『イン・ザ・セダン』
私は目を覚ました。意識を無理矢理覚ますような突発的な出来事が起こって、睡眠から強制的に起こされたわけではない。私の意識は、ごく自然な感じで、ゆっくりと確実に回復していった。まるで寝起きのすごく良い健康な赤ちゃんみたいに。だが、眠っている間に私自身の意識が、環境の異変を鋭く感じ取り、眠りからの覚醒を促したということはもしかしたらあるのかもしれない。そこは、私の知っている場所では無かったし、また、健康な赤ちゃんが目覚めるべき時間でもないようだった。視界は暗い。太陽は世界から既に退出していた。いつ再入場してくるのかは未定だ。ときおり、遠いところにある明かりが視界に現れては、彗星みたいに、視界の端の方へ真っすぐに通り過ぎていく。これは現実感の強い夢なんだと、覚醒して最初のうちは思った。現実世界にしては、物理的、心理的な刺激があまりにも少なすぎるからだ。
誰かの車の後部座席の左側(私から見て左側)に乗せられていた(それも恐らくとっても高級なセダンだろう)。右斜め前に、運転している人間がいるようだ。そこに人の気配がしている。黒い服の肩の部分、ハンドルへと伸びているらしい腕のシルエットの部分、ハンドルを握っている乳白色の人間の手の部分がぼんやりと見えている。車窓から見える光は、遠くにときおり見えている明かりだけで、車内が明るく照らされることは無い。人の住んでいない山のふもとを走っているのだろうか。辺りはただ真っ暗で、視界前方に見える、ヘッドライトに照らされた道のわきには、途切れることなく黒い棒が立っている。とても背の高い木の、幹の部分だろうか。車のエンジン音は、とても静かだ(おそらく電気自動車なのだろう。アイドリングしている車よりも静かなぐらいだ)。セダンが走っている道はかなり最近に舗装されたものなのか、道自体ができたばかりなのか、分からないが、とてもなめらかである。事実、私は起きたときに、自分が車の中にいるということが分からなかったぐらいだ。何の突起もないところを永遠に滑っているような感じだった。もしリニアモーターカーが実現したらこんな感じなのかもしれない。
椅子の座り心地は、自然かつ贅沢に包み込むような感じで、身体にフィットしていたし、サスペンションは完璧な動作で車体の揺れを極小に抑えている。私は、誰かの手によってこの椅子に座らされ、何一つ計算の狂いなく組み立てられた緻密な機構の車で運ばれながら、健康な赤ちゃんのようにすやすや眠っていたらしい。そして、穏やかに眠りから覚めた。まだ太陽は出ていないけれど。
意識の働きがほぼ復活し始めたところで、私は体をすぐさま動かそうとした。よくドラマとかで誘拐された人がするみたいに、腕や脚を振り回そうとした。でも、体はびくともしない。まるで、接着剤で椅子に張り付けられたみたいだった。だから私は声音を上げた。どうやら人間は、覚醒したときに全く知らない場所にいたら、何かしら激しい運動をするようにプログラミングされているようだ。私は、何を言うかなんてもちろん全く考えてはいなかった。私の声帯は自動的に運動した。
え? え? え? だれ? だれですか? 降ろして!
そのような声音を声帯から発した。
しかし運転手は何も言わずに運転を続けている。もう一度体を動かそうとした。どうやら、首より上だけは少しだけ動くようだった。眼球を真下にやり、さらに限界まで首を前に突き出すと(とはいってもたった数センチだった)、かろうじて自分の太もものあたりを見ることができた。私の足には、ひざ掛けのようなものが掛けられているらしかった。身体を縛るような工作が施されているのは、このひざ掛けの下なのだろうか?それにしては、身体全体のどこにも、何かで縛り付けられているような感覚は無い。ただ、服を纏っている感覚と、足の上に掛けられているひざ掛けの温もりがあるだけだった。
ちょっと! ちょっと! どこに連れていくつもりだ!
運転手からは何の反応もない。暗闇の中、黒い服で闇に同化した人間が無言でハンドルを握っているだけだ。運転手は音を聞くことができないのかもしれない。もしくは、私の声がもう誰の耳にも届かないようになっているか。
私はそこで、視界の前方、奥の方、すなわち車の進行方向(車はずっと真っすぐ進んでいる)のずっと奥に、白とオレンジが混ざったような光があるのを発見した。それは、私が目覚めてから見る光の中では最も明るかった。私は一瞬目を伏せた。私の目は、ほぼ暗闇に順応しかけていた。
その明かりは車の方へまっすぐに近づきながら、遠くで膨張している星みたいに大きさを増していく。数秒が過ぎ、それがトンネルの入り口から漏れている光であることがわかった。と同時に、トンネルから漏れ出る光で照らされ、周りの風景が明らかになった。トンネルで照らされた周りは、新しいコンクリートの灰色が際立って見えていて、その付近が最近になって整備されたものであることが分かる。また、道の脇、トンネルの上、などは全て植物が支配する闇の世界であった。何も受け入れようとしない拒絶的な漆黒と、危険なものを甘んじて受け入れ、それら全てを覆い隠そうとする野性的な誘惑を滲ませる、吸い込まれそうな闇黒が同居していた。車は、闇の世界を貫通するための光のトンネルへと吸い込まれていく。セダンは相変わらず、まるであらかじめ決められているコースを滑走するみたいに、揺れも音も全くない。
車内が明るくなってくると、私は運転手のことをもう少しだけよく見ることができるようになった。運転手は黒い帽子を被っている。つばは頭の周り全体についているタイプのもので、つばの長さは短くも長くもない。黒いスーツを着用している。上着の袖の内側から、シャツの白い袖が見えている。手は美しい乳白色で、ハンドルを握っている指は比較的長いが、ごつごつしているように見えなくもない。男なのか女なのか、後ろから見ただけでは判別はつかない。後頭部は、帽子とシートのヘッドで隠れていて全く見えない。身長は高くないだろう。ただ、帽子やスーツと同じく、髪も真っ黒であることだけは分かった。艶やかな黒髪(男にしては長い)が、帽子の下部から少しはみ出している。
セダンが白い光の中へと没入していった。トンネルの入り口からある地点(結構遠い先のように見える)までは白く、ある地点からはオレンジ色になっているらしかった。トンネルの幅はすれ違いの二車線で、横には左右共に、幅の狭い歩道のような道がある(もちろん誰も歩いてはいない)。新しいため、不気味な感じや、閉塞感はなく、開放的に感じるようにできていた。そのような人工物だと分かっていながらも、私はそこに異世界のような感覚を覚えた。ここは白い第一世界。その次はオレンジ色の第二世界。その先は不明。
車内が突如明るく照らされ、と同時に脳内が一瞬で真っ白になった。私は目を伏せる時間の猶予も与えられないまま、激しい目眩に襲われた。一瞬だけ視界に捉えられたのは、前の椅子のグレーのポケット(黒か茶色のような色でポケット上部にステッチが施されている)、左のサイドミラーに反射して映った、黒いセダンの艶やかに輝くボディと、トンネル入り口で鮮烈に区切られた闇と光。そして、バックミラーに映った、運転手の顔の、鼻より下。帽子で目は見えなかった。顔の色は、ひんやりした陶器のような乳白色で、光を吸い込むようなマットブラックの帽子と対象的なコントラストを生み出していた。やはり、闇と光。
顔に見覚えがある気がした。また同時に、見てはいけないものを目撃したような、えたいの知れない違和感と嫌悪感に襲われた。しかし、その理由を追求するだけのエネルギーが、そのときの私の脳内(意識)には無かった。
頭の中に響いた白い閃光は、その後暴力的にあらゆる色彩を奪い去った。色づく秋の前に破壊の限りを尽くしていく台風みたいに。私は、意識(色)が回復していってくれるのを待った。根の深い柳の木のように辛抱強く。
色彩が少しずつ私の目に映るようになっていった。とはいえ、視界でしっかりとした色味を持っているのは、まだ遠い奥の方に見えるオレンジ色だけだった。
私はバックミラーに映っている運転手の顔を、今度こそちゃんと見た。帽子のつばを少しあげたのか、トンネルの光の入ってくる角度がさっきと違うせいかは分からないが、目のあたりまでちらりと見えた。無数のトンネル内の白いライトが、高速で近づいてきては遠ざかり、を繰り返す。帽子の下の顔を隠しては露わにし、を無数に繰り返す。私は運転手の顔のシルエットを掴み、認識した。
私は唖然とした。
最初の一瞬、単にバックミラーがひどく歪んでおり、だからそこに自分の顔が映っているのだと思った。しかし、私は黒い帽子など被ってはいない。だからそこに映っているのは私ではない。
しかし運転手の顔は私の顔である。
それは紛れもなく私の顔だ。鏡の中でしか見たことのない私の顔をした人間が、実世界に存在しているのだ。その人間は今目の前にいる。バックミラーにその人間の顔が映っている。実世界では、鏡に幻が映ることはない。鏡に映っている運転手の顔が私の顔と全く同じであるということは真実だ。私はそのように信じるし、信じていた。
私は言葉を発するべきだったが、何も言わなかったし、何も言えなかった。目覚めたときよりもさらに身体が固くなり、今度は本当に全く、首も動かすことができなくなっているのを感じた。口も開かなくなっていた。口の周りの筋肉は、氷山のように固くなっている。それは決して私の意図ではない。氷山は空気に凍らされて固くなる。口も空気に凍らされているみたいに固く閉じられている。異様な空気の中、鼻だけが呼吸をしていた。
私はずっと、バックミラーに映る運転手の顔を凝視していた。私の顔(をした運転手)は
じっと道路の前方を見つめている。すごく遠くの方まで見ているように見えた。トンネルの先の景色まで。しかし、私には奥の方にあるオレンジ色しか見えなかった。だいぶオレンジ色は近いところまで来ていた。圧迫するようにそれは近づいてくる。
運転手の目が、私の目をとらえた。私ではない、私の顔の目が、私の目を見た。それはこの世で起きてはならないことの一つに思えた。世の中に無限大に存在してしまっている、矛盾する物事の一つであることはまず間違いが無かった。私は、存在するはずのない(また、存在するべきでない)もう一人の自分からの視線に鋭く刺された。
車内の色が一変した。何もかもがオレンジ色に染まった。革のシートも、バックミラーに映っている私の顔も。全ての色彩が一色に支配され、色の識別が不可能になった。
バックミラーに映る自分を見ているうちに、身体を動かせないでいる自分と、身体を動かせないでいる自分を後ろに乗せて車を運転している、黒い帽子を被った自分との区別が、なんだか分からなくなっていく。そこには、現実的な感覚がほとんど無くなっていた。なんだかふわふわとして、宙に浮かんでいるようだ。景色が遠ざかり、音が消え、私は、砂漠の中で吹きすさぶ風の中のほんの小さな砂粒の一つとなった。風に流されながら、どこかから直接的に信号が送られてくるのを待った。意識の最後のひとかけらがゼロに収縮している途中であるという認識があった。
私を見ている私の目。ハンドルを握っている私の手。それを左斜め後ろで眺めている私。帽子。私の口。頬が少し緩み、ゆっくりと開いていく。口の中で、言葉を作ろうと舌が動いている。
オレンジ色が渦を巻いたり、不可解に激しく暴れたりしながら、現在の意識のすべての幕が下ろされていった。オレンジ色の幕はあらゆる方向から下りた。
そして何もかもがオレンジ色になっていった。
私はそのまま、すべてを受容していった。
二人の私を。