百十七話
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黒鉄は屋敷の主・泰福と不思議な老人のやり取りを聞いてはいたが、その目は後から置かれた鏡に釘付けになっていた。
幼子の姿が映った時点で、それが誰だか思い至ったのだ。
先程懐に入れた式を、着物の上からきつく押さえる。
(なんで忘れてた?これは俺が姫さんに頼まれて、都のあちこちに貼って回った物だ。それなのに……)
己の頭を殴りつけたい衝動に駆られる。十三の歳から仕えてきた主なのだ。しかも自ら望んで『魂縛駒の術』の術を望むほど大事な相手を、きれいさっぱり忘れて、思い出しもしなかったのだから。
もっとも、香菜姫とその神使達についての記憶を失ったのは、姫と関わりのあった者全員であり、その理由も老人の話で判ったが、だからといって納得出来るものではない。
なにせ黒鉄は記憶が戻ると同時に、香菜姫が異界に拐われた時の事を、思い出したのだから。
(姫さん達の足元で怪しい文様が光った時、急いで側に行こうとしたのに、俺は間に合わなかった……)
あの時感じた焦りと恐怖、そしてそれ以上の絶望感を思い出し、歯軋りする。
しかも更に腹立たしいのは、その感情が直ぐに上から色を塗り被した様に、香菜姫の記憶と共に消え失せた事だ。
黒鉄の記憶は、白椿の枝が欲しいと奥方から頼まれたさきとなつめの護衛として、裏山に来たという記憶に置き換わっていた。
その為、さきとなつめが白椿の枝を数本、手折るのを待ち、何事も無かったとして、屋敷に戻ったのだ。
それから今日まで、黒鉄はなんの疑問も抱かずに香菜姫の弟である泰連の護衛として、過ごしていた。
大事な主を拐った挙句、己等の記憶まで奪った異界の神とやらに、殺意が湧く。しかし、その時聞こえた老人の言葉は、そんな黒鉄の思い全てを吹き飛ばした。
『彼らはその姫に使えし者達。本日、神宝の力を借りて、忘られた姫の元に送らんとす……』
(送る?俺達を姫さんの所に、今から?)
どくん。
黒鉄の心の臓が、大きく打つ。
智乃が何か言っているが、余りにも大きな己の鼓動のせいか、内容が理解できない。それでもさきとなつめもまた、香菜姫の元へ行くことを喜んでいる事だけは判った。
(姫さんに会える!)
鏡に映る姫を見ながら、この部屋で過ごした日々を思い出す。
(今度こそ、絶対にお側を離れない!)
『心からの願いを込めて、ただ一度、振りなさい』
黒鉄は老人から渡された鈴を握ると、思いの全てを込めて鳴らした。
***
目が眩む様な光と共に身体が宙に浮き、驚いたさきとなつめが黒鉄の両腕にしがみつく。
足元で光っているのは、花は無いものの、あの日の白椿の木だ。
『此処こそが、異界へ通ずる道筋の起点。向かうがよい。我が眷属達が待つ世界へ』
『さぁ、今こそ我が神力を受け取れ』
『雷雲よ集え。今一度、彼の世界への道を示すのだ!』
『香菜を宜しく頼みましたぞ』
幾つかの知らない声に混じり、聞き覚えのある声が告げると同時に、辺り一面が真っ白に光り、それが渦となって黒鉄達は吸い上げられた。
(姫さん。今、お側に!)
ドンッ!という衝撃を受け、さきとなつめは倒れそうになるのを、黒鉄にささえられ、なんとか堪えた。
三人揃って辺りを見渡す。そこは野原の真ん中だった。周りにはこれといった建物は見えず、おまけに寒い。
皆、夏用の単を着ている為、ガタガタと震えだした。
「こ、ここに、姫様はおられるのでしょうか?」
「ま、間違いなく、姫様が居られる世界、なのですよね?」
「だとしても、いったいどちらに向かえば?」
その時、なつめが黒鉄の懐の式に気づいた。
「黒鉄。それ、姫様の式ですよね。確か御屋敷のあのお部屋に届くようになっている。なら、それを使えるのでは?」
「そうだ、この部分を消して、姫様に届くようにすれば!あぁ、くそっ。書くものが」
何もないと言おうとした黒鉄の手の中に、どこからともなく、矢立が現れた。
「どこから出て来たのでしょう?」
さきが不思議そうに言うが、そんな事に構ってはいられない。直ぐにでも姫に会いたい黒鉄は、しわだらけの式を膝の上で出来るだけ丁寧に広げると、土御門家・香菜ノ居室の文字を、香菜だけにする。
すると式は、余分な文字を消した途端にヒュンと飛び出し、瞬く間に見えなくなってしまった。
「飛んで行っちゃいましたね……」
「でも、あの先に姫様が居るってことですよね!」
確かにここに香菜姫がいると確信できた三人は、次は慎重にする。
黒鉄が進もうとする式を逃さぬように摘み、さきとなつめは両側から手を添えて、そろそろと進む。
然し何年も雨風に晒されていた式は、脆くなっていたのだろう。黒鉄の指の形の紙を残して、ふらふらとしながらも、飛び去ってしまった。
残されたのは、後1枚。このまま進めば会えるのは判っていても、出来れば直ぐに会いたいという思いを抑え、黒鉄は慎重に矢立の筆を取り出した。
***
障子を突き破って入って来た式は、香菜姫の上を旋回し始めた。
『六角堂、雷、雨、雷。六角堂、雷、雨……』
「この式は……」
暫くすると、更にもう一つ飛んできた。こちらもシワが寄っている上に少し破れており、フラフラしているが、やはり香菜姫の周りを回りだす。
『四条、雷、雷。四条、雷、雷……』
「これは妾が黒鉄に命じて町中に配置した……この式が、何故ここに?まさか、誰ぞ……」
又しても誰か召喚されたのではと、慌てて表に出る。
「姫様、我に!」
華王に促され、その背に乗ると、香菜姫達は式が飛んできたと思しき方角に向かい、駆け出した。
直ぐに人影が見え、声が聞こえて来る。
「黒鉄、最後の一枚です。なんとしても、離してはなりませんよ!」
「や、破いても、ダメですからね」
「判ってます、判ってますが…」
そこには、香菜姫がとうに諦めていた景色の一つが、あった。二度と目にする事は無いからと、胸の奥に押し込めた懐かしい日々の多くを占めるその面々を前に、胸が詰まり、涙が溢れる。
夢ではないかと思いつつ、姫はその名を呼んだ。
「黒鉄!さき!なつめ!」
その声を聞いた三人の動きが一瞬止まり、直ぐに顔を上げると、その手から離れた式が香菜姫に向かって飛んでくる。
それは直ぐに姫の側まで来ると、その頭上でくるくると回りだし、それを見た黒鉄達が、こちらに向かって駆け出した。
華王から降りて駆け寄る姫が、転びそうになるのを、黒鉄が素早く受け止める。
「姫さん、お久しぶりです」
黒鉄が笑いながら言うと、直ぐさま、さきとなつめも寄って来て、姫に抱きつく。
「姫様!」
「香菜姫様!」
懐かしい声と、その温かさが嬉しく、こぼれる涙は止めようもない。
「三人とも、妾の事を覚えておるのか?」
さきとなつめに抱きしめられた香菜姫の問いに、
「もちろんですよ」
「覚えておりますとも」
揃って頷く。
その顔には少しばかり皺があるが、記憶のままの姿に、新たな涙が浮かぶ。
「二人とも、変わらぬの」
言いながら、護衛の方を向く。こちらは記憶とはかなり違いがある。
「黒鉄は……えらくおじさんになったのう」
記憶にあるよりもずっと背が高く、ガッシリとした体躯となった護衛を見上げながら言う。
「姫さん、そこは逞しくなったとか、男ぶりが上がったとか、他に言いようがあるでしょうに」
黒鉄は苦笑するが、その目元には滴が溜まっており、今にも溢れそうだ。
いつの間にか稚児姿となった華王と周王は、さきだ、なつめだと言いながら、二人にしがみついている。
「しかし、いったいどうやって此処に?」
「不思議な老人が貸して下さった鈴を振ったら、来れました」
黒鉄がここに来るまでの経緯を、香菜姫達に説明する。
「その方は、道真公のお計らいだと申されておりました」
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今週末から来週にかけて、少し忙しいため、来週の更新はお休みいたします。
その為、次作の投稿は12月7日午前6時を予定しています。
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