三十話 貞享三年(1686年) 其の一
今回からしばらくの間、香菜姫の過去のお話となります。
貞享三年(1686年) 皐月 京の都
「姫様、そろそろお戻りになりませんと、奥方様のお稽古に遅れてしまいますよ」
「そうですよ。それに、あんまり覗き込んだら、ばれますよ」
「判っておるわ、さき。そう急かすでない。後、もう少しじゃ。なつめも、余計な事を言うでない」
八条御前に建つ土御門家の広大な屋敷。その中庭に面して建てられた習練場の、採光用の高窓にへばりついているのは、今年八歳となるこの家の長女・香菜姫だ。
無理矢理に高窓に顔をこじ入れたせいで、稚児髷に結われた髪は些か崩れているものの、顔立ちは愛らしく、何よりその眼差しは好奇心に溢れている。
姫の視線の先である習練場内では、彼女の兄・泰誠をはじめとした修習生候補達が、陰陽術の稽古をしている真っ最中で、今は講師役の陰陽師から、土御門家の九字の説明を受けていた。
この中から優秀だと認められた者だけが、将来修習生である陰陽生となり、その後、陰陽師と成れるとあって、皆熱心に耳を傾けている。
「ふん、なるほどの。ここで、これをこうして、こうじゃな。で、呪文は。ほぅ、このような時にも、使えるのか」
梯子の上で何やらぶつぶつと言う主のために、その足元を押さえながらも、早く戻りましょうとせっついているのは、姫の侍女のさきとなつめの両人だ。
どちらも下げ髪に、香菜姫の侍女であることを示す 浅緋の小袖を纏っているが、雰囲気は随分と違う。
小柄で少しふっくらとした体型のさきは、主に姫の食事など身の回りを任されており、おやつの準備なども、その仕事に含まれている。
そして、女人としては些か長身のなつめは、きょろりとした大きな目が印象的で、此方は衣装や小物の管理を任されており、針仕事も彼女の担当だ。
どちらも香菜姫が七歳の時から仕えているが、その間ずっとこのような事が日常茶飯事のため、すでに慣れっこになっている。ただし、この後、ばれて叱られるまでもが姫の日常である為、少々頭の痛い事ではあるが。
「よし、判った! さて、降りるゆえ、しかと押さえておくのじゃぞ」
偉そうな言葉とは裏腹に、そろり、そろりと梯子を降りてくるが、最後の二段だけは掛け声も勇ましく、やぁっ!と飛び降りた。
直ぐ様、さきが梯子を抱えて、庭師の爺やに返しに走る。
「さて、忘れぬうちに、試してみようぞ!」
適当な的となる物を探して、きょろきょろと辺りを見回す姫に、
「大丈夫ですか?前回、失敗して大騒ぎになったの、覚えておられます?」
なつめが疑わしげな視線を向けながら問うて来る。何故なら今から一月ほど前、香菜姫が見よう見まねで切った九字は、途中で呪文が判らなくなったお陰で見事に失敗。半端な術だけが、その場に浮き留まってしまったのだ。
しかも、その日は当主である泰福が留守にしていた為、わざわざ陰陽寮から陰陽師が来て術を解術するまでの間、危なくて誰も中庭に入れなくなり、その間、二匹の蝶と一羽の雀が術の犠牲となっていた。
当然ながら香菜姫には、帰宅した当主から盛大な雷が落とされたのだが。
「忘れてはおらぬわ!あの後父様から、今度同じ事をしたら、尼寺に放り込むと脅されたのじゃからの」
「でしたら、止めておかれた方が……」
戻って来たさきも心配そうに言うが、
「案ずるな。同じ間違いは起こさぬ。既に九字は完璧じゃ」
そう言いながら、にんまりと笑う主に、嫌な予感しかしない侍女二人は、諦めたような溜め息をついた。
「おぉ、あれなど、ちょうど良いの」
大人の腕でも二抱えはありそうな石が庭の隅に置かれているのを見つけた姫は、嬉しそうに石との距離を歩測で測り始める。
「九、十。よし、こんな所かの。では、参るぞ!」
先程見た陰陽師の姿を思い起こしながら、構える。
「朱雀・玄武・白虎・勾陣・帝久文王・三台・玉女・青龍!」
土御門家の九字を唱えながら、手刀で縦4本,横5本の線を空中に描き、神力を込めて一気に放つと、格子状の光が一直線に的へと向かう。
ぱーーんっ!
盛大な破裂音を響かせ、石が格子状に砕け散った。
「おぉ、成功じゃ!見たか!?さき、なつめ!あのような大きな石が、粉々ぞ!」
小躍りしながら浮かれる主を見ながら、この後の展開を予測した侍女達は、揃って額に手をやるしかなかった。あれ程までの音がしたのだ。何事かと人が集まってくるのは、目に見えている。
「「今の音はいったい……」」
「「何だ、何が起きた?」」
案の定、習練場や屋内から、ぞろぞろと人が現れ、当然ながらこの屋敷の主にして、陰陽寮の頭である泰福も、その中に含まれていた。しかもその後方には、奥方である智乃の姿まで見えていて……。
((うわぁーっ……))
二人の侍女は、最悪な展開にガックリと項垂れた。
浮かれている長女に砕けた石、そして先ほどの音。泰福はすぐさま何が起きたのか察したようで、さっそく雷が落とされた。
「香菜ーーっ! 何度言ったら判る! 勝手に術を使うなと、あれほど注意したというに、また、このような事をしおって! 第一、女人は陰陽師にはなれぬと何度も言うておろうが!」
叱りながら、既に原型を留めていない被害物を睨むように見るが、そこで漸く其が何だったか、思い至ったのだろう。
「あーーっ!此れはわざわざ運ばせた鞍馬石ではないか!なんと無惨な有り様に……」
「無惨とはまた、おかしな事を。父様、ご覧くだされ。このような綺麗な長四角になりもしたのに」
嘆く父に対して香菜姫は、砕かれた石を一つ手に取りその目の前に差し出した。それは確かに姫の切った九字の格子の形そのままの面を持った、長四角となっている。
その見事な切れ味に、泰福は思わず瞠目する。このような事は、現職の陰陽師であってもできる者は限られているからだ。
もし此れを成したのが長男の泰誠であれば、泰福はあっぱれと誉めていたかも知れない。しかし実際は陰陽師にはなれない長女のしでかした事故に、そのもどかしさが泰福の怒りを更に助長していく。
「戯けた事を申すな!長四角の石を積み上げた庭なんぞ、見た事もないわ!」
「そのように怒鳴らなくとも、聞こえまする」
父のあまりの剣幕に、指で耳の穴を塞ぐような仕草をする姫だったが、
「ほう、では此れは、飾りでは無いのじゃな?」
いつの間にか香菜姫の後ろに回り込んでいた母・智乃によって、その耳は摘まみ上げられてしまった。
「いででっ。か、母様……」
白の小袖に濃色の切り袴、そして千早を纏った智乃はにっこりと笑っているものの、その目は微塵も笑っていない。
「では、飾りは此方の方かの?」
言いながら、今度は姫の頭をむんずと掴む。乱れていた稚児髷がぐしゃりと潰れるが、そんなことで手を緩めてくれる筈もなく、力を込めた指がキリキリと頭を締め付けて来る。
「い、痛いっ……」
「香菜よ。其方いつから師を待たせる程、偉くなったのか申してみよ。すでに稽古を始める時間は過ぎておろうが」
土御門家には専属の守辰丁が数名居り、時守である彼らは、漏刻の番をしながら毎時ごとに専用の鐘を鳴らしていた。即ち、この屋敷の者たちは皆、時間を正確に知ることが出来る分、それを守ることが求められているのだ。
それは子供であっても例外ではなく、普段は子供に甘い母である智乃だが、こと稽古の時間に関してだけは、一切の容赦もない。
「えっ、あの…母様。申し訳……うっう、い、痛うございます……」
「これ、智乃。何もそこまでせずとも……」
こうなると、先程迄怒鳴っていた泰福が、今度は取り成す方に回るしかない。なんせ奥方である智乃が怒ると、実際に雷が落ちるのだ。今もガラゴロと不吉な音が空から聞こえ始めており、数人の下女達が洗濯物を取り込むために走り出していた。
「ほほっ、賑やかだの」
其処へ楽しげな声をあげながら、棚引く霞と共に現れたのは、白銀に輝く狐であった。その後ろには、眷属である白狐達が多数控えている。
「こ、これは阿古町様!」
智乃が慌てて姫の頭から手を放すと、その場で平伏する。
「「命婦様におかれましては、ご機嫌麗しゅう」」
香菜姫も、父と共に即座に母と同じ体勢をとった。当然周りにいた家人や使用人達も、一斉にそれに倣う。
阿古町は、稲荷大神として祀られている五柱に仕える眷属達の中において、最高位に座する神狐である。命婦とはその役職名であり、これは宮中にも出入りを許される官位だ。
実際、伏見稲荷大社の中宮には阿古町を祀った白狐社(命婦社)があり、既に其の存在は神に近しいものとされているのだ。
陰陽師とも深い繋がりがあり、土御門家の家祖である安倍晴明の母・葛の葉は、伏見稲荷大社の主祭神である宇迦之御魂大神の第一の神使の白狐であった。その為か、土御門家の子息で神力の高い者達は代々、主祭神の計らいで、阿古町から神使である白狐を賜ってきた。
香菜姫の兄・泰誠も昨年、気狐である『松葉』と『楓』を賜っており、どこに行くにも、トコトコと兄の後ろを付いて回っている。その愛らしい姿を見るたびに、香菜姫は羨ましくて仕方なかった。
「そう畏まるでない。楽にしやれ」
そう言って、阿古町は平伏している者達に顔を上げるよう、促す。輝く銀狐の姿はいつの間にか、五衣唐衣裳に身を包んだ老女の姿となっていた。
「香菜は相変わらす善い神力を持っておるの。きっと良き巫になろうぞ」
「巫、でございますか……」
「ほほっ。そうがっかりした顔をするでない。巫は、其方の母もかつて従事しておった、大事な仕事ぞ」
巫とは神に仕える者で、神楽を奏して神意を慰めたり、神託を行うのを役割とする。
香菜姫の母である智乃も泰福との婚姻前は天満宮において、道真公の御霊を鎮める巫として勤めていたのを、その神力と美貌を見初めた泰福に是非にと請われ、妻となったのだ。その為生まれながらに神力の高い香菜姫は、幼い頃から巫となるべく、様々な事を母を師として学んでいた。
「じゃか、最近ちぃとばかし、其方の先行きに数奇な物が見えると主祭神様が申されての。その事で葛の葉がいたく気を揉んでおるのじゃ。それ故、陰陽術の少しばかりも、使えた方が良いのではと言い出しての。すまぬが泰福、そちが教えてたもれ」
その言葉に、泰福は驚きに目を見張った。
「僭越ながら、命婦様。女人は陰陽師にはなれません!」
「判っておるわ。あくまでも術が使えるようにというだけじゃ。葛の葉たっての願いじゃ。叶えてたもれ。それに、おそらくじゃが、それが香菜の身を守る事に繋がろうぞ」
今度は智乃が顔色を悪くして尋ねる。
「命婦さま、この子は少しばかり神力の強いだけの、普通の童でございます。そのような子に、一体どのような定めが待つと……」
香菜姫の家族の大半は実在の人物ではありますが、このお話はあくまでもフィクションですので、ご了承下さい。
以下は、実際の家族構成です。香菜姫は泰誠君の二歳下という設定です。
父:土御門 泰福
母:不詳
生母不明の子女
男子:土御門泰誠(1677年 - 1691年)
女子:倉橋泰章室(倉橋泰章の妻)名前が判らないため、お話では便宜上、章としています。又、生まれた年も不明のため、勝手に泰連君の後に生まれた事(次女で第四子)にしています。
男子:土御門泰連(1685年 - 1752年) - 正四位下・治部卿
男子:土御門泰邦(1711年 - 1784年)
男子:土御門泰豊
男子:繁原有名
また、神様や眷属に関しては、伏見稲荷大社の公式ページ及び、人形浄瑠璃・歌舞伎の『蘆屋道満大内鑑』を参照としています。




