十九話
「トゥルーよ、其方、腹は減ってはおらぬか。喉が渇いたりは?」
ムーンとトゥルーを一行に加えた後、新たに二つの魔素溜まりを浄化した香菜姫達は今、夜営のための準備をしている最中だった。
「お腹は、少し……でもムーンが時々お水を出してくれたから、喉はそんなに渇いてない」
「遠慮は要らぬぞ。この大人数を賄うだけの物は有るのじゃから、其方のような童が、少しばかり飲み食いしたとて、減りはせん」
すでに張ってもらった専用の天幕の前で、軽食用の薄く焼いた小麦菓子を手にした香菜姫が、トゥルーにそれを差し出しながら、
「それに、ほれ、見てみやれ」
そう言って指し示した先では、フェンリルがガツガツと肉に食らい付いていた。その背中を、王宮魔術士のバートが嬉しそうに撫でている。どうやら犬好きな魔術士が、早々にムーンに食事を与えたようだ。
(あぁしていると、紛れもなく犬じゃな)
「やっぱりお腹、空いてたんだ。ムーン、見つけた食べ物は、ほとんど僕にくれてたから。神獸は、あまり食べなくても平気だって……」
「それは別に嘘ではなかろう。妾の白狐達も、ほとんど食べぬからの。じゃが、好きなものならば、いくらでも入るとも言っておったから、そういうもんなんじゃろ」
それゆえ遠慮はいらないと、さらに小麦菓子を勧める。
「煎餅とは違うが、ほんのり甘く結構美味いぞ。あと二、三枚ならば、食事にも差支え無かろう。それに、これは牛の乳らしい。妾は少し匂いが気になるが、子供には良い物じゃと聞いた」
だから一緒に食せと、器に入った白い液体も差し出す。
「明日は王都に着く。その後の事じゃが、其方が嫌でなければ、ヘンリーが魔術士寮の雑用係として雇っても良いと言っておった。もちろん、犬も一緒じゃ。ただし、あの大きさのままが、条件じゃがの」
「いいの?」
やはり喉が乾いていたのだろう。勢いよく乳を飲んでいたトゥルーが、口の上に白い筋をつけたまま聞いてくる。
「ウィリアムも反対しておらぬから、問題無い」
「おねえちゃん、ありがとう!」
『姉さま!』
その顔に、妹・章の顔が重なる。歳格好以外、似ている所など全くといって良いほど無いのにと、姫は不思議に思った。
(章は元気にしておるかの。また勝手を言うて、乳母やを困らせていなければ良いが…。あれほど慕うてくれたあの子にも、妾は忘れられてしもうたのじゃな……)
姉さま、姉さまと、まとわりつく小さな手を思い出し、香菜姫の胸が詰まる。同時に、目の前の童と重なる理由も判った。
(あぁ、そうか。声が少し似ておるのじゃ。それで……)
牛の乳に浸した小麦菓子を嬉しげに頬張るトゥルーを見ながら、姫は少しだけ感傷に浸った。
翌朝。さほど大きくない魔素溜まりを一つ浄化した後、王城に戻った香菜姫は、安堵の表情を浮かべたシャイラとオルドリッジに出迎えられた。
予定していたよりも早くに戻ってきたものの、今日一日は煩わしい思いをしたくない事もあり、前鬼、後鬼はそのままにしておきたいと姫が告げると、二人して、少しばかり複雑な顔をしたが、直ぐに「了承しました」と返事が返ってきた。
魔術士バートにトゥルーとムーンを預けた姫は、早急に見せたい物が在るからと、オルドリッジとシャイラを魔術士達の訓練場へと誘った。
当然、ウィリアムを始め、バーリーやビートン、ヘンリーも一緒だ。
訓練場についた香菜姫は、己の不思議収納箱から例の壺を二つとも取り出すと、地面に並べ置く。
「既に浄化はしてあるゆえ、安全じゃとは思うが、迂闊に触らぬ方がよいぞ」
「聖女様、これは?」
「呪術じゃ。魔素溜まりに埋まっておった」
オルドリッジの質問に姫が答える。
「呪術……」
その言葉を聞いたオルドリッジが、王妃を庇うように、すっと前に出た。
「そうじゃ。しかも、この二つだけではない」
そこからは、ウィリアムが説明を引き受けた。
今回、香菜姫が浄化した全ての魔素溜まりから、同じような物が出てきた事から、これが今回の魔素溜まりの原因だと考えられる事。しかも明らかに人為的な物の為、他国の侵略計画の可能性が高い事を述べていく。
そしてクラッチフィールドの状況と、ドーキンスがしでかした事なども全て説明した。
また、ドーキンスに要らぬ助言をしたバビチ商会の商会長が、クラッチフィールドの神殿に滞在していた事も補遺する。
最初は驚きの表情を浮かべて聞いていた二人だったが、やがてそれは静かに怒りへと移行していった。特にオルドリッジの怒り様はすさまじく、その形相は、ウィリアムが思わず言葉を止めてしまうほどだった。
「おそらくですが、帝国の仕業かと。しかも、国内に内通者や協力者がおります。特にバビチ商会は、怪しいかと」
ビートンの言葉に、唇を噛みしめながら王妃が頷く。
「その事じゃが、バーリー、あれを」
そう言って香菜姫が討伐隊長から受け取ったのは、討伐前に式を使って描いた地図だった。
「妾にはよく判らんが、ウィリアムが些かおかしいと言うのでな。この部分じゃ」
香菜姫が指し示したのは、ある領地だった。それを見たオルドリッジは、眉間のしわを更に深め、その口元からは、奥歯を食いしばっているせいで、ぎりぎりと音がしている。
「確かに。しかし、まさかこれほどまでに、あからさまだとは。国に上げられた報告では、もう少し有ったと記憶しているが、どうやら虚偽だったようだな」
何とかそう言うと、確認するように王妃の方を向く。こめかみに当てた指を回しながらも、シャイラが頷く。それにより、ここにいる全員が、この領地の領主が内通者か、それに関わっている者だと認識した事になった。
「では、ビートン、この事は騎士団に任せる。帰って来た早々悪いが、出来るだけ早急に方をつけて欲しい」
「判った。準備が整い次第、動く」
「それから、聖女様がお預けになった絵ですが」
大きく息を吸い、吐くことで、感情を抑えたのだろう。冷静な宰相に戻ったオルドリッジはそう言って、今度は香菜姫たちが留守の間に、城で起きた事を、つぶさに話し始めた。銀のブローチの事も含めて。
「現在、その者について、殺された男との関係も含めて、調べ直している最中です」
そう締めくくる宰相に、ウィリアムが質問する。
「宰相、そのブローチは、もしや大叔父上のですか?」
「さすがに殿下はご存じですね。その通りです。今から五十年近く前に、アークライト公爵家に臣籍降下される弟・ミルフォード様に、先王陛下が贈られたものです」
そう言うと、紙挟みから数枚の紙を取り出す。一番上に描かれているのは、ブローチのデザイン画だった。
「アークライト家の一人娘であるキャンディス様とご結婚が決まったミルフォード様は、キャンディス様との間に生まれた御子を跡継ぎとするのを条件に、公爵の位を継ぐ事が決まっていました。ただ、お子さまが無事お生まれになるまでは、その立場がいささか曖昧なものとなられてました。その事を案じた陛下が、その身分を示す物として、お贈りになられたのです」
その下の紙には二つの絵があった。一つは先程のブローチと同じ物で、もう一つは、同じ様だが所々が違い、真ん中部分には、その違いについての書き込みや注意書きが書かれている。こうして見比べると、二つの違いがよく判る仕様だ。
「ただし、あくまでも臣下に贈る物ですので、わざわざ銀を使い、楯の薔薇も、五枚花びらの薔薇とし、その色をミルフォード様が得意とされた火魔法を表す朱色として、注文されました。破損や修理時の予備を含めて全部で4つ。すべてに番号が振られています」
そう言って、紙を紙挟みに仕舞う。
「ミルフォード様は、陛下のお気持ちが嬉しかったのでしょう。御子様が生まれ、正式に公爵家をお継ぎになってからも、永らくブローチを愛用されておりました。ただ、何らかの形でそのブローチを譲られた者が、あの紋章を見て勘違いしては困るという事で、四十年近く前の時点で、法整備がされたのです」
そう言うと、今度は何処からともなく分厚い本を取り出し、あるページを開く。そこには問題のブローチと、その扱いについて記されてた。
【公爵家直系以外の者が左記のブローチを所持していたとしても、それらの者達は王家とは何ら関係の無いものとする】と、確かにそう明記されている。
「そして、二番の刻印の物は二十五年前に、前公爵自らによって、紛失届けが出されています。公に譲ったと言えない相手の手に渡ったものは明らかなので、おそらくは、女性かと」
「では捕まった男は、前公爵の子供ということか?」
「いえ。殿下はご存知無いかも知れませんが、今から三十年ほど前に、耳の下が腫れる病が流行った時に、前公爵様がその病に罹患されました。医師が言うには、その時点でミルフォード様は、お子ができにくい身体になられたと。なので、おそらくは現公爵マックスウェル殿の息子かと」
まだ憶測の範囲ですがとオルドリッジは言う。
「では、二人は親子で共謀していたのか」
ウイリアムが尋ねるが、
「それが不思議なことに、そうではないようです」
捕まった男は、己を現陛下の弟だと思っているようなのでと、宰相は苦笑する。
「まぁ、王家が紋章を金以外で作ることなどありませんが、庶民や下位貴族はそのことを知らないものも多いですからね」
そう言って本を閉じると、また、どこかへと仕舞った。それが不思議に思えた香菜姫は、
「オルドリッジよ、今のは其方のマジックボックスか?」
「いいえ。私の場合は、【ライブラリー】と言いまして、書籍限定の物になります。しかも、五百冊という上限付きです。もっとも、仕事柄、非常に便利なので重宝してますが」
その言葉に、五百冊もの本が入る書棚を背負ったオルドリッジを想像した姫は、その姿をまるでカタツムリのようだと思ったものの、口に出す事は無かった。
捕まった男は、自分が何者か判ったかと質問する以外は、口を開こうとしないという事なので、香菜姫は一計を案じることにした。
「妾にいい考えがある。これじゃ」
先程仕舞った壺を取り出す。
「あの者は、これが何か、判っておるかも知れんのじゃろう?ならば、より強い効果が見込まれようて」
何、少し怖い思いでもすれば、重い口も軽くなるだろうと笑い、花紋様の白狐を呼ぶ。
「華王、朧舞を頼めるか」
「畏まりー」
「そうじゃの、走野老か曼陀羅華あたりが良いな」
「おや!善いのですか、あれ等を使うても」
「少量ならばの。ちぃとばかり幻覚を見る程度じゃ」
「では、術の間は絶対に近づかぬよう、お気をつけを。うっかり吸い込もうものなら、危のうござります」
「そうじゃな。ならばヘンリーよ。声を送る魔法はあるのか?後、喋ったことを留め置く魔法とか。なんせ側によると危ないでな。出来るだけ離れておきたいのじゃ」
「ありますよ。声を風魔法にのせる方法と、こちらの保存用の魔法陣ならば、ちょうど良いかと。風魔法は、得意な者が一人、心当たりが」
「では、それで頼む。手筈はこうじゃ。まず、妾が……」
******
コトン
何かが置かれる音がしたので、ダレンがそちらを見ると、見覚えのある壺が、いつの間にか牢のすぐ前に置かれていた。
ぞわりっ……
ダレンの全身に鳥肌が立つ。
(あれは、何度か埋めた事のあるのと同じ壺か?何故こんな所に…もしや依頼人が、俺迄裏切ったのか?いや、それよりもどうやって此処に?誰も入って来ていないのに……)
すると壺の周りに、どす黒い煙のようなものが蠢き始めた。まさか、ここで魔素溜まりが作られるのかと慌てるが、それは人のような形となり、ゆっくりとダレンの牢に近づいてきた。
(なんだ、あれは……)
ダレンは下がれるだけ目いっぱい後ろに下がるが、ベッドが取り付けられている壁よりも後ろに下がれるはずもなく、体を埋もれんばかりに壁にぴったりと張り付ける。
(入ってくるな、頼むから、ここに入ってくるんじゃない……)
しかし、それは鉄格子をすり抜け、牢の中へと入って来て……彼のすぐ前でゆらりと止まった。そして……
『…なぜ殺した……なぁ、ダレン、なぜ俺を殺したんだ……』
それは地の底から響いてくるような、低くしゃがれた声だった。
(まさか……クリフ?)
「ひっ、よ、よるな。クリフ、お前はもう死んだんだ…」
どす黒い影は、ダレンの周りを取り囲むように、蠢く。その声は右から聞こえたかと思うと、次は左からと定まる事が無く……
『…そうだ死んだ…お前に殺されたんだ……何故俺を殺した?俺たちは、二人で一人だったのに…』
「め、命令されたんだ、お前の依頼人から!お前は少々余計なことをやり過ぎたって!このままだとお前から依頼人の事がばれてしまうからって!恨むんなら俺じゃなく、奴を恨めよ。それに、俺は王弟なんだ。お前みたいな犯罪者が身内にいるなんて、お、汚点もいいところだ!」
『…だから殺したのか…牢の奴らもお前が殺したんだな……』
影が首や腕に絡まり付き、その形は徐々に人か獣か判らなくなっていく……
「ち、ちがう!あいつらは依頼人の手下の男が…」
『手下…』
「下働きのノーマンだ!」
『…あぁ、あいつか…あいつが皆を…』
「そうだ。だから、恨むんなら俺じゃなく、あいつらを恨めよ!」
『…だが、俺を刺したのは、お前じゃないかぁああああ!!』
その瞬間、大きな魔物の影が牢いっぱいに広がった。ガルルルッ、と唸り声が耳元で聞こえ、生暖かい息が首筋にかかり……
「だ、誰か、誰か助けてくれ!…いやだ、こんなところで死にたくない!俺は王弟で、王位に就くんだ…こんなところで死んでいい筈が……」
言葉が途切れたかと思うと、ダレンの体はずるずるとベッドの上に崩れ落ちた。
半時後
「姫様、もう入られても大丈夫かと」
「華王よ、上出来じゃったぞ。おや、まだ白目をむいて、泡を吹いておる。それにしても、存外うまくいったの」
楽しげな香菜姫の声が、地下牢に響いた。
走野老と曼陀羅華(朝鮮朝顔)は、いずれもナス科の植物で、薬の材料として栽培されたりしてはいますが、アルカロイド系の毒を含む毒草です。実は其処ら辺に普通に生えていたりするので、お気を付け下さい。ジギタリスなんかもそうですが、園芸種(ラブグリーンやエンジェルストランペットなんて名前がついてる)になると、なんの注意書きもなく園芸店やホームセンターで売ってます。




