プロローグ
元禄五年(1692年) 冬至
「姫様、足元に気をつけて下さいまし。夕べの雨のせいで、少々ぬかるんでおりますゆえ」
二人の侍女に先導されながら山道を登るのは、やんごとなき身分とおぼしき少女だった。
「判っておる。さきは心配性じゃの」
そう答えたのは、つややかな黒髪を笄髷に結い、紺地の切袴に緋色の単衣、井桁花菱紋に四ッ華文の入った紫の表着と、同柄の薄紅色の唐衣を纏った少女で、その足元は褄皮付きの雪駄を履いている。
そして、その両脇には少女を守るように二匹の白い狐が同行していた。右手にいる狐には花のような文様が、左手にいる狐には炎のような文様が、それぞれの額に緋色で刻まれている。
「姫さんに何か起こる前に、俺が何とかしますから、大丈夫ですよ」
年のころは十八、九歳ぐらいの灰色の伊賀袴に脚絆姿の護衛が、笑いながら姫と呼ばれた少女の後に続く。
「黒鉄、妾はもうすぐ十五となる。五つ六つの幼子のような扱いを、するでない」
「そうですよ、いざとなったら、私が踏み板がわりになりますから」
「なつめまで、そのようなことを」
軽口を叩く様子から、彼女等が主従ではあるものの、親しい間柄なのが見て取れる。頂上まで後少しの所で、あえて少し道を左に外れて進むと、そこに目当ての物が見えた。
「あぁ、これじゃ。これが見たかったのじゃ」
それは六尺ほどの白い薮椿だった。葉を落とした木々の中、艶やかな緑の葉を誇るそれは、いくつもの白い花をつけていた。一重の小輪だが、やや筒咲きの花は寒さを堪え忍んでいるようでいじらしく、その蕾はコロンと丸く、愛らしい。
「綺麗よのぉ。屋敷の庭に有るのは赤い椿だけゆえ、わざわざこうして裏山に登って来たが、その甲斐はあったというものよ」
少女がそう言うと、右横に控えた狐が不満げに鼻を鳴らす。
「華王よ、お主に乗ればあっという間に着くのは判っておる。じゃが、おのが足で登ってこその景色というものが在るのじゃ」
その言葉に、少し離れた場所で待機する侍女達が微笑む。主である香菜姫は、まだ幼いところがあるものの、その美しさは今まさに花開かんばかりであり、これから多くの殿方の心を惑わすだろうことは、想像に難くない。
「まるで一幅の絵のようでございますねぇ」
なつめと呼ばれた侍女が溜息をつきながら言ったその時、見たこともない紋様が姫の足元で白く光ったかと思うと、その空間が歪められた事が判った!
(しまった、罠か?)
そう思った護衛が急いで駆け寄るが、時、既に遅く。
「姫!」
「「姫様!!」」
『さき、なつめ、くろが…』
侍女達を呼ぶ声は、霞んで行くその姿と共に、遠くなっていった…
*◇*◇*◇*◇
「成功だ!」
「おぉ、なんと神々しいお姿…」
「これは…もしや異世界の姫君か?」
「これで、この国も救われる!」
「聖女さま!」
「ここは…どこじゃ?」
香菜姫は途方に暮れていた。つい先ほどまで裏山で椿を見ていた筈なのに、今は全く見知らぬ場所にいるのだ。おまけに彼女を取り囲んでいるのは、髪は茶色や金色だし、目も青や緑をしている者達だ。
(異人がこんなに大勢…ではここは異国か?じゃが、言葉が判るという事は…もしや出島?それにしても、一体どうやって…おまけに、この床の文様。この様な物は見たことがない…)
床に座り込んだまま、思案にふけっていた香菜姫は、自分の前に誰かが跪いたことに気づいた。それは金色の髪に青い目をした青年で、白地に金の刺繍が施された華やかな衣装を纏っていることから、高い身分の者だと察せられる。
その青年は嬉し気に微笑みながら、香菜姫に話しかけてきた。
「ようこそお越し下さいました、聖女様」