百十五話 元禄十四年(1701年)
元禄十四年、水無月。
バリバリバリッドーン!!
阿古町の屋敷の上空に暗雲が立ち込めたかと思うや、天を引き裂かんばかりの稲光が辺りを照らし、爆音と地響が同時に起きた。
揺れ動く屋敷に驚き、何事かと家人が数人慌てて外に出ると、そこには憤怒の表情をした、道真公が立っていた。
怨霊と化した魂を鎮める為に、神として祀られて既に八百年近く経ったとはいえ、いまだもって怒らせてはならぬ神の一人として恐れられているのが、菅原道真公だ。
その道真公が、何らかの理由で屋敷の主に対して腹を立てているのは、その足元に空いた大穴からして、明らかだ。
「阿古町!どういう事か、直ちに説明せい!」
公の声は雷音をまとい、辺りに稲光が走る。その度に屋敷のあちこちに落雷するものだから、そこかしこに火がつき、辺りは大変な騒ぎとなっていった。
果敢にもその前に立ち塞がったのは、阿古町の屋敷の守護を受け持つ神狐達だ。
ただし、この場で武器を手にするのは、相手を更に怒らせると判断したのだろう。皆、武器は持っていない。
その後ろでは、家人の気狐達がせっせと火を消して回っている。
「道真様、その様にお力を溢れるままにされては、屋敷が壊れてしまいまする!」
「今すぐ、お収めください!」
なんとかして、道真公の怒りを鎮めて貰おうと、言葉をかけている。だが。
「うるさいわ!」
その一言で、屋敷の一部と共に吹き飛ばされてしまう。そこへ、侍女達を引きずるようにして阿古町が奥から現れた。
「命婦様、危のうございます!」
「ここは家人達に任せて、安全な場所に……」
「ええぃ、邪魔するでない!」
更に袖を引き、行く手を遮ろうとする侍女達を一喝すると、騒ぎの大元を睨みつけた。
「神使とはいえ、神としても祀られておる妾に対し、これ程迄に不躾な訪問をされるとは。いったいどの様な御要件で参られたのか、御説明下さいまし」
言いながら、辺りの悲惨な様子を見る。庭には大穴が開き、屋敷の玄関や屋根は壊れ、至る所に焦げ跡が付いており、多くの神狐や気狐が傷付き、倒れていた。
阿古町は怒りのあまり、着衣はそのままに姿を白狐のものと変え、傍若を働いた上位神に向かって牙を剥く。しかし。
「阿古町!香菜は、いつからおらん様になったのだ!」
道真公のその言葉に余りにも驚いた阿古町は、今しがた生まれたばかりの怒りまで、吹っ飛ばしてしまった。
(なんと、この御仁は今頃気付かれたのか?!いくら、智乃殿以外は興味がないとはいえ、これは余りにも……)
なにせ香菜姫がこの世界から消えてから、既に八年以上の歳月が流れていたのだ。
***
その少し前の、皐月の頃。
「母上、少し宜しいでしょうか?」
智乃の部屋に顔を出したのは、子の中で唯一の女児である章だ。最近好んで身につけている鶴と芍薬柄の着物が、優しげな顔立ちの娘に、華やかな雰囲気を与えている。
「おや、章。今日は神楽の稽古は無かったはずじゃが、いかがした?」
言いながら、智乃の頭にふと、その着物を纏った別の人物の姿が思い浮かぶ。何故かそれが大事なものに思えた智乃は、その朧気な記憶をなんとか手繰り寄せようと試みるも、それは霞の様に消えてしまう。
「母上、もしこれと同じ物がありますれば、分けて頂きたいと思いまして。ただ、兄上の形見でありましょうから、お嫌なら諦めるのですが……」
そう言いながら章が差し出してきたのは、薄紅色の糸で籠目紋が刺繍された布だった。かつて、生まれたばかりの妹の為に、兄・泰誠が手づから縫った産着だった物だ。
それが解かれ、小さな巾着となっている。しかも何度も洗った為だろう。既に刺繍はあちこちが解れて、ボロボロの状態だ。
「これを懐に入れていると、蚊にくわれないもので……」
章の言葉に、智乃はその当時の事を思い出した。
「出来上がったばかりだった為であろう。その背守りはやたらと強力でな。蝉でさえ、ころりとやられておったわ」
いったい何をやらかしたのかと問い詰めたものよと、笑いながら言うものの、またしても相手の姿がぼやけている。息子泰誠のはずなのに、何故か違う気がしてならないのだ。
「確か全部で四枚あったはず。章が一枚持っておるなのら、まだ三枚残っている筈じゃ」
それを聞いた章が、ホッとした顔をする。三枚あるならば、一枚譲り受けても問題ないと思ったのだ。侍女に探すよう命じる母の横に座り、刺繍を広げるように見せる。
「実はなつめに習うて、同じ物を縫ってみたのですが、白糸の刺繍の文字がよく判らなくて。兄上はなんと刺繍されたのか、ご存知でしょうか?」
「確か次郎爺の技がどうとか申しておったの。そこから思いついたとか……さて、なんという文字であったか」
そこで『撃打伐虫』という言葉と共に、又しても別の者の姿が浮かぶ。
(好奇心の詰まった瞳をした、明るい声の……あれは女子か?)
しかし智乃が産んだ女児は、章だけだ。
(もしや、生まれなんだあの子が淋しくなって、母を呼んでいるのでは?)
そう思うと、これまでの事も、なんとなく合点がいく。
「寂しがっているのでしょうか…」
神棚の前で、ポツリと呟く智乃に、誰の事か尋ねようとした道真公は、最近香菜姫を見かけていない事に気付いた。
その事を智乃に問おうとしたが、そこで香菜姫の名を口にする事が出来ない事に愕然とした。何度もその名を言おうと口を開けるが、開けると共にその名が何かに飲み込まれてしまい、声に出来ない。
そこで漸く道真公は、大事な智乃の娘が、とんでもない事に巻き込まれていた事に気づいたのだ。
***
「なぜ智乃の娘が、異界になんぞに連れ去られたのだ!」
かつて香菜姫から聞かされた話を道真公にした阿古町は、まるで全ての責任が此方にある様な物言いを道真にされ、その顔を曇らせる。
「なぜ、香菜だったのか、妾には判りもうせぬ。しかし、連れ去られたのは事実。しかも、既に八年以上前の事。まさか今頃気づかれるとは」
その為、嫌味の一つくらいは口にしないと気がすまない。
「娘だ。てっきり嫁にでも行ったものだと……」
(執着している人間以外には、これ程迄に興味が無いとは……)
「今回の事は、異界の神が関わっている事が既に判っております。従って、取り返すのは無理な事は、判っておられよう。かつて取り戻そうとした神が、どの様な結果を迎えたか」
香菜姫から話しを聞いた後、それでも何か方法は無いかと、阿古町は調べていたのだ。しかしその結果は、希望の欠片さえ無いものだった。
「あれは、高速で回転する渦のようなもの。逆行するは不可能に近く、仮に出来たとしても、余りにも時がかかり過ぎまする」
高天原におわす神でさえ、出来なかったのだと言う阿古町の言葉に、道真公もかつて聞いた話を思い出した。
「武内宿禰 か」
阿古町が頷く。
御伽草子などで知られる浦嶋子(浦島太郎)の話は、実は神である彦火火出見尊(山幸彦)と人との間に生まれた息子の事だということは、神々の間では知られた話だ。
人の身でありながら、祖母神である木花之佐久夜毘売の美貌を受け継いだ浦嶋子は、その見目麗しい容貌から異界の神の目に留まり、あちらの世界に取り込まれることとなった。
嶋子の母親からその事を聞かされた彦火火出見尊は、何とかして我が子を取り戻そうと、急ぎ無目籠を作り上げると、『父母が心配しているゆえ、直ぐにこの籠に入り、此方に戻り給え』と言霊を貼り付ける。
そして無目籠の中に十種神宝の中から選んだ宝玉を三つを入れ、己の神力の大半をかけて息子の後を追わせ、異界へと送る事には成功した。しかし、そこからが時間がかかった。
招きの道筋は、『行くは一瞬』だが、戻るには膨大な時を要する。その事は、彦火火出見尊も承知していた為、その策を講じてはいた。
神の血を引くとはいえ、所詮浦嶋子は人の身。その身体は到底、百年も持たない。だから嶋子が籠に入った途端、その魂と肉体を分け、籠の中にその肉体を封じる事にしたのだ。そうして、『魂』と『肉体が入った籠』として引き戻すよう、取り計らった。
勿論、魂が抜けた身体が腐らぬ為には、三つの宝玉の力を要した。
そうして彦火火出見尊は武内宿禰 を名乗ると、人の世で籠が戻るのを待ち続ける事にした。
その間、なんと三百年。人としての寿命はとうに超え、武内宿禰 は怪異のような存在となっていた。
そうまでして待ち続けた籠だが、漸く我が子に会えると喜び勇んで無目籠の蓋を開けると、その姿は一瞬で老いさらばえて、骨と化したのだ。
その時の彦火火出見尊の嘆き悲しみは、余りにも大きなものだった。費やした時と力、全てが無駄であったと、証明されたのだから。
「ですが、まだ送ることは出来るやもしれません」
思案しながらの阿古町の発言は、道真公の興味を引いた。
「どういうことだ?」
「こちらの者を、香菜姫のいる世界へ送る事は出来るやもと。あれは完全に閉じるのに、かなりの時間を要しますゆえ。ですから、香菜の母親を送る事も……」
「智乃まで渡せと言うのか!」
「もしくは、香菜姫と近しい者たちを送れば、智乃殿も安心なされるのでは?」
その提案を、道真公は気にいった。元は怨霊の神ゆえ、身勝手は当たり前。大事なのは智乃の平穏無事なのだから、その為ならば人の三、四人を異界に送り込むことに、躊躇することはない。
「しかし、既に奴らの記憶からは、香菜は消えておるぞ。それをどうするつもりだ?」
「十種神宝の御力をお借りすれば、一時的に戻るのではないかと」
「十種神宝か……篁に借りを返して貰うとするか」
十年程前、篁が情をかけた事から発した事件で、智乃や屋敷の者達に大層迷惑がかかったことを思い出したのだ。道真公は、その時の借りを返してもらういい機会だと思い、ほくそ笑んだ。
家人とは
貴族などに仕えていた武士団のリーダーを「家長」(かちょう)、その従者を「家人」(けにん)と呼びました。(刀剣ワールド参照)
無目籠は竹で編んだ目の細かいカゴのこと。カゴを船として利用していたそうです。
また、武内宿禰 を山幸彦が人に化けた姿だとしたのは、私の勝手な創作ですが、もし似たようなお話があるならば、お知らせいただきたく思います。簡単に調べた中には、ありませんでしたので。




