九十六話
「あの者達は、ムーンを引き取るつもりでおったらしい」
騒動から半刻ほど後、香菜姫は魔術師寮の食堂で出されたお茶を飲みながら、ヘンリーから聞いた話をムーンとトゥルーに語っていた。
ムーンの活躍が広く知れ渡ると共に、我こそはフェンリルの本当の主だと名乗り出る者が、次々に現れたという。
「主って……」
「我の主と名乗って良いのは、女神ドラーラだけだというのに……」
トゥルーとムーンも、呆れ顔だ。
その主張は、ムーンが人語を話す事を知らないと言っているのと同じなので、直ぐに嘘だと判る。そもそも魔術師寮に居る事となった経緯を知るヘンリーとしては、あまりの馬鹿らしさに相手にせずに放っていたという。
ただし、これ以上同じ主張をする者達が出ないよう、フェンリルは人語を理解するという話を広める事にした。
すると馬鹿な事を言ってくる者達はいなくなったが、今度はぜひとも引き取って、面倒を見たいという者達が出てきた。
ヘンリーの甥、エルン・バンクスもその一人だった。
当然ながら魔術師団長として、ヘンリーはその全てに断りの手紙を送ったのだが、エルンは納得しないばかりか、甥という立場を利用して、面会を求めてきたらしい。
「会って話をすれば、身内可愛さでヘンリーが折れると思っていたようじゃ」
「本当に、いい迷惑ですよ」
そこに疲れた顔のヘンリーが、ぼやきながら食堂に入ってきた。然し直ぐに香菜姫の前に立つと、深く頭を下げる。
「ありがとうございます。聖女様のおかげで、なんとかなりそうです。おそらくですが、厳重注意と数年間の王都への立入禁止といった辺りで、落ち着きそうです」
今はそれなりの身分の者専用の拘留部屋に留め置かれているが、二、三日もすれば帰宅を許されるだろうと語る。
「子は、どうしておる?」
「離すのも可哀想なので、今は母親と共にいます」
父親は別室だという。
心配気な香菜姫に、食事も朝晩出るし、安宿よりは良い部屋だから大丈夫だと、ヘンリーが請け負う。
少し表情が緩んだ香菜姫が、空いている席に腰掛けるよう、ヘンリーに勧めたので、トゥルーの横に腰掛ける。そうして今回の騒動の原因を話し出した。
「甥のエルンは子供の頃から『特別な評価』を欲しがる子でした。ただ残念な事に、本人が望むような『特別な才能』は、持ち合わせていませんでした」
「それって、どんな物なの?」
トゥルーの質問に、ヘンリーは少し考えてから、話を続ける。
「人よりずっと多い魔力や、優れた剣術の腕、もしくは誰しもが一目置くほどの頭の良さといったところでしょうか」
「じゃが、どのような才があろうと、それを磨く努力をせねば、物にはなるまい」
香菜姫自身、幼い頃から学びや練習に多くの時間を費やしてきた。今も学びの最中だ。
「その通りです。たとえどれ程魔力が多くとも、それを上手く使うためには日々の訓練が必要ですし、優れた剣技も鍛錬を怠ければ、途端になまってしまいます。そして頭の良さも、学びと実践が伴わなければ、結局は、なんの役にも立ちません」
そこで言葉を区切り、トゥルーの入れた茶を飲むと、少し哀しげに話を続けた。
「エルンは人より少しだけ、魔力が多かったので、私はそれを伸ばすよう勧めました。その為の学校に通えばどうかと。しかしエルンが求めたのは、もっと簡単に、すごい魔法を使えるようになる術を教えてくれというものでした」
「近道したかったんだ。でも、それで特別になれるの?」
トゥルーの問いに答えたのは、ムーンだった。
「誰よりも短い時間で習得したという意味では、特別なのだろう。しかし、そのような術があるとは思えぬが」
ムーンの言葉に、ヘンリーが頷く。
「何度か努力の大切さを説いたのですが、中々伝わらなくて。結局、甥は『特別な物』を手に入れる事によって『特別な自分』になろうと考えるようになったのでしょう」
「その為のムーンか。確かにフェンリルを保護している者など他には居らぬであろうからな」
「はい。しかもエルンは、彼の母親の言葉を鵜呑みにしていたようでして……」
取り調べで判った事だが、エルンの荷物の中から、エルンの母でヘンリーの姉でもあるバンクス夫人から、ヘンリーに宛てた手紙が出てきたらしい。そこには、『息子の願いを叶えるように』という文面が書かれていた。
「どうやら姉は未だに幼い頃の様に、自分が言えば私が従うと思っている様で……」
困ったものだと首をふるヘンリーを見ながら、香菜姫はある一組の『困った姉とその子供』の事を思い出していた。
***
「いつまで待たすのよ。すぐに神官を呼べと言ってるでしょう!私を誰だと思っているの!」
クラレンス翁の死去を受け、戦の表舞台に出る事をオルドリッチに告げた香菜姫が、地下牢に向う階段を降り始めた時点で、その金切り声が耳に入って来た。声の主は姫の姿を見た途端、苛立たし気に眉を顰めるものの、偉そうな態度は変わらない。
「なんで神官ではなく、こんな小娘を寄こすのかしら。まぁ、良いわ。一応聖女だし、我慢してあげる。さぁ、今直ぐこの傷を治しなさい!」
鉄格子の間から、見覚えのある顔で命じてくるが、その相貌は記憶とはかなり異なっていた。
持ち上げ、はみ出そうな胸は健在だが、結い上げられた髪は崩れ、衣装もあちこちに綻びかある上に、裾の片面には土がベッタリと付いている。
そしてその顔はと言えば、鼻は曲がり、頬から顎にかけて大きな擦り傷が出来ていた。その傷を治せと騒いでいるのだ。
(此奴の記憶する能力は、かなり問題があるようじゃな)
前にクラッチフィールドで足を治せと言われた際に、香菜姫はきっぱりと断っている。それにも拘わらず、こうして治療を求めて来ているのだ。 記憶に不自由があると思われても、仕方がない。
呆れている姫の横で、その余りにも厚かましい要望に、周王と崋王が殺気立つのが判った。今にも術を使おうとするのを、手で遮る。
姫とて、今すぐあの口を引き裂いてやりたいと思うが、その権利を持つのは、クラレンスの身内であるシャイラやダルウィン達だと判っているからだ。
「断る。それどころか、妾はその顔を潰してやりたいのを我慢しておる。感謝してたもれ」
今すぐ翁の敵を討ちたい思いを押さえる気がない姫の声は、氷の棘を纏ったように冷たいものとなる。
然し己の顔の事しか頭にないシャルレイは、苛立たし気に姫を睨みつけると、
「相変わらず、生意気だこと。詳しくは言えないけど、私には親切にしておいた方が良いわよ。でないと、後で絶対に後悔する事になるから」
勿体ぶった仕草で言うが、今の姿では滑稽に見えるだけだ。
(大方、帝国の後ろ盾の事を言っておるのじゃろうが、そんなものは、存在せぬも等しい)
今から、香菜姫が叩き潰しに行くのだから。その時。
「ねぇ、私は何も知らなかったのよ!ウィリアム様に、陛下に伝えて。私は悪くないって!」
隣の牢に入れられているチャンテルが訴えかけながら、鉄格子の中から姫の袖へと手を伸ばしてきた。到底届かない距離だと判っていたが、姫は更に一歩、後ろへと下がる。伸ばされた指先が空を切るのを眺めながら、
「妾に取り成しを求めても、無駄じゃ」
知っていようが、そうでなかろうが、あの場に共に来たのだから、共犯を疑われるのは、仕方のない事だ。
手鏡を取り出しながら、判ったらさっさと治せと言うシャルレイに、崋王がぽそりと呟く。
「朧舞」
幻術により、鏡に映ったシャルレイの顔が、腐り崩れていく。鏡を投げ捨て、叫び声を上げるシャルレイをに冷やかな視線を送ると、香菜姫はその場を後にした。
チャンテルは、最後まで自分は無関係だと主張していたが、帝国兵が自身の住む屋敷に大勢つめていたのを知っていたのに黙っていた事や、母親が何か企んでいるのを察しながら、それを止めなかったということで、結果として共犯扱いとなった。
その後、戦が帝国の敗北で終了した事を告げられたチャンテルが、叫び声を上げながら嘘を付くなと騒いだらしい。
結局、共同葬儀の翌日、母娘共に毒杯が与えられる事になった。
オルドリッチから、刑が執行されたとの報告を受けた姫は、その場にウィリアムをはじめ、ダルウィンやドワイトも、その場に立ち会ったと聞き、「そうか」とだけ言うと目を閉じて、故人の冥福を祈った。
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ヘンリーが諸諸の手続きの為に、その場を離れた後、姫は本来の目的を果たすことにした。紙の原料さがしだ。
「それはそうと、ムーンに聞きたい事があっての。今から言う様な木があるか、知りたいのじゃ」
香菜姫の言葉を継ぐ様に、崋王が楮の特徴を話し始める。
「高さは十尺から十五尺程、寒くなる前に葉が落ちる質で、雌株と雄株に分かれ、どちらも春に花が咲くが実が生るのは雌株のみ。その丸い橙色の実は食用となりもす。しかし一番大事なのは、蒸して叩くと、長く強靭な繊維が取れる事」
崋王の説明に、暫く考え込んでいたムーンだが、何か思い当たったのだろう。そう言えばと、話し出した。
「今ほど放牧や綿の栽培が盛んでない時代、木の皮を使って布を織っていた地域があった。もしかしたら、その木が求めているものと、近いかもしれぬ。クロスベリーという木で、東部に多く生えていたと記憶する」
羊毛や綿花に比べて、糸にする迄にかかる手間が多い為、今では殆ど使われていないという。
「東部か。ならばアベケットの辺りか?」
「いや、そうではない。隣の大陸の東部だ」




