百十話
「あら、私を目の前にして、そんな判りきった事をお聞きになるの?」
アデラ・トレも負けじと艶然と笑いながら、しなを作る。殆どの男達は、これだけでボウッとした表情を浮かべてくる。当然、目の前の男もそうなると思っていた。しかし。
「この程度の顔で、篭絡できると思われているとはね」
男はそう言って、笑ったのだ。それは明らかにアデラ・トレの美貌を馬鹿にした態度だった。
「なんですって!」
露骨に怒りを表す王女には目もくれず、男の目線は広間の大扉へと動く。
そこにはいつの間に現れたのか、女騎士にエスコートされた異国の女性の姿があった。見たこともない形の衣服を幾重にも重ねて着用し、その裾を大きく引きながら音も立てずに歩く姿に、目が行く。
次に梳られ、背に流れる艷やかな黒髪と、その華やかな顔が目に入った瞬間、その場にいた者達は皆、息を呑んだ。
真珠のような輝きを放つ肌に、長いまつ毛に縁取られた、切れ長の黒い瞳。そして敢て下唇にだけ引かれた紅は、その形の良さを引き立たせている。
ケンドリックはその女性の前へと歩いていくと、恭しく跪き、女性の手の甲に口づけた。そしてガレリアからエスコートを交代すると、唖然とした顔のペルギニ国王の前へと向かう。
「国王陛下にご紹介をしたいお方が、到着されましたので、お目通り叶いますれば」
「もしや、その御方は……」
緊張した面持ちのアロンゾ・ヌメ王が呟く。
「わが国で最も尊い方に、仕えておられる方です」
これ以上の言葉は必要ないだろうと言わんばかりのケンドリックの態度から、その場にいたペルギニ王国の面々は、その女性こそが聖女、香菜姫だと認識した。
「いつの間に、来られたのですか?」
王の後ろに控えているカーチア・ウン王女が、不思議そうに問う。当然だろう。彼等は門番や衛兵達からは、何の報告も受けていないのだから。
「我が国の聖女様は、天翔ける神獣をお持ちであられますから」
第一王女の問いにケンドリックは軽く答えるが、これには聖女は好きな時に、好きな場所を訪れることが可能だという事を暗に示していた。
当の聖女はにこやかに笑っているが、彼女が望めば、この首程度は簡単に落とせると言われたも同じだと気付いた王は、顔色を失う。
「確かにその様な話は、聞き及んでいたが、まさか本当だとは……」
目の前の女性の美しさに惑わされてはならぬと、王は己の肝に命じた。
***
「それにしても、可愛らしい華王殿が、これほど美しい女性になれるとは、今でも信じられません」
ガレリアが見慣れぬ物を見るような目で、女官姿の崋王を見ながら言う。褒められて、まんざらでもないのだろう。崋王の頬が緩む。
「大人の姿となれるは、別に周王だけではありもせん。これまで機会がなかっただけで、この程度、我には容易いこと」
言いながら、香菜姫に報告する。
「朧舞を用いて少しばかり幻惑の粉を撒きました故、我の姿をはっきりと覚えておる者はおらぬかと」
朧舞とは目的に応じて配合した薬草を、粉末もしくは液にした物を撒く術で、崋王が得意とするものだ。
「ならば妾達の用事も終った故、戻るとするか」
帰りは出来るだけ姿を見せながら戻ってやろうぞと姫が笑う。
そもそも今回の事は、ちょっとした確認事の為に香菜姫がオルドリッジの執務室に寄った時、オルドリッジ、シャイラ、ウィリアムの三人が頭を抱えている場に遭遇したのが、きっかけだった。
「要はその王女とやらの鼻っ柱を、へし折ってやれば良いのじゃろう?妾に良い策がある。少々面倒じゃが、妾自らが出向いてやろうぞ」
自信有り気なその言葉に、三人は少々面食らった。いくら香菜姫が見目麗しいとはいえ、それはまだ幼さが残る美しさだ。
それ故、四歳以上年上の美姫相手に張り合うのは少しばかり無理があるのではないか。三人揃ってそう思ったのだ。しかも、どうやらそれが顔に出ていたらしく、香菜姫がムッとした顔になる。
「妾が顔見せするわけではないわ。崋王よ」
「あいな」
返事と同時に崋王がポンと跳ねると、そこには華やかな着物を纏った女官が現れた。
その変化を見た三人は納得して、今回の姫の計画に乗ることにしたのだ。
直ぐにガレリア達に合流した香菜姫は、隠形の術を用いて姿を隠したまま、ペルギニの王宮に入ると、ガレリアが与えられた部屋で崋王を着飾らせ、懇親会が開かれる広間の大扉の側で、その出番を伺っていたのだ。
「上手くいったであろう?」
「あれで諦めてくれれば良いんだがな」
「念の為、正式に断りを入れておきますね」
「理由はどうするのじゃ?」
「そうですね。使者の顔が少しばかり良いからと、媚びを売るような国母は、いらないって事で」
「確かにの」
ガレリアに同意する香菜姫の横で、
「少しかよ」
不貞腐れたケンドリックが、ボソリと言った。
***
懇親会で大恥をかかされた上に、婚約話を断られたアデラ・トレは、あまりの腹立ちから部屋の中で大暴れしたため、姉と父の両方から自室での謹慎を言い渡されていた。
使者達はすでに帰国の途につき、彼女には挽回の機会さえ与えられなかったのだ。
おまけに王宮や、懇親会に参加した者達の間では、直ぐに帰ってしまった聖女の美しさを讃える声が溢れており、それと同時にアデラ・トレが王どころか、使者の男に迄ふられた噂も流れている。
(全部、あの女のせいだ!)
「何でも良いから、あの女の事を調べてきなさい!嫌いなものとか、弱点とか何かないの?!」
使者の男が聖女の元へと行った後、取り残されたアデラ・トレの耳に、クスクスと笑う声が聞こえて来た。
そちらに視線を向けると、聞き耳を立てていたのだろう、元取り巻きの令嬢達がこちらを見ていた。扇で口元を隠しているが、笑っているのが判る。
「使者様には自慢の美貌も、通じなかったようね」
「しっ、聞こえるわよ」
「仕方ないわよ。あの聖女様を普段から見ていれば、ねぇ」
笑い声と共に聞こえた言葉を思い出す度に、アデラ・トレは屈辱で頭が変になりそうだった。なんとしても聖女に報復したいという思いだけが募り、使える手を全て用いて色々と調べさせた。
すると、ある事が判った。
聖女が今回の戦の功績で手に入れた土地に、自分専用の屋敷を建てているというのだ。しかもそこは王都どころか、人里からも遠く離れ場所だと判ると、アデラ・トレの口角が楽しげにあがる。
「私に恥をかかせた報いを、受けてもらわないとね」
聖女が嘆き悲しむ顔が直に見たいからと、背丈の近い侍女を身代わりに立て、城を抜け出してレストウィック王国へと向かうことにした。
専属の護衛騎士八人に、侍女の仕事もさせるための女魔術師を一人を加えた一行は、船で運河と川を遡っていった。
***
マットグラス(藺草に似た草)を用いた敷物は、蘭丸が熱心に協力してくれたおかげで、思った以上の物が出来上がっていた。
藁を押し固めた物に被せた物もあり、少々分厚いが四方を布で覆ってある為、敷くと本当に畳のように見える。
それが敷き詰められた一室で、香菜姫はガレリアが届けてくれた大型のマットグラスを見ていた。
そこには、乾いた泥がついていたのだ。この草は、ガレリアの領地周辺では、家畜小屋の屋根などに使うらしいが、収穫してから屋根を吹くまでに少しばかり間があく為、その間に草が色褪せないようにと、取られる方法らしい。
そのままの物よりも、色褪せが少ないように見受けられる上、香りも良い。
(これはどの様な泥なのか、聞かねばならんな。他のマットグラスでも使えるやもしれん)
思いながら、周りを見渡す。屋敷の中には畳以外にも、竹を使った道具や建具が多く使われている。これはカルタナ島領主のヴァルタン・カレが細工職人を五人も派遣してくれた御蔭だ。
そしていつの間にか、敷地の隅に『勇者庵』なる建物が建てられていた。小さな茶室を備えたその別邸は、おそらく信長が建てさせたものだろう。マットグラスの畳が敷かれているのが、風を通すために開けられた建具の間から見えている。
(まぁ、住まいというよりは、茶室付きの休憩処といった大きさじゃし、蘭丸殿の尽力を思えば、許容の範囲内……という事にしておくか……)
しかし職人の出入りが殆ど無くなったのは流石に不用心だと思った香菜姫は、見張りを置く事にした。
***
「これが聖女の屋敷?なんて粗末な……」
大半が木で出来た平屋の屋敷は、タイルや大理石で飾られた建物を見慣れているアデラ・トレの目には、あまりに簡素に映った。しかも簡単に焼き払えそうだ。
同行させていた魔術師に、命じる。
「アレを燃やしてしまいなさい」
「しかし王女殿下、あれはこの国の聖女様の……」
「命令よ!」
王族の命令に抗える筈もなく、魔術師は術を発動させるために渋々手を伸ばす。その直後。
シュッ!
何かが閃き、魔術師の中指と人差し指の先が宙に舞い、鮮血が吹き出した。その指先の一つがアデラ・トレの胸元に当たり、赤い筋を引きながら転がり落ちる。
「ギィヤァアァー!」
痛みにのた打ち回る魔術師の前には、いつの間にか、面を着け黒甲冑を纏った者が立っていた。
『この地に害成す者、何人たりとも許すまじ!』
その地の底から響いてくるような声に恐怖を感じた騎士達の士気が、一気に下がる。しかもいつの間にか、赤甲冑を纏った者が、その横に並んでいた。
『見知らぬ者入りし時は、叩き斬れとの御命令。我等、しかと守らん!』
言いながらも、其の場から動かない相手の様子を伺いながら、護衛騎士が二人がかりで暴れる魔術師を押さえつけ、馬車へと運ぶ。そして王女に向かって叫んだ。
「王女様、すぐにこの場を離れましょう!奴らはわざわざ追っては来ないようです。離れさえすれば…」
「相手はたった二人なのよ、こっちには八人いるんだから、追ってこないのなら、離れた所から攻撃すれば、なんとか出来るでしょ?」
「絶対に出てこないという確証が無いのに、離れた所なら安全だと、どうして言えるのです。それに我々は王女殿下。まず貴女を守らなくてはならない!」
ただ戦うのと、誰かを護りながら戦うのでは、必要な人数が変わってくる。
「もし生きて国に戻りたければ、言うことを聞いて下さい!今すぐに離れましょう!」
「せっかく此処まで来たのに、何もせずに帰れというの?そんなの嫌よ!」
王女が叫んだその時。
「おや、随分と屋敷の周りが騒がしいと思うたら、どこぞの王女ではないか」
上空から声をかけられ、その場にいた者達が一斉に空を見上げる。陽の光のせいでよく見えないが、声の主は白い獣に跨った女性だと判った。天駆ける神獣。この世界でそれを持つ者を、アデラ・トレは一人しか知らない。
「聖女……」
ペルギニ王国の第二王女は、憎々しげに呟いた。
藺草の泥染めは、江戸中期以降に広まった物なので、香菜姫の認識にはありません。
天然の染土を溶かした泥水に、刈り取られたイグサをつけ込む作業を泥染めと言います。畳表の薄い緑色が変色しないよう保つだけでなく、藺草の香りを引き出したり、弾力を保つなど、畳の耐久性や美観を保つ上できわめて重要な工程です。
(『シリーズ日本農紀行 ふるさとに生きる』参照)




