百一話
休憩を挟みながら北へと向かっていると、やがて正面に高い山々の連なりが見えて来た。山々の上半分はまだ雪に覆われており、麓の新緑と相まって、素晴らしい景観を成している。
「あれはベルニープス山脈です」
景色に目を奪われている香菜姫に、クーザンが説明する。
「あの稜線を国境として、向こう側はデルパール皇国になります。些か好戦的な国でして、頻繁に我が国や西隣のベルティカ王国に攻め入ろうとして来るのですが、あの山々のお陰で、なんとかなっています」
特に冬場は雪が多い上に風も強く、山越えは難しいらしい。
「まるで、何処かの帝国のようじゃな」
姫の言葉に、ガレリアが苦笑する。
「そうですね。どうも寒い地域の統治者達は、暖かな場所に住む者達を、己の支配下に置きたいと思うようで」
ビュイソン領でも見たモコモコした獣が花が咲いている草原で草を喰み、まだ青い麦が、風にそよいでいる。そんなのどかな景色の上を、白狐達は駆けていく。
当然、隠形の術と札で、姫達に気付く者はいない。
「わざわざ大回りをして、正解でしたね」
笑顔を向けるガレリアに頷きながら、香菜姫は眼前に広がる雄大な景色を眺めていたが、
「姫様。あちらの方から、何やら不穏な気配がしもす」
周王の言葉に、ガレリアの手が剣へと動く。然し周王が指し示したのは、左手に見える川を遡るように山へと向かった、さらにその先だった。
そこはバルザック王国、ベルティカ王国、そしてデルパール皇国の三国の国境が交わる場所だと、クーザンが呟く。
その不安げな顔に、姫は少しだけじゃと言いながら、様子を見に行く事にした。
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「何やら、争っておる様じゃな」
黒っぽい鎧に身を包んだ軍勢が、周りよりも一段低い山の山頂から降りてくるのを、軽装備の兵達が必死に食い止めようとしていた。
「あの黒い鎧は、皇国軍です!」
そうクーザンが声を上げたので、軽装備はバルザック王国か、ベルティカ王国の者達だと思われる。あるいは、その両方。
事前に仕掛けていたのだろう。軽装備の兵が綱を切ると岩が落ちて、皇国軍の行く手を阻み、あちこちに掘られた落とし穴は、相手の足を止める。
一見、善戦している様に見えるが、あまりにも多勢に無勢。香菜姫の目から見ても、軽装備軍が徐々に後退しているのが判った。
「気に食わぬ……」
ビュイソン領では、これから紙の生産の為に、畑を作ってもらう事になっているのだ。しかも、継続して生産する事が約束されている。
それなのに、その大元である国が他国から侵略されては、約束がどうなるか判ったものではない。
香菜姫は、思い切り手前勝手な理由から、バルザック王国に加勢する事を決めた。
その決断をクーザンは歓迎し、感謝の言葉を述べ、ガレリアは笑って賛同する。
(じゃが、こちらの存在に気付かれると、些か面倒じゃな。さて、バレずに加勢するには、どうすれば良いかの……)
暫し考えた後、姫は少し離れた山頂に降りると、周王とガレリア達をその場で待つように言う。そして。
「さて、崋王よ。悪いがムーンの様な見た目になって欲しいのじゃが」
「犬に、でありもすか?」
露骨に嫌そうな顔をする崋王に、
「犬ではなく、フェンリルじゃ」
「良いように申しても、あまり変わりもせん。しかし姫様が望まれるなら、致し方ありもせん」
言うなり、変化する。然しその姿は、ムーンよりもずっと精悍な見目になっていた。
「大口真神様を真似てみもした」
大口真神とは三峯神社の神使で、その姿はオオカミだ。
白狼ならば、似たようなものだろうと言う崋王の背を軽く撫でると、香菜姫は己に隠形の術をかけ、崋王には隠形の札を貼りつけた。
「では、行って参る」
ガレリア達に声をかけると、空へと駆け上がった。
「さて、どの辺りが良いかの」
不思議収納箱から大鉄板の札を取りだしながら、辺りを見回す。
「あそこが良いかと」
崋王が示したのは、皇国軍の進軍している山頂だった。雪を踏み固めた道は、そこだけ他よりも狭くなっており、周りには多くの雪が残っている。
「そうじゃな。国境を無断で越えてはならぬと、教えてやろうぞ。こちら側には被害が出ぬよう、出来るか?」
「当然至極!」
「ならば、決まりじゃ。大鉄板、一枚!」
唱えると同時に眼前に現れた鉄板を、姫は山頂の皇国軍めがけて落した。
ドゴォーーン!
香菜姫の神力が込められた鉄板は、皇国軍を巻き込みながら雪で覆われた山頂へと突き刺さった。そして、その振動によって引き起こされた雪崩が、一気に皇国軍を襲う。
逃げる間もなく雪にのまれた上に、重装備の為、這い上がる事も出来ない兵達を襲いながら雪崩は陣を構えた所まで到達し、更にそれ等を押し流していった。
たがバルザック側では、小さな雪崩が起きただけで、被害は然程出ていない。その為、軽装備軍が勢いを取り戻し、皇国軍に向かって行くのが見える。
戦況が一変したのを確認した香菜姫は、すぐさま崋王の札を剥がすと、二つ程先の山の上まで駆け、そこで術をかけなおす事で、姿を見えなくした。
(これであの者達は、助力がフェンリルによるものだと思うであろう。あれも一応、神獣らしいからの)
しかし、その奇跡を目撃した者達は、その白く輝く姿を、全く別の神獣と勘違いしていた事を、香菜姫は知らなかった。
***
その後はベルティカ王国との国境となっている川沿いを南下していく。
バルザック王国はレストウィック王国よりもいくらか南にある為か、徐々に見慣れない植物が目に付く様になっていった。
またそこに生息する動物も、かなり違っていた。特に横に大きく伸びた角を持つ、大型の獣の群れを見た時の、香菜姫の驚きようは凄かった。百頭以上の群れが、草原を駆けていたからだ。
「あれは、魔獣ではないのか?」
「こちらの大陸では、魔素溜りの多くは地下か、森の奥に出来るため、このような平原には魔獣はあまり現れないんですよ。あれはオーロブルですね。野生の牛ですが、美味しいので屋台などで人気を集めていますよ。気難しい上に、あのように群れで大移動するため、飼育出来ないのが残念ですが」
「妾の世界では、陸地に住む生き物の中では象が一番大きいと聞いておったが、あれはそのくらいはありそうじゃな!」
「ゾウ、ですか。それはどの様な姿をしているのですか?」
ガレリアの問われ、香菜姫は記憶を手繰りながら、説明する。
「鼻が長うて、耳は平たく大きい。たしか牙もあったの」
「鼻で色んな物を掴みもす」
「尻尾は細かったかと。それに人を乗せる事も出来もす」
周王達も、話に混ざる。
香菜姫自身は実際に見たことはないが、次郎爺から何度も話を聞いていたし、屋敷には象と象使いの絵や、象を模した玩具などもあった。
「人を乗せて、鼻で物をつかむのですか?」
どうやら想像出来ない様で、ガレリアが不思議そうな顔をする。その様子が何故か可笑しく、香菜姫は笑い声を上げた。
***
更に南へと向かい、漸く目当ての物が生えている場所に着く。クーザンが地元の者に話を聞き、採取しても問題ないか、確認してくれた。しかし。
「こちらでは、笹も竹も同じ扱いのようじゃの」
図録では、一応大バブゥと小バブゥと分けてあるが、どうやらこれは大きさで決めているようだ。
(これは、おそらく笹であろう。こちらは同じ様な大きさじゃが、竹のようじゃな)
そこに生えていたのは、それぞれ矢竹と寒竹によく似た物だった。
どちらも同じ様な大きさだが、矢竹はその名に竹がつくが笹の一種で、寒竹は秋から冬にかけて筍が取れる事で知られた、稈の色に特徴のある竹だ。しかし図録では、どちらも小バブゥの一種と記されている。
「まぁ、良いわ。崋王よ。どちらも持って帰るゆえ、頼めるか?」
「畏まり!」
返事とともに、崋王はズブズブと地面に潜っていったかと思うと、直ぐさま一尺ほどの根を二つ、咥えて戻ってきた。
竹や笹は地下茎があれば、増やすことが出来る。
「あとは大バブゥと藺草じゃな」
それらは更に南の小島にあるのが判っている。どちらも、あまり寒い地域では育たないと図録にあるので、いっそ島ごと買いたいと思ったものの、人が住み、領主もいる為、そういうわけにもいかない。
「でしたらペルギニ近郊の小島はどうでしょうか。無人の島がいくつかありますから、それを買われては?」
ガレリアの提案に、香菜姫は頷く。
「戻ったら、オルドリッジと相談するとしよう」
竹と笹の違いは、その大きさではなく、成長した時に稈鞘(たけのこの皮)が取れる(竹)か、付いたまま(笹)か、そして葉脈の違い(笹は平行、竹は格子状)等で分けられます。
寒竹で作られた杖は高級品で、チャップリンが映画で使用したことで有名。
象が初めて日本に来たのは室町時代だと言われています。その後も何度か、その時の為政者に贈られました。
狩野内膳(1570~1616)の作品 『南蛮屏風』(神戸市立博物館所蔵)にも、象の姿が描かれています。こちらは秀吉に贈られた象を見て描いたのではと言われています。
勿論、徳川家康にも贈られましたが、最も有名なのは、吉宗に献上された象で、長崎から江戸までほぼ陸路で移動した事もあり、江戸を中心に、一大象ブームが起きました。




