三十一話 貞享三年(1686年) 其の二
その質問に阿古町は、ゆるりと首を降る。
「主祭神様も、詳しい事はお判りではないご様子であった。妾程度では、想像もつかぬ。じゃが、そうじゃの。妾が出来る事として、香菜には特別な神使を授けようと思うておる。今丁度、修行に出ておるが、戻り次第こちらに寄越すとしょう」
「お心遣い、痛み入ります」
その言葉に安堵したのだろう。少しばかり顔色の戻った智乃が礼を述べるが、当の姫は、
(なんと、妾のお狐とな!どんな子達であろう。仲良くなれるじゃろうか……抱っことかしても、嫌かられんかの。尻尾も触ってみたいが……さすがに其れは無理かもしれんの。じゃが、出来れば一緒に散歩したり、おやつを食べたりしたいのう。あぁ、ほんに楽しみじゃ!)
神使を賜れると聞いて、浮かれた妄想に浸っていた。それを見た智乃が、横からごんっ、と肘鉄を飛ばす。
はっと我に返った姫が横を見れば、般若の形相の母の口が、声にせぬまま(お・れ・い!)と動いていた。慌てて再度平伏しながら、阿古町への謝辞を述べる。
「此度の命婦様の過分な迄のご配慮、痛み入りましてございます。この土御門 香菜、慎んで賜りたく存じます。ふつつか者ですが、今後とも…」
ぱしんっ!
「いっつ」
今度は目にも止まらぬ速さで、檜扇ぎで尻を叩かれた。そろりと横を見れば、又しても般若顔の母の口が、(いらぬことまで申すでない!)と、動いていた。その間も、ゴロゴロと雷の音が近づき、黒雲が辺りを覆い始める。
その様子を興味深げに見ていた阿古町だが、これ以上の長居は無用と判断したのだろう。泰福に、
「此方の準備が整い次第、其方の神使に伝えるゆえ、そう心得ておくよう」
そう言い置くと、霞と共に消え失せた。
霞の最後の一筋が消えるのと同時に、がばりと起き上がった香菜姫は、目を輝かせながら父の方を向くと、勝ち誇ったように、にんまりと笑う。
「父様、命婦様がお許し下さりました!」
一方、泰福は苦虫を噛み潰したような顔をしながらも、
「あぁもう、とりあえずだぞ!そのかわり、巫の修業も怠るでないぞ。でないと、わしが智乃に叱られる」
「あい、判りもした!」
(さすがの父様も、母様には頭が上がらんようじゃな。じゃが此れでもう、梯子の世話にはならずに済むの)
しかし、姫が浮かれていられたのも、この時迄だった。
「では、まずは習字と算盤の稽古を増やす所からだ。これまでの稽古程度では、到底足らぬからな。早速明日から始めるとしよう」
「えっ?父様、命婦様は陰陽術をと……」
「だからこそじゃ。陰陽術の基礎の基礎が算術と文字だ。その二つがなければ、術を正しく使うことは叶わぬ。明日からみっちり鍛えるよう、講師役の者に伝えておく。それがある程度進んだら、天文道と暦道の基礎に進む。わしが術を教えるのは、その後だ!」
直ぐにでも呪文や式の扱いを教えてもらえると思っていた香菜姫が唖然としていると、兄の泰誠がポンと肩を叩いてきた。
「香菜よ。式を思った場所に飛ばす為には、地図と算術を使って距離を測り、それをきちんと文字に起こさねば、飛んではくれんのだ。それに、天の理、地の理を知り、神仏の御名や真言の持つ意味をきちんと理解して書く文字があってこそ、術はその力を正しく発揮する。何事も基礎は大事ぞ」
まぁ、頑張れと言いながら、他の修習生候補達と共に修練場へと戻って行った。そんな兄の後ろを歩く候補生の内の何人かが、チラチラとこちらを見ていて、その中には些か険悪な雰囲気を含む視線も含まれていることに姫は気づいた。
しかし、大粒の雨がぽたぽたと落ちてきたため急いで屋内に入ったことと、その直後に智乃によって舞の稽古場へと引っ立てられて行ったため、その事は記憶からすり抜けていった。
翌日、香菜姫の元を訪れたのは、三日に一度算盤を教えてくれている元・使部(雑役の下級役人)の権左爺だけではなく、倉橋と名乗る天文得業生(特待生)も一緒だった。
倉橋は折り畳んだ布と、小さな文箱のような物を手にしており、それらは算盤と算木だというという。
倉橋曰く、姫はまずは算木の並べ方を覚えなければならないらしい。しかも、算木で四則演算が出来るようになれば、次に開平、開立などの計算に進むという。
(か、開平?開立?なんじゃ、其れは……)
香菜姫とて、九九や算盤を使った簡単な計算程度ならば問題なくこなせるが、どうやら求められているのは、其れ以上のものだと気付いて、頭を抱える事になった。
倉橋が楽しげに格子の書かれた布を広げ、その横に赤と黒に塗り分けられた算木を並べる。
「では、まずは算木を使った、数の表し方からです。方法は二通りありますが…………」
結局この日は鐘二つ分の時間をかけて、算木を使った足し算と引き算を覚える事に終始する事となった。
「算盤はまだしも、算木は扱いがよう判らん。第一、『負』とはなんじゃ?無いものから、更にどうやって引くというのじゃ?兄上は得意じゃと倉橋殿は言うておられたが、本当であろうか。じゃとしたら、余程の物好きとしか思えんの……」
くたびれ切った香菜姫が、文机の上にデロンと上体を預けて、ぶちぶちと愚痴を溢していると、さきがお茶と草餅を差し出しながら、お疲れさまと労ってくれる。
「泰誠様は天文が殊更お好きなようですからねぇ。算学も、候補生達の中では一番お出来になるとか」
おっとりとした口調で話すさきに、側で針仕事をしていたなつめが、その手を休める事なく話に交ざってくる。
「そうですね。前にこちらで学ばれていた保井様を偉く尊敬されておられるようですし、天文座にも頻繁に行かれてますから」
己の侍女が二人して、感心した様子で兄を誉めるのが、姫は少しばかり面白くなかった。些かへの字になった口元に、黒文字で切り分けた草餅を運びながら、なつめの話に頭を巡らす。
土御門家の屋敷の表門を入ってすぐの左側には、天文座があり、そこでは天文博士の指導のもと、天文得業生や天文生達が天体観測を行っている。泰誠はそこへ足繁く通っているという。
「兄上は天文博士にでも、成るおつもりじゃろうか?」
「どうでしょう?先だっては保井様と新しい暦について、熱心に話しておられたようですが……」
陰陽寮において天文博士とは、天文観測に基づいて占星術を行う、天文道を統括する役職だ。その修習生達は天文生と称される。
そして暦博士は、暦を管理・作成・編纂する暦道を統括しており、その修習生達は暦生と称した。
その何方の修習生になるにしても、求められるのは算術の能力だという。そして、兄・泰誠の尊敬する『保井様』は、その算術の能力が素晴らしく高いお方だという事だった。しかも囲碁も大層得意で、御城碁にも出仕されているらしい。
(其れは……どう考えても、妾とは縁遠いお人じゃな)
倉橋が置いていった算盤と算木を眺めながら、姫は思った。
翌日は習字の稽古日だったが、此方はいつもと同じ師だけだったため、香菜姫は幾分ほっとした。
習字の師である次郎爺は、刀剣極所である本阿弥家の傍系の一人で、かつては殿様のお抱えだったという。
もっとも、すでに弟にその地位を譲った隠居の身であり、子も無く、妻は既に鬼籍に入っているとかで、土御門家の近くの草庵に一人で暮らしていた。通いの使用人はいるようだが、大体の事は自身でこなし、不自由はしていないようだ。
香菜姫は三日に一度、書だけでなく、文や和歌、俳句の指南までもを、この爺から受けていた。もっとも、しょっちゅう刀や刀に纏わる武将の話に脱線する愉快な爺との稽古は、存外楽しく、姫は嫌いではなかった。
「姫さんや。何やらとんでもない事になっておるようじゃな。ほれ。父君から、こんなに教本を託されたぞ」
にこにこしながら、次郎爺が後ろ手に隠していた教本の束を取り出すと、見せつけるように、姫の前でばさばさと振って見せた。その量の多さに、姫の口は閉じるのを忘れたかのように、開いたままになってしまった。
しかしその間にも、さきとなつめが文机の上に、てきぱきと準備を進める。そして今、机の中央にでんっと置かれているのは、いつもの倍はある硯だった。
(なんと、ここからか!)
墨をするには、硯の平らな部分に少量の水をさし、墨をゆっくりと動かしながら丁寧にすらなければならない上に、必要な分をすり終わるまで、延々と同じ作業を繰り返し続けるのだ。
そして今置かれている硯の量を考えると、すり終わるまでにどれ程の時間がかかるのか、姫は想像すら、したくなかった。
しかも、その後には積まれた半紙の束と、教本の山が待っているのだから。
それでも、始めなければ終らない。覚悟を決めて、香菜姫は水差しを手に取るが、それからおおよそ鐘二つ分の間、姫の右腕は酷使され続けた。
「う、腕が……これでは檜扇さえも持てぬ故、舞の稽古はさすがに無理じゃ。母上にお願いして、今日はお休みに……」
墨をするのと、普段はあまり書くことの無い漢字の書き取りを延々と繰り返した姫は、右腕の凝りと痛みを侍女達に訴えたが、その程度の事は智乃には予測済みだったようだ。
既に母の手が回っていた侍女達からは、無情な返事が返って来た。
「大丈夫ですよ、姫様。今日は檜扇は使わないと奥方様がおっしゃってましたからぁ」
「そ、そうなのか?(ちっ!)」
(今、舌打ちされましたよね?)
「代わりに鉾鈴を持ってくるようにと言われています」
「なっ、そちらの方が、ずっと重いではないか!そんなものを振り回しながら舞うたら、妾の腕がもげてしまうわ!」
「そんな事ありませんよ、きっと。だって鉾鈴は、紐で手に括りつけておくよう、言われておりますからぁ」
「えっ……」
驚く姫を無視して、侍女達はさくさくと支度を進めて行く。気がつけば稽古着に着替えさせられ、鉾鈴を手に結びつけられていた。
「さき、なつめ。聞いておったか?妾は腕が……」
「先日の急な雨のおかげで、洗濯物が多いらしくて」
「今降られては皆が困りますので。さっ、急ぎましょう」
侍女二人に両脇を抱えられるようにして、香菜姫は舞の稽古場へと引き摺られて行った。
阿古町の来訪から五日経った日。泰福の神使である風華と流華によって、阿古町からの伝言が伝えられた。
『三日後に参る』と。
◇*◇*◇*◇*◇*◇*
(特別な狐に、陰陽術だと?!少しばかり神力が高いだけの小娘を、神々が甘やかすなぞ、世も末だ。そんな特別なものは、本来ならば、俺にこそ与えられるべきなのに!そもそも四年前に父上が亡くなりさえしなければ……)
幸徳井 友信は余りの悔しさに、歯噛みしていた。つい四年前までは、陰陽寮の頭の地位は幸徳井家のものだったのだ。しかし、父・ 友傳が急死すると、あっという間に全てを土御門家に奪われてしまっていた。
それも、跡取りである彼がまだ、幼いという理由だけでだ。しかし当時まだ七歳だった友信には、発言することは一切叶わなかった。
今、幸徳井家は、かろうじて頭の補佐である陰陽助二名の内、一名を出してはいるが、それとて興福寺等の南部社寺への日時勧申を受け持っているだけだ。
跡取りの友信にしても、なんとか二年前に修習生候補にはなれたものの、扱いは他の候補達と何ら代わり無い。
幸徳井家は、元々の家祖は安倍ではあるものの、初代・友幸が賀茂家の養子となった為に、賀茂氏の一族として扱われるのが常だった。
それでもまだ、先々代の友景が陰陽寮の頭の地位に就いた頃は、わずかではあるが、神使を賜る者がいたという。
ならば己が頭角を現せば、新たに賜る事も出来るのではないか。そうすれば、将来は又……そんな期待を持ってこの二年間、友信は修練を続けてきたのだ。
一年前、自分よりも年下の泰誠が、神使を賜った時も、彼は土御門家の跡取りだからと、己を納得させて来た。
だが、今回は違う。ただ土御門家の姫というだけで、自分よりずっと年下の女児が狐を賜るのだ。しかも陰陽術迄習うという。友信は、どうしてもそれが許せずにいた。
(せめて阿古町様の御前で、己の優秀さを御見せする機会を与えてもらえれば……)
そうすれば、絶対に目をかけてもらえる自信があった。
いっそ香菜姫に勝負を挑み、勝った方が賜れるよう願い出れば良いのではとも考えたが、そもそも香菜姫のために阿古町がわざわざ選んだ神使だ。それを欲しいと言った時点で、阿古町の不興を買うのは目に見えている。
それどころか、へたをすると泰福に難癖をつけられて、幸徳井家に不利な状況に持って行かれるかもしれなかった。そうなると、今持っているものまで奪われてしまうのは目に見えている。友信は、それだけは絶対に避けたかった。
(畜生。父上さえ、生きておられたら……)
土御門家と幸徳井家の確執は史実ですが、このお話はフィクションです。
元々、陰陽寮の頭は土御門家でしたが、当主の失策から幸徳井家が頭となった時期が数代続きます。なので、土御門家としては、元に戻っただけなのですが、幸徳井家にしてみれば、腹立たしかったのかもしれません。




