二十九話
葬儀と戴冠式を翌日に控えた午後、オルドリッジは王宮の薔薇園に来ていた。ここは、亡き友のお気に入りの場所であり、彼の研究成果の賜物が数多く並ぶ場所でもあった。
(ジェイ。ついに明日、君の息子が即位する。彼はどの様な王となるのだろうか……)
薔薇に挟まれた小道を歩きながら、オルドリッジはとりとめのない思案に耽っていた。新王となるウィリアムには、彼の統治を補佐するための側近候補が四名、先代王によって選ばれていたが、彼等はまだ学びの途中である上に、ここ二年ほどはその学びも中断しているのが現状だ。到底、今すぐに仕事を任せられる状態ではない。
もちろん、当面の間は内政、外交に関しては自分や王妃が可能な限りサポートするつもりだし、それはビートンやバーリーも同じ思いである事は確認済みだが、だからと言って不安が無くなるわけではなかった。
若き王となったウィリアムが、聖女の『駒』だという事実を知る者達は、少なくはないからだ。彼等は口に出すことは出来なくても、その腹の内に不安や疑心を抱えているだろう事は、十分に推し量られる。
だからこそ、オルドリッジはアークライト公爵家に全ての罪を被せ、帝国こそが真の敵だという事を前面に押し出したのだ。そして、それらに纏わる功績の全てを、新王と聖女の物だと明言した。
ただ、国民に聖女と新王の良好な関係を見せることは、叶わなかった。聖女がどちらの式典の出席も、断って来たからだ。なんとかその後に開かれる祝宴の参加は取り付けたが、その事がどう民に受け取られるかもまた、懸念材料の一つだった。
民心は不思議なほど些細なことで大きく揺れ動く事を、オルドリッジは経験上、嫌というほど理解している。
(一応情報操作は命じてあるが……)
溜め息をつきながら、東屋の側に仕立てられた、黄色い蔓薔薇のアーチをくぐる。花は小さく香りも弱いが、返り咲きをする頑強な品種で、此れもまた亡き王の手掛けた品種の一つだ。
アーチを抜けた先には、小さな温室があった。亡き友の大事な実験の場であり、今日のオルドリッジの目的地だ。
主を失った温室だが、入ってみると空調はこれまでと変わりなく、水やりも既に行われた跡があった。品種改良の途中だったのだろう。番号や記号が振られた鉢が幾つも並んでおり、その大半が小さな蕾をつけている。
鉢の間を縫うように進む。奥にある小さな机に備え付けてある椅子に腰かけ、辺りを見回していると、今にも友が笑いながら、扉を開けて入ってくるような錯覚を覚えた。
【凡庸】。それが国王ジェームス四世を表すのに、最も使われた言葉だった。確かに、端から見たら、そう見えただろうと、オルドリッジは思う。
先代のように統率力や先見性があるわけではない上に、宰相のやりたい放題を咎めることなく、外交は王妃に丸投げ状態。争い事は苦手だとばかりに、騎士団長と討伐隊長の後ろに隠れ、日長1日この温室で、薔薇の品種改良に明け暮れていたのだから。
しかし、彼は決して愚王であったわけではない。己に足りない物をよく判っているからこそ、部下や王妃の意見に耳を傾け、我々の仕事が滞りなく進むよう各部署を調整してくれていたのだから。
第一自分達は幼い頃から何十時間どころか、何百時間とかけてこの国の事を論じ合ってきたのだ。
その結果を踏まえた上での行動を、それぞれが責任を持って、とっていたに過ぎない。
それに薔薇は愛好家が多いため、王自らが手掛けた新品種ともなれば、外交の上でも良い手土産となっていたのは知られざる事実だ。
議会の決定を常に尊重していたのも、公平に皆の声を聞こうとする姿勢の表れだった。
それを小心故と影で笑う者もいたが、良い治世者だとオルドリッジは今も思っている。
オルドリッジ自身は、幼い頃に先代王に見込まれて、ジェームズの側近候補となったが、同じように彼の側に居た者達の中では、最も年少だった。四十歳を越えた今となっては、一、二歳の差など無いに等しいが、十歳前後の二歳違いは、大きな意味を持っていた。
ただでさえ子爵家三男という身分に、低身長の彼は、必然的に侮られることが多く、年少者限定の交流会等でも、あからさまな侮蔑の言葉をぶつけられた事が、何度かあった。
その上に年齢のハンデまであれば、その扱いがどうなるかなど、明らかだ。しかし、そんなオルドリッジの才を一番誉め、認めてくれたのは、他ならぬジェームズだった。
勿論、先代王の意向のもと、徹底的に教育を施された事もあるが、彼の今の地位が揺るがない物と成ったのは、ジェームズ自身の取り立てがあったからだ。
在りし日の友の姿を想い瞑目する。瞼の裏が熱く潤い、やがて溢れ落ちるが、気にせずそのまま暫くの間、動かずにいた。
温室に差し込む日差しが陰り始めた頃、漸く立ち上がったオルドリッジは、
「ジェイ、また来るよ」
そう言って、その場を後にした。
夕暮れの中、先程の道を引き返しながら、もう一つの目的である艶やかな色を探しながら進む。
(あぁ、良かった。まだ咲いている)
足を止めたのは、赤い薔薇の前だった。高芯で、蕾から開花迄、その形の美しさを楽しめるこの薔薇は、香りが良い上に四季咲きで、虫にも病気にも強いため、人気の品種となっている。
少しためらった後、幾輪もの花を誇らしげにつけている枝に近づき、その芳香を胸いっぱいに吸い込む。
酔ってしまいそうな強い香りに、宰相に任命された時の、宣言の言葉が思い起こされた。
『全身全霊をかけて民と国を守り、より善き方向へと国を推し進める事を、ここに誓います』
その誓いを守る為なら、誰に憎まれようが、どれほど疎まれようが構わなかったし、実際、憎まれ、疎まれている自覚もあった。だが、そんな些細を気にしていたら、国の運営など到底無理だ。
(その覚悟が、あれにはまだ足らん)
豪快な兄がいるせいか、年長者の顔色を伺う癖が抜けない宰相候補の顔を思い浮かべ、苦笑する。
年若い後継候補は、頭の回転も良く、知識を取り込むのも早い。狡猾さは、己の兄を見ていれば自然と学べると思われた。したがって、足らぬのは、経験と覚悟だけだとオルドリッジは思っている。しかし、周りの宰相補佐官達からは、『こんな若造』と舐められた扱いをされているのが現状だ。
【高貴】という花言葉を持つ薔薇を眺めながら、心の中で再度誓う。
(若造が育つまで、あと暫く。見ていてくれ、ジェイ。次の世代へ受け渡すまで、この身の全てを掛けて国と民を守るから)
今一度深くその香りを吸い込むと、オルドリッジは宰相としての仕事に戻るため、己の執務室へと戻って行った。
その後ろ姿を見送るように揺れる赤い薔薇の名はシャイリーズ。この国の王妃の名を冠した薔薇だ。
*◇*◇*◇*◇*
明日の式典を前に、城中は日が落ちた後もまだ、喧騒と熱気に包まれていた。そんな中、香菜姫は夜の庭園を周王達と共に散策に出ることにした。
(そういえば、こちらの暦について尋ねるのを、すっかり忘れておったの……)
この世界に来た時よりも、風が幾分冷たく感じると思いながら、歪んだ月を仰ぎ見る。その周りに見慣れた星々は無く、その事が、姫の孤独を募らせていた。
(帰りたい……もしや御伽草子の姫も、このような思いでおったのかも知れんの。じゃが、あの姫は最後には、戻れた。それに比べ、妾は……)
うつむき、詮無い事を考える己を自嘲していると、暗がりから声をかけられた。
「聖女様、少し宜しいでしょうか」
ここ数日で聞きなれた声の主が、姿を現す。
「クラレンス翁か。構わん」
その返事に一つ頭を下げた翁は、姫の側に来ると、同じ歩調で歩きながら質問してきた。
「明日は、葬儀と戴冠式、どちらも出席されないと聞きましたが、何故かお伺いしても宜しいでしょうか?」
召喚時に起きたことは、一切口外しないで欲しいとオルドリッジとシャイラに頼まれ、香菜姫自身もそれを了承した手前、己のした事ではあるものの、話すわけにはいかない。かといって、この翁に出鱈目な事を話す気も無かった姫は、言える範囲の事実を伝える事にした。
「其方には言えぬ事情が、色々とあっての。それ故、妾が悼むのも、寿ぐのも違うと思うただけじゃ」
もっとも、その後の宴には、姫も顔を出すつもりでいた。シャイラやオルドリッジから、せめて此れだけでもと請われたという事もあるが、年若き王となったウィリアムには、聖女の加護があることを、きちんと知らしめた方が良いと思ったからだ。
(妾の駒が、侮られる訳にはいかぬからの。それに、駒は使えてこそ、持つ意義があるのじゃから)
しかし、その返事に納得いかなかったのか、静かに己を見つめる翁に対して、香菜姫は少しばかり饒舌になった。
「翁には、大体の想像が付いておるのであろう?それをどう受け止めようが、構わんが、妾は己のした事を、後悔してはおらぬ」
この世界に連れて来られた腹立ちと、元の世界への渇望は、到底消えそうになく、今この瞬間でさえ、香菜姫を望郷の念で駆り立てているのだから。
「じゃが、あの者達、ウィリアム達が妾を召喚した訳も、今は解しておる。そして、そのような状況を作った元凶こそが、妾が潰すべき相手だと云うこともな」
そもそも帝国とやらが今回の策を取らなければ、追い込まれたこの国が、召喚を行うことは無かったのだ。だから。
「先ずは蟲毒を何処で、誰の手で作られたか、それを調べ、作った者達を全て屠ってやろうぞ。それが妾の追悼となるであろう。次に、全ての元凶である帝国の皇帝とやらを、地の底に叩き落とすとしよう。それが妾の寿ぎじゃ」
そう言って不敵に笑う姫を見る翁の目は、ただ、ただ優しく、切なげで。
「我々は、そこまでしていただいた貴女様に、どれ程の物を返せば良いのでしょう」
そう言いながら、片ひざをつき、頭を下げてきた。
「全てが済んだ後、静かな生活を約束してくれれば、それで良い」
その返事に些か驚いた様子で顔を上げた翁だが、ふっと笑うと、
「ならばその時は、この爺もお連れ下さい。これでも猟も畑仕事も得意ですから、きっとお役に立ちますよ」
立ち上がり、歩みを再開しながら、愉しげに自分を売り込んできた。香菜姫もそれに応じる。
「そうじゃの。では、住むのは出来れば、この石ばかりの固く冷たい物では無く、木で出来た屋敷が良いの」
「良い大工を知っております」
「じゃが、寝具は今の方が便利が良い」
「仰せのままに」
「ならば我はあの、ふかふかの座布団を所望する!」
「我は、二枚所望しようぞ!」
周王と華王も会話に混ざり出す。
「それに食す物じゃが、鳥はまだしも、獣の肉はあまり好かぬ」
「ふむ。では魚はいかがでしょう?」
「魚か。そうじゃの、鮎は好きじゃった。あとは山女魚かの。この世界に、似たものがあるのかは、判らぬが」
「では、宜しければ釣りをご一緒しましょう。爺は田舎者ゆえ、魚用の仕掛けも幾つか作れますし」
「釣りか。元の世界で妾の護衛をしていた者が好きじゃったが、面白いのか?」
「やってみると、意外と楽しいものですよ」
香菜姫は、麗らかな天気の下、翁と共に釣糸を垂れる己を想像する。おそらく、釣れぬとぼやく自分の側では、白狐達が好きに寛ぎ、時に邪魔をしてくるだろう。
「良いかもしれんの」
そう言って緩く笑うと、そろそろ戻りましょうと差し出された翁の手に、己の手を重ね、最後にもう一度、月を仰いだ。
(お伽噺草紙の姫のように、嘆くばかりでは、前に進めぬ。この世界で生きると決めたのじゃ。妾は土御門家の者じゃというのに、うっかりしておったわ。先ずは暦からじゃの。それから星の配列に、この国以外の地形辺りか。ふふっ、昔を思い出すの……よく父上に叱られたものじゃ)
己を護るように手を引く翁を見ながら、姫はこれからの事に想いを馳せた。
返り咲きの薔薇は、春に咲いた後、夏や秋に再び花をつける物を指します。ただし、その花の数は多くはなく、チラホラといった感じです。
四季咲きの薔薇は、温室栽培等で、温度さえ合えば一年中蕾をつけます。ただ、屋外だと、やはり暑い時期と寒い時期はその数が激減します。なので、夏と冬に剪定(冬は葉も全部落とす)を行い、春と秋に多くの花を咲かせるように調整することがあります。




