
神使は、正式に名を与えられると、与えた者を主とし、その主が死ぬまで忠実に仕える事になるのだ。その為、名付けの儀式は神聖で、重要な物とされている。
あらかじめ井戸から陶器の器に汲み置かれた水に、泰福が浄化の為の真言を唱え、その水で、香菜姫は手と口を清めた。その後、祭壇の手前で膝をつくと、そのまま前まで躙り進む。祭壇の前まで来た時点で正座となり、まずは深々と二礼した後、稲荷大神秘文を奏上する。
「夫神は 唯一にして御形なし 虚にして霊有
天地開闢て此方 国常立尊を 拝し奉れば
天に次玉 地に次玉 人に次玉 豊受の神の流れを…………
……稲荷秘文 慎み白す」
全てを唱え終わると、再び二礼し、柏手を二回打つ。その後さらに一礼をした後、命名の儀へと移る。父から渡された紙を広げると、二礼した後に読み上げていった。
「我、土御門家が娘、香菜と申しますれば。これより命婦様より譲られし、二体の神使への命名の儀、執り行い申し白す。
炎を抱けし者の名は、周王と致す所存なり。その名に込めし思いとは、世を余す事なく吹き巡り、留まる事なき風、統べる者。悪しきを滅する炎を抱き、我の飛翔を助けんがため、終生我に使えたまえ。
花を抱けし者の名は、崋王と致す所存なり。その名に込めし思いとは、冷たき冬さえ恐れずに、芽吹き綻ぶ花、統べる者。流れる水の強さを持って、我の飛躍の助けとなるよう、終生我に使えたまえ」
読み終えると、祭壇の前に用意されていた杯に御神酒を注ぎ、横に置かれていた懐剣で指先に傷を作ると、滲み出た血を杯に数滴落とす。それを恭しく頭上に掲げたのち、子狐達の前へと置いた。
そろりと寄ってきた子狐達が、香菜姫の血の混じった御神酒を舐めると、途端に姫と子狐達の身体が白い光に包まれる。その光の中で、香菜姫は身体の芯が熱くなり、何かが強固に結びつけられた事を感じ取った。子狐達との強い繋がりを感じる。
(此れで、ほんに妾のお狐となった!)
香菜姫の胸は喜びで一杯になる。しかし、命名の儀はまだ終わっていない。最後の言葉が残っているのだ。姫は再び祭壇へと向き直り、
「稲荷神様の厚き御恵を、誠の道に違ふことなく、尽くさしめ給えますと共に、命名の儀の完了いたせし事を畏み畏みも白す」
その後、二礼して柏手を二回打ち、最後にもう一度深く礼をとった。これですべて終了だ。ほっと安堵の息をつくと、すかさず
「我は華王となりもした。主様にご挨拶、申し上げます!」
花紋様の子狐が飛び付いてきた。すると。
「何を言うか、我が先じゃ!我は周王となりもした。主様にご挨拶を!」
炎の紋様の子狐もあわてて側に来て、抱っこされんとばかりに、姫の腕の中へと飛び込んできた。
(あっ、ふわふわじゃ)
「「姫様、此度は名付けの儀、ありがたく存じもす!」」
「妾の名は香菜じゃ。周王に華王、宜しく頼むぞ」
「「畏まり!」」
二匹の子狐を抱えて笑う香菜姫を泰福が眺めていると、阿古町が音もなく側により、声をかけてきた。
「それにしても、周王に華王とは。また、ずいぶんと大きな名を付けたものよの、泰福」
「それだけの者達だと思いました故」
頭を下げながら答える。
(あの者達がその名に見合う成長を遂げたらば、我が娘の大きな助けになろう。さすればこの後待つ定めとやらも、少しは優しいものとなってくれよう……)
この時代、椎茸はその大半が干し椎茸に加工して保存、利用されていました。元々、弘法大師が唐から持ち帰ったと言われる干し椎茸の食文化ですが、永平寺の開祖である道元禅師の箸「典座教訓(1237年)」(典座とは食事係の事)に出てくる以外は、文献などへの出番はあまりないのです。しかし、実はいろんな場所で栽培・加工されていて、主に唐に輸出されていました。当然ながら、高級品扱いです。
実際庶民にの口に入るようになったのは、人口栽培の方法が広まった江戸初期からですが、それでも高級食材でした。その人工栽培開発に関しても諸説ありますが、一番有名なのは『炭焼き・源兵衛』説です。
また、椎茸と雷の関係性に関しては、「雷が落ちるとキノコが育つ」という言い伝えに准えたものです。唯、この言い伝えは最近の実験結果から、事実だとされています。




