百十六話 元禄十四年(1701年)
「篁卿はおられるか!」
家人が止めるのも無視して屋敷の中をドカドカと歩き回り、大声を出す者の声に、篁は聞き覚えがあった。
(あの御仁にこの中を歩き回られて、書物に火でもついたら、目も当てられん)
書庫に籠もっていた篁は、仕方なく手にしていた書を書架へと戻し、声のする方へと向かった。
「その様に大声を出さずとも、この篁、まだ耳は聞こえておる。それよりも貴公はいいかげん、先輩に対する礼儀を覚えるべきではないか?」
事実、文章生としては、小野篁は菅原道真の五十年ほど先輩に当たる。
しかし神としての優位はまた別だ。社や詣でる者の数が多いほど、神としての力は強く大きくなる。その為、篁以上に学問の神として崇められている道真は、その言葉を歯牙にもかけない。
「十種神宝を、暫し貸して頂きたいと思うてな!」
「道真公。あれは貸せと言われて、どうぞと差し出せる物ではありません」
十種神宝は饒速日命が天降りする際に、天神御祖から授けられた御品で、神界においても貴重な宝だ。
篁は、あくまでも己は管理者でしかなく、自由に使用する権限など持ち合わせていない。しかも一つは使用中だと伝える。しかし。
「なにを言う。お主が野相公等と名乗って、勝手に貸した事があるではないか。しかも、長い間戻ってこなんだと記憶しておるが」
しかもそれが原因で、智乃に悪意あるモノの手が伸びるところであったのだと、睨みつける。
「それに今使用している物も、その事の尻拭いの結果ではないか」
厭味ったらしく言われるが、いづれも事実なだけに、篁は反論できずにいた。
主を亡くした神使が余りに哀れに思え、十種神宝の一つ、死返玉が嵌め込まれた鈴を貸したのだ。しかしそれは返される事はなかった。
系譜は違えど神との約束を神使が破るなど、考えもしなかった篁は、流石に焦ったが、数年経ったある日、鈴は突然戻って来た。そして更に年月を重ねたある日、例の神使が惨めな亡骸と化した事を知ったのだ。神宝の一つは、その亡骸を包んでいる。
「だからこそ、です。もう二度と同じ轍を踏む事がないようにしたいので」
決意を込めて、道真の意に添えない事を伝えるが、
「そういえば、貴殿は珍しい書を集めておられるとか」
くつくつと笑う道真公の周りを、バチバチと音を立てて稲光が走り、そのせいで辺りに小さな火の粉が舞う。
「私を脅すのですか?」
言うことを聞かねば、書物を燃やすぞと言っているの同様の言葉に、篁が眉をしかめる。
「なんと不穏な物言いを。これはただの交渉だ。それに同じ轍を踏むのが嫌なら、貴殿自らがその場におれば良い。さすれば使い終わった時点で、全て回収できよう」
なにせ道真公にとって、これは智乃に関わること故、相手の都合や思いなど、一切関係ない。
引くことなく、ただ押し続ける交渉の結果、篁卿は三つの神宝を貸すだけでなく、その場での手伝いまで、約束させられた。
***
元禄十四年水無月二十日。辰巳の刻(午前8時から10時ごろ)。
「ひぃっ」
頭を座布団で覆ったさきは、何十回目かの悲鳴をあげた。
昨夜から降り続けている雨は、止むどころか更に勢いを増しており、おまけに今朝は早朝からずっと、雷が鳴り響いている。
さきは子供の頃から雷が、大の苦手だった。遠くでゴロゴロいってるくらいなら問題ないが、稲光と、空気どころか家屋まで震えさせる轟音は、いい歳となった今でも、どうしょうもなく怖いままだ。
「ねんぴかんのんりき、おうじとくしょうさん。ねんぴかんのんりき、おうじとくしょうさん。ねんぴかんのん……」
だから朝からずっと、これさえ唱えておけば大丈夫だと昔教わった文言を、座布団の下で、必死に唱えていた。
『この屋敷では、母上の機嫌が悪いと、直ぐにゴロゴロと聞こえてくるからの』
唱えているうちに、困ったように言う幼い声が、思い出される。
その声の主が、もっと長い文言だったものを、覚えきれないさきの為に、ならばここだけでも良かろうと言って、教えてくれたのだ。
(あれは章姫ではなく、泰誠様?いや、違う。もっと……)
そこまで考えた時、一瞬、辺りが異様に明るくなった為、さきは次に備えて座布団を押さえる手に力を込めた。
ドーン、ガンガラガラ……
なつめは針仕事の手を止め、庭の方に目を向ける。全部を閉め切ると暗い上に暑い為、雨戸は半分だけ開けられており、とうに夏用の簾戸に変えられた建具の隙間から、湿った生温い風が入って来る。
(早く仕上げてしまわないと……)
最近すっかり娘らしくなった章姫の為に、新しい着物を縫っているのだが、何故か作業が思うように進まずにいた。
先だって、章姫から古い背当ての刺繍を見せられてから、どうも胸の辺りがモヤモヤとして落ち着かず、それが作業の手にも影響しているように思える。
今二人がいる部屋は、侍女として仕えている章姫の居室の側にある空き部屋で、今は亡き嫡男・泰誠が勉強部屋として使っていた場所だ。
そのため部屋の隅には造り付けの書棚があり、多くの書物が並べられている。
そこに、ふいっと何かが入って来た。
それは鳥型の式で、部屋の中をぐるぐると旋回し始める。しかも、何やら囀っているようだ。
(えっ、なんで式がこんな所に……)
『西七条、大雨、雷』『四条、雷、雷』『西七条、大雨、雷』『鴨川、氾濫』『六角堂、落雷』『鹿が谷、大雨、雷』…………
そう思うまもなく、それらは次々と入ってきて声高に囀るものだから、外の音と相まって、さきとなつめは耳が変になりそうになっていた。
そこに、黒鉄が飛び込んできた。
**
少し前。
黒鉄は朱鉄や他の護衛共に、広い座敷で落ち着かずにいた。
昨日、あまりの豪雨の為に、土御門家の使用人長屋ではあちこちで雨漏りが起きた為、主の計らいで昨夜のうちから全員、母屋に避難していた。
その為、当初は慣れない場所のせいだと思っていたのだが、どうも違う。
何故か、何かしなくてはという思いがして、仕方がないのだ。
(この雨の中、俺ごときが何か出来るわけでもないのに……)
風呂敷を開いて、この場に持ってきた己の荷物を見る。その一番上にあるのは京の都の地図だ。護衛になったときに次郎爺から貰った物だが、不思議な記号が随所につけられている。
それが何を意味するのか判らないものの、捨てることが出来ずに、ずっと持っていた。
それが突然、ふわりと浮き上がる。
あっと思った黒鉄がそれを掴もうとするが、その手から逃れるように地図は飛んで行く。やがてそれは座敷から出て、ある場所へと向かって行った。
『六角堂、落雷』『鹿が谷、大雨、雷』『西七条、大雨、雷』『四条、雷、雷』『西七条、大雨、雷』『鴨川、氾濫』『仙洞御所、落雷』……………
その部屋では、多くの式が旋回していた。地図を追って部屋に飛び込んだ黒鉄は、その光景になんとなく見覚えがあった。ただ、いつ、どこでの事か思い出そうとすると、途端に霞がかかった様になる。
各地の被害を報告している式を、幾つか掴み取って見る。そこに書かれている文字にも懐かしさを感じた。
(誰の書いた物なんだろう…)
黒鉄を追ってきた朱鉄をはじめとして、護衛や侍女が集まりだし、果ては主やその奥方までが、その部屋の入り口に集まって来たが、何故か見えない壁の様な物に阻まれ、入る事は叶わずにいた。そして。
いつのまにか雨戸が全て取り払われ、簾戸が開け放たれたれて、そこから一人の老人が入ってきた。宙に浮かんだその姿を見て、その場にいた者達は皆、老人が、ただならぬ存在である事を察した。
その手には、八寸程の鏡が二枚ある。
「これは辺津鏡」
老人はそう言いながら、一枚を縁に置いた。すると鏡はしゅるしゅると三倍もの大きさとなる。そして部屋の中の黒鉄達だけでなく、部屋に入れずにいる智乃や章など、大勢の姿を映し出していた。
「そしてこちらは、沖津鏡。此度は遥か遠方の異界に取り込まれてしまったが故に、忘れられることとなった者の、かつての姿を映し出そう」
もう1枚も、先程の鏡に並べるように置く。やはりそれも大きくなり、そこには赤子の姿が映し出された。
「あれは……」
智乃と泰福が同時に声を上げる。赤子の姿は直ぐに幼子のものとなり、その姿に皆の記憶が巻き戻っていく。直ぐにさきとなつめが「姫様」と声を上げ、多くの者がそれに続く。勿論、黒鉄もその中にいた。
「姫様」
「香菜姫さま」
「姫様…」
「姫さん…」
徐々に大きくなって行くその姿に、
「香菜…………なにゆえ妾は忘れて……」
智乃に至っては、口元を押さえてほろほろと涙を流している。
(まさかこれで、泣かせたと責められたりはせんであろうな)
「ご老人。娘は、香菜は今どこにいるのですか?それに、なぜ我々はあの子の事を忘れていたのです?」
少しばかり不安になっていた篁に、泰福が問う。
「先にも言うたが、この姫は異界の神によって、あちらの世界へと連れ去られた。その為、元から存在しなかった事にされたのだ」
「戻ることは、出来ないのでしょうか?」
縋るような智乃の言葉に、篁はゆっくりと首を横に振る。
「そんな……」
失意で崩れ落ちる智乃を支えながら、泰福は異界の神を呪った。娘を奪っただけでなく、その思い出さえも消されていたのだから。
「本来、ここは件の姫の部屋であった。彼らはその姫に使えし者達。本日、神宝の力を借りて、忘られた姫の元に送らんとす。邪魔するは認めん」
言いながら智乃の方を見る。
「これは道真公の計らいでもある。せめて姫と親しかった者達が側に居れば、寂しくなかろうとの事じゃ。たった一人でいるよりも、あの三人が一緒にいる方が良かろう」
その言葉を聞いた智乃は、さき達に尋ねた。
「良いのですか?このまま香菜の元へ行ったら、其方達も戻れないのですよ?」
無理矢理送るなど、香菜姫を連れ去った異界の神と同じたと思ったのだ。しかし。
「お任せください。姫様の事は私がしっかりお世話いたしますから」
「私も姫様のお好きなものを、たんと作って差し上げます」
なつめとさき、どちらも嬉しそうに笑っている。
黒鉄を見ると、今にも鏡に突撃しそうだ。
「ならば、お願い致します」
智乃は大きく息を吸って吐くと、篁に頭を下げた。篁は頷く。
「この鈴は、神宝の足玉が嵌め込まれたもの。ただ一度、願いを叶えてくれよう」
言いながら、鈴を取り出すと黒鉄に手渡した。
『心からの願いを込めて、ただ一度だけ振りなさい』
老人の言葉に頷いた黒鉄は、さきやなつめと顔を見合わせると、ずっと見失っていた己の願いを口にしながら、鈴を鳴らした。
「我が主、香菜姫様の元へ!」
チリーーン……
ドーーン!!
次々と鳴り響く雷の大音量の中、ひときわ大きな音がした。
しかしそれは空からではなく、地表から空へと向かい放たれた光によるものだった。
さきが唱えているのは、阿弥陀経の一節
「雲雷鼓掣電降雹澍大雨念彼観音力応時得消散」の、更に一部です。
また元禄十四年水無月、十九日から二十日(1701年7月24日~25日)にかけては、本当に大雨と落雷が京の都を襲いました。




