二十七話
「姫様、こちらから似たような臭いがしもす」
周王が庭の方を前足で示す。もしや、原因が知れるやもと考えた香菜姫がそちらへと足を向けるが、クラレンス翁がそれを押しとどめ、代わりに自分がと言って周王と共に庭へと続く扉を開け、露台のような場所から庭へと降りた。
「臭いの元は幾つかありもすが、近くならば、この方かと」
臭いの元を探る周王に誘われ、庭の奥へと向かって歩く翁を見ていた姫は、誰か応援をつけた方が良いと感じたものの、あいにく討伐隊の面々は離れた別室で休憩を取っており、側に居るのはバーリーだけだ。そして、毒が絡んだ現状で、バーリーが彼女の側を離れるとは思えない。
仕方なく、まだ事態を認識しきれていないアシュトンに、クラレンス翁の護衛と応援のための者を、向かわせるよう頼もうとした時、
「ぎゃああぁぁーーーーっ!」
庭から、叫び声が聞こえた。
「華王!」
「あいな、姫様!」
すかさず華王にまたがった姫が、先程周王達が使った扉から飛び出し、バーリーも急ぎ後を追う。
同時に、屋敷のあちこちから何事かと人が飛び出してくる。アシュトンやカラハン達も、目が覚めたように慌てて庭へと向かった。
姫は叫び声がした場所へ、瞬時で着いた。そこで目に入ったのは地面に倒れたブラインと、周王に守られるようにして立ち尽くすクラレンス翁の姿だった。その足元には動物に仕掛ける罠のような物が転がっている。
「聖女さま。驚かして、すまんな。突然だったので、加減が出来なくてな……」
香菜姫の姿を認めた途端、翁が言う。その言葉と状況で、何が起きたか姫には想像がついた。なにせ、痛みにのたうち回るブラインの側には、彼の長剣が落ちており、その手首には深々と短剣が突き刺さっているのだ。それはクラレンス翁が、とっさに投げたものだと思われた。
尤も、周王がうっすらと笑っているところを見ると、その軌道か威力に少しばかり手を加えたのは、間違いなさそうだが。
「何ぞ企んでおるとは思うておったが、ほんにお粗末な奴じゃの」
地面に降りる事なく、香菜姫が呆れたように言い放つ。その言葉が聞こえたのだろう。姫を見上げたブラインが、睨みつけながらも躙り寄って来ると、
「痛いんだよ、なぁ、痛いんだ!治せよ。お前、聖女だろ!今すぐ治してくれ!なぁ、頼むから。金ならやるから。俺は騎士に成るんだ!だから!!」
命令にしか聞こえない懇願をしてきた。しかし。
「嫌じゃ」
「なら早く……えっ?」
「聞こえなんだか。嫌じゃと申した。妾は前回、既に慈悲を与えた。二度目は無いわ。バーリー、面倒じゃろうが、止血を。その程度ならば、死にはせん」
たった今、追いついてきた討伐隊長に、声をかける。素早く状況を判断したバーリーは、直ぐ様ブラインの傷の具合を確認し始めるが、その時、突然庭の奥からベルネッタが、大声を上げながら姿を現した。
「聖女の癖に、目の前で苦しんでいる怪我人を治さないなんて、やっぱりあんたは、偽物なんだわ!」
止血の準備をするバーリーの横に立ったベルネッタは、姫を睨みつけはするものの、兄の手当てを手伝おうとする素振りは見れない。
「其方が妾をどう思おうと、妾にはどうでもよい。じゃが、いい加減、他人を都合良く使おうとするのは止めよ。妾の大事な客人や、周王達を傷つけようとした者を、助ける義理なぞ在るわけがなかろう。生きておるだけで、過分な恩情じゃ」
「でも、治せるんでしょ、なら!」
「ふんっ。あの者が治さねばならんのは、あの性根じゃ。怪我ではないわ」
そんな二人のやり取りが標となったのだろう。漸くアシュトン達が、その場に現れたが、彼等もまた、即座に何が起きたのかを悟ったようだった。その顔色は青ざめ、悄然とした面持ちに歪んでいる。一気に重くなった空気の中、最初に口を開いたのはオーズリー伯爵だった。
「クラレンス殿、悪いが説明をお願いできますか」
「あぁ、そうだな。まず、周王殿の感じた臭いの元はこれだったようだ」
翁が足元に転がる罠を爪先で小突きながら、カラハン達に説明を始めた。
臭いの元は一つではなく幾つか在ると言って、一番近いのがここだと周王が案内してくれた場所に、それは有ったという。なので、調べるために持って戻ろうとした所に、突然剣を構えたブラインが飛び出して来たのだという。
「しかし、その時は誰か判らなかった為、とっさに剣先を避けるように動き、同時に短剣を投げたのだが、まさかご子息だとは……」
言いながら、地面に座り込み、バーリーから簡単な手当てを受けているブラインを眺め、ため息をつく。そして、予想通りの説明を受けたカラハンもまた、ため息をつくしかなかった。
「あれほど注意したのに、なぜ……」
アシュトンの絞り出すような呟きが漏れ聞こえた時、多くの足音が慌ただしく近づいて来るのが聞こえた。目を向けると、数名の兵士と共に、髪を振り乱した奥方らしき女人が走って来るのが見えた。
女人は、未だバーリーに抱えられるようにして座っていたブラインに駆け寄ると、その身体を奪うようにして、抱きしめる。
「あぁ、ブライン。可哀そうに!貴方、伯爵様、直ぐに神官様を!」
そう言いながらもクラレンス翁を睨みつけ、こんな子供になんて酷い事を等と、文句を言い出した。
そんな奥方を諫めようとするカラハンに、兵士達が実はと説明を始めた。それによると、どうやら奥方は階上にある自室から、翁が短刀を投げるのを見ていたらしい。そして、息子が倒れたのを見て、慌てて兵を連れて庭へと来たことが判った。しかもその際、「不審者が息子を殺そうとしている」から、捕まえるよう命じられたという。
その話を聞いて軽く頭を振ったカラハンは、父ではなく、領主として動き、決定を下す事を決めた。
「いや。神官は必要ない。おい、すぐにブラインを寝室へと運べ。それと医師の手配を!」
その言葉に、奥方が目を見張る。神官による癒しを受ければ、傷は立ち所に治るが、医師の手当てだと、治るまでに数週間はかかるからだ。しかも、その間の痛みや熱は避けられない上に、後遺症が残る可能性もある。
「それでは治るまでに時間が!」
「そうよ、お父様!だから今すぐ、そこの聖女に命じてください!その女に、お父様が命じれば済む話です!」
令嬢である自分の言うことは聞かなくても、伯爵である父の言葉なら従うと思ったのか、ベルネッタも口をはさんできた。その言葉に、漸く香菜姫の存在が目に入ったのだろう。奥方は血走った目で姫を見ながら、腕の中の息子を前へと押し出し、
「貴女、聖女なの?なら、治しなさい。これは命令よ。今直ぐに治したら、今回の事は不問に……」
母の言葉に、ブラインの両の口角が上がる。さすがに伯爵夫人に命じられ、尚且つ伯爵である父の見ている前ならば、断る事は無いと思っていたのだろう。しかし。
「ほんに、親子そろって厚かましいの。先程も申したが、お断りじゃ」
返ってきたのは、あざ笑うかのような拒絶だった。しかも、驚き目を見張る三人に追い打ちをかけたのは、他でもない伯爵自身の言葉だ。
「いい加減にしろ!いったい、どれだけ甘やかせば気がすむんだ!ミラベル。お前はこいつが誰に対して、何を仕出かしたか、判っているのか!?もし、辺境伯家から訴えられたら、ブラインは死罪もあり得るのだぞ!なぜ、それが判らん!」
「もちろん私だって、その方がクラレンス様だという事は、ここに来た時に判りましたわ!でも、実際に怪我を負ったのは、ブラインです!むしろ被害者はこちらの……」
「それは、ただの結果だ!こいつがクラレンス殿に剣を向けた事実は変わらん。しかも短剣しか持たない客人相手に、長剣を向けるという卑劣なやり方でな!」
転がったままになっていた長剣を拾うと、その切っ先をブラインに突き付ける。
「おまけに相手の力量に気づかず、明らかに侮っていた。騎士団の入団試験を受けたら、己の力量が判るだろうと思っていたのに、推薦状、推薦状と、楽に走ることばかり考えよって。兵達がわざと負けている事にさえ気づかず、慢心した結果がこれだ!」
悔しげに唇を噛むものの、反論できずにいるブラインを、カラハンは引っ張り立たせると、その腰から剣の鞘を外して、剣を収めた。
「これは没収する。お前にはもう、必要のない物だからな。さぁ、さっさと連れていけ!それと、今後は私の許可した場合を除き、医師以外の出入りは一切禁ずる!部屋の外側から鍵をかけておけ!」
怪我以上に、父の言葉が堪えたのだろう。項垂れたまま、兵達に連れられて行くブラインの足取りは重く、側で必死になだめながらついてくる母親の言葉も、耳に入っている様子はなかった。
クラレンス翁も、一応医師に診てもらいましょうと言うアシュトンに付き添われ、屋敷へと戻っていく。
残ったカラハンやオードラと共に、その様子を眺めていた香菜姫だが、ついっと視線をベルネッタに向けると、尋ねた。
「それはそうと、其方は何故、この場に居たのじゃ?」
姫の言葉にベルネッタは、一瞬口ごもるも、
「そ、それは…叫び声がしたので、何事かと思って……」
「そうではなかろう。妾は其方が庭の奥から来たのを見ておる。もし、部屋に居ったのならば、奥方のように妾達の後ろから来たはずじゃ。じゃが、其方は正面から来たのじゃぞ。それを何故と、問うておる」
「あっ、えっと、……」
「ベルネッタ。お前まさか、ブラインと一緒にいたんじゃ…」
言い淀む娘に、カラハンが眉間のしわを深くしながらも尋ねる。
「一緒じゃないわ!ただ、ちょっと…」
ベルネッタは即座に否定するが、そこから先が続く筈も無く、その為に、見る間にカラハンの形相が険しくなっていった。
一方オードラは、なんとか執り成そうと、二人の間でオロオロとしていたが、そこへ、些か楽しげな声がまざってきた。
「おや、姫様。この娘、麻沸散に似た臭いがしまする!」
華王の発した聞きなれない言葉に、バーリーがまた毒物かと身構えるが、それを制するように手を挙げた姫が説明する。
「麻沸散とは、相手の意識を奪い、昏倒させる薬じゃ。これを使うと、どれほどの強者でも赤子のように眠り続け、その間に腕を切られても気づかないと言われる薬じゃ。さて、娘よ。其方は誰か眠らせたい相手でもおったのか?」
意地の悪い笑みを浮かべながら、姫が聞く。
「これは、私が眠るための物で……」
「ほぅ?では、何故そのような物を庭で持ち歩くのじゃ?普通ならば寝所に置いておく物であろうが。なんせ、うっかり溢しでもしたら、その場で昏倒する代物ぞ」
「ねぇ、ベルネッタ。貴女、何を持っているのか知らないけれど、今すぐ出して!」
心配げな顔をして手を差し出してくる姉や、自分が何をしようとしていたのか判っていながら、態と知らぬふりをしているとしか思えない姫の言葉に苛立ちを募らせたベルネッタは、両の拳を強く握りしめ、地団太を踏みながら叫んだ。
「あーーー、もう、うるさい、うるさい、うるさい!! 何なのよ、いったい!あんた聖女なんでしょ!なら、人の言った事をいちいち疑うんじゃないわよ。聖女なんてものは、馬鹿みたいに笑って人の言う事をハイハイと信じてればいいの!そして治せと言われた病人や怪我人を黙って癒していれば良いのよ!なのに、あんたときたら偉そうにして、口答えばっかり!」
叫んだ後も、怒りが収まらないのだろう。ふぅふぅと息を吐きながらも、姫をにらみつけている。放っておくと今にも掴みかかってきそうな形相だが、香菜姫がこの程度のものに気圧される筈も無く。
「さっきから聖女ならば、こうあるべき、こうすべきと勝手に決めつけておるが、一体それは誰が決めたのじゃ?それに、其方のいう聖女とは、まるで善意に縛られた阿呆な奴隷のようじゃの。妾はそんな憐れな者に成り下がる気は、毛頭無いぞ」
からからと笑いながら白狐達に目で合図すると、白狐達の前足が円を描き、踏み鳴らされる。
「縛!」
「脱!」
途端にベルネッタは紐でぐるぐる巻きにされ、身動きできない状態で地面に引き倒されていた。しかも、いつの間にか着ていた衣裳は姫の手の中だ。
「ほれ」
持っていた衣装をオードラに手渡す。戸惑いながらも、襞が沢山寄せられた辺りをガサゴソと探っていたオードラは、小さな瓶を取り出すと、少し悲し気な視線を妹に向けたのち、それを父親に手渡した。
「眠るための物ならば、今すぐ嗅いでみるかの?」
姫の言葉に、顔色を悪くした娘の様子で、どちらが正しいのか確信したカラハンは、ベルネッタを自室へと閉じ込めるよう兵達に命じると、香菜姫に頭を下げて、屋敷の方へと歩いていった。肩が下がり、一気に老けて見えた後姿を追うように、オードラが駆けていく。
一方、ぎりぎりと歯ぎしりをするベルネッタを引き起こし、担ぎ上げようとした兵士の足元には、なぜか運悪く木の根が張り出していたようで、一歩踏み出した途端に躓き、その拍子に彼女を取り落とす事になった。
「ぎゃぶべっ」
顔から地面にぶつかったせいか、変な声が漏れる。慌てて兵士が抱き起こすが、その顔面は悲惨な状態になっていた。
(あれは……鼻が折れたやもしれんの)
白目を剥き、だらだらと鼻血を垂らしながら運ばれていくベルネッタを眺めていた姫は、華王がそ知らぬ顔をしながらも、その口元がうっすらと笑っているのを見逃さなかった。
麻沸散は、『三国志』華佗伝や『後漢書』方術伝になどで知られる、中国後漢末期の伝説の名医、華佗が用いたとされる麻酔薬で、後に華岡 青洲が全身麻酔薬の開発において参考にしたとされる幻の薬です。こちらの処方は判りませんが、青洲の作り上げた『通仙散』は【曼陀羅華(朝鮮朝顔)、草鳥頭、白芷、当帰、川芎、天南星】を配合した物です。




