こちら死神、次の担当は八十代のババアらしい
曇り空の下、一羽のカラスが飛んでいる。カラスが目指す場所は、大きくて背の高い建物。病院と呼ばれているその場所にカラスは近づき、羽を羽ばたかせながらある一点を見つめる。窓から見えるのは、こちらを向いてぐったりと眠っている女性。
カラスにとって、ここに来た目的とも言える女性だ。
窓枠の方まで行って、嘴を窓ガラスにつける。すると、カラスの嘴は窓をすり抜け、その姿はカラスから人間へと変わっていった。
カラスは、仮の姿。世の中で死神と呼ばれる存在は、カラスとなって現世を移動する。人間にカラスとしての姿は見られても、人間としての姿が見られる事はない。つまり、カラスの状態では行けないところでも人間になればどこでも入れる。
死神タカハシは、それを利用して病院内に侵入した。全ては、担当する事になったこの女性をきちんと成仏させるために。
ベッドの柵を見ると、カードがある。女性の名前は、逢沢千子。八十二歳で、この病院には一週間ほど前に来たとわかった。
千子の身体には、様々なものがついている。鼻には管があり、そこから栄養を流し込まれているらしい。残り少なくはなっているが鉄素材の棒に白い液体の入った袋がぶら下がり、先端についた管が鼻へと繋がっていた。
掛け布団から出ていた腕には小さくて黒いアザのようなものがあり、これまで点滴をつけていたとわかる。
更に、病院着の胸元からは赤や黄、緑のコードが出ていて、顔の付近にある小さな機械と繋がっていた。機械には九十前後の数字が表示されており、時々数に変化は見られるものの特に変わりはない。脈拍の計測でもしているのだろうか。
「……これが、後持って三日……か」
容態は、落ち着いているようにしか見えない。目は固く閉じられたままだが、呼吸はしっかりしている。しかし、意識のない状態が続いてかなり経過しているという情報は得ていて、なおかつ三日後に千子が死ぬ事は確定していた。
鼻から息を吸うと感じる、異様な臭い。それが長い間身体をしっかりと洗えていないせいなのか、きちんと歯を磨けない事による口臭のせいなのか、死期が迫っているせいなのか、タカハシにもよくわからない。それほど様々な要因が混ざりきった臭いがした。
鼻が敏感なタカハシにとっては、辛い環境である。故に早く仕事を進めようと、タカハシは千子の顔の前に手を置いて目を閉じた。
目を開けると、目の前に広がっていたのは草原。青空の中に多少の雲はあれど、天気の良い澄んだ空間である。ここは、千子の精神世界。その証拠に、驚いた顔をして木製のベンチに座っている千子の姿があった。
「あら……っ、どちら様?」
尤も過ぎる疑問に、タカハシは一言「死神だ」と言う。タカハシは、黒スーツの上に黒コートといった全身真っ黒な服装に襟足の長い黒髪と真紅の瞳を輝かせ、死神と言われて納得のできるような格好をしていた。
千子はそれを聞いて、寂しそうな表情を見せる。
「まぁ、そう……っ。とうとう、お迎えが来てしまったのね」
「何も案ずる事はねぇ。俺が責任を持って、成仏させてやる。成仏成功率トップクラスの俺に担当してもらえた事を感謝しな」
「……ふふっ、そうなの。それは有り難いわねぇ」
ドヤ顔で言うタカハシに、千子はクスクスと笑う。
精神世界では本人が望んだ頃の姿でいる事ができるが、千子の場合はつい最近までの姿のように見えた。髪色は黒い部分が多いにしてもボリュームはなく、肌からはハリが消え失せている。
笑うと目元に深く刻まれていく皺を見ながら、タカハシは千子に近づいてベンチの空いているところに座った。
「ねぇ、死神さん。私とお話ししてもらえるかしら?」
「タカハシだ。……こっちとしても担当する事になったからには、話をしないと困るんでな。だが、あまり長時間は身体に障るかもしれん。ちょっとだけだぞ」
「えぇっ。そんな意地悪言わないでちょうだいよ、タカハシさん。……でも、死神って不思議なのねぇ。苗字で呼ばれているの?」
基本的には、死神に名前はない。名前など必要がないからだ。しかし、後に名前がないと不便だという結論に至り、タカハシの場合はタカハシを死神にした死神から名付けられている。
元々は、タカハシも人間だった。千子と同じようにタカハシの死を担当する死神が精神世界へやって来て、仲良くなった事は記憶に新しい。
「俺を死神にしたお方からは、俺の生前の苗字だったと聞いている。まぁ、俺はそんな事覚えてもねぇがな。生前なんて最悪の連続だったから、死神になると同時に記憶も消してもらった」
「そうなの……っ、それは辛いお話ね……」
しまった。タカハシの仕事は千子にとって最期の願いを叶えさせ、きちんと成仏できるようにする事。自分語りを始めてしまうなんて、成仏成功率トップクラスの死神がする事ではない。
「っ、俺の事はどうでもいいんだよ! そんな事より、ババア!! 俺が聞きたいのは、お前さんの願いだ! できる事なら何でも叶えてやるから言えっ!!」
「えっ、願い……? 有り難いねぇ。突然意識を失ってそのままだから、やり残した事が沢山あるのよ……っ!」
願いを叶えてもらえると聞いた途端、先ほどまでの切なそうな表情が一気に明るくなる。単純なババアだと呆れながら、千子が何を言い出すか待った。
数十分後、千子が「決まったわ」と言ったため、タカハシは「何だ」と聞く。
「私ねぇ、可愛い孫娘がいるのよ。その子、私の歳と丁度六十違っててね、干支も同じ、十干十二支も同じ……運命を感じたわ。あの子のためなら、何でもできるって思ってたの」
その孫娘は、千子の担当になった日に見た事がある。様子を見にいったものの、千子を見ながら俯いている若者の背中があった事から諦めた。
故に顔をきちんと見ていないし、タカハシ的にはいまいち孫娘の想像がつきにくかったが、千子は言葉を続ける。
「でもね、可愛いあまりなかなか孫離れができなくて。いつからか、鬱陶しがられるようになったわ。こうなる前も、口すら利いてもらえなくて。……またあの子とお話しできたらねぇ」
目を細めながら言う千子の願い、叶えられなくはない。しかし、会話というのはなかなか難しいと言える。千子の意識を取り戻させるというのも死神の力では不可能だし、意識が戻ったとしてもまともに会話ができる状況ではないはずだ。
意識を失っている状態で話ができるのは、精神世界しかない。つまり、千子が孫娘の夢の中に入り込むという方法だけだ。たとえそれをしたとしても、千子の方から一方的に話しかける事しかできないだろう。精神世界での会話は、入り込む方に相当な力がなければできないのだ。
「……今のお前さんには無理だな。修行が必要だし、お前さんにそこまでの時間は残されていない」
「……なら、仕方ないわ。別のを考えましょうかね」
そう言って微笑むと、千子はまた考え始める。タカハシはその間、空を見つめながら雲の形が何に見えるか考える事にした。ロールパン、蛇、苺、ネズミ……想像力をフルに働かせていた時、「あっ!」という声が聞こえ身体がビクッと跳ねる。どうやら、千子の次の願いが決まったらしい。
「あの子を、力一杯抱き締めてあげたいねぇ」
「無理だ。別のにしろ」
「じゃあ……あの子がもう少ししたら大学を卒業するから、振袖と袴をちゃんと着させてあげたいねぇ」
「無理だ。別のにしろ」
「そうねぇ……じゃあ、あの子が結婚するまで生きていたいねぇ」
「無理だ、迎えの時間は延ばせねぇ。別のにしろ」
「うーん……じゃあ、ひ孫を見てみた」
「無理だっつってんだろ、このクソババア!!」
つい、声を張り上げてしまうタカハシ。千子も、無理だという事はわかっているはずである。できる事なら何でも叶えてやるとタカハシは言った。しかし、死神は万能ではない。できない事の方が山ほどある。
願いを叶えさせると言っても、死神にできるのは相当妥協させた上でのものだ。たとえば、最期に好物が食べたいと願ったとしても食べさせてやれるのは精神世界でのみ。実際に食べさせてやれる力はない。
いくらタカハシほどの成仏成功率トップクラスの死神といえど、担当になった人間が最初に願ったものを叶えてやれる事はほぼないのだ。大抵が、タカハシが叶えさせたいと頑張っている姿を見て満足してくれただけに過ぎない。
心の底から成仏させてやれているとは到底言えないのである。この世には死神の実力が足りないせいで未練が残り、成仏できないままの霊が数多く存在していた。中にはこの世を生きる人間に手を出す霊もいる事から、自分の力のなさがいつも悔しくて、申し訳なくて、仕方がない。
声を張り上げたと同時に立ち上がり、手を固く握り締めたタカハシは歯を食い縛る。そんなタカハシの冷たい手が、温かさに覆われた。
「っ!」
「わがまま言って、ごめんなさいね。……ただ、毎日のようにお見舞いに来てくれるのにあの子のために私ができるのは、ちゃんと呼吸している姿を見せる事だけ。一言、お礼が言いたくて。ずっと『私のせいだ』って自分を責め続けるあの子に、そうじゃないのよって言いたくて……」
その時千子の声が震えたのがわかり、タカハシはちらっと千子の方を見る。顔は微笑んだままだが、目からは静かに涙が溢れていた。
会いに来てくれる孫娘に対し嬉しく思いながらも何もできない歯痒さを、千子から感じる。
タカハシは、千子に包まれた冷たい手を広げて千子の温かい手をきちんと握った。
「……この世は、不公平だな。これだけ生きたいと願っている奴にたった少しの時間もくれねぇなんて」
「確かにそうね。辛いけど、あの子が成人した姿を見られたのは光栄だったわ。あの子が小さい頃は、私の仕立てた振袖を着てくれたらいつ死んでもいいと思ってたのに……欲張りになっちゃってダメね」
「人間ってのは、そういう生き物なんだろ。……そんな欲張りババアの願い、俺が意地でも叶えてやる」
「あら、できるの? さっきは無理だって言ったのに」
千子は、眉を下げてそう言う。その発言にカチンと来たタカハシは、千子の前にしゃがんだ。
「やってやる。……だが、その前にお前さんに確認したい」
「何かしら」
「愛する孫娘が死ぬのを、看取ってやりてぇか」
千子はそれを聞いて驚いた表情を見せたが、すぐに頷く。それを見たタカハシは千子と繋いでいた手の甲に、口付けをした。
それから五年後。
タカハシは電柱の上に立ち、下を見ていた。タカハシの視線の先には、大人っぽい服装に身を包んだ女性がいる。その足取りは軽いため、これから遊びにでも行くのだろうか。そう思っていると、タカハシの耳に「わぁあああっ!!」という可愛らしい声が届いたと同時に肩に重みが走った。
「ぐぅっ! おいコラ、テメェクソババア!! 何すんだ!」
「むぅ、誰がババアよ! だって、あさちゃんがいるんだもん!! あ〜、今日の服もおしゃれねぇ! 私もこんな真っ黒ポンチョじゃなくて、あんな服着たーい!!」
「わがまま言うな、アイザワ!! 大体、死神があんなカラフルな服着てたら上層の奴らに怒られるっつの!」
重みに耐えきれなくなったタカハシは怒りながらそう言って、小さな死神であるアイザワの右足を掴み、逆さまにぶら下げる。
アイザワはそんな事をされているにも関わらず、楽しそうに笑っていた。タカハシとアイザワのこんなやり取りは日常茶飯事である。故に、タカハシに何を言われてもアイザワは何一つ感じていない。
しかし、愛おしそうに女性を映すアイザワの目に、怪しい霊の姿が見えた。女性に手を出そうとしていると瞬時にわかり、アイザワは目を見開く。
「っ! あさちゃん、危ない!!」
そう叫んですぐに腹筋を用いて上体を起こすと、タカハシの手を蹴って一目散に女性の元に向かった。そして強制的に霊を成仏させるための鎌を取り出して、ビュッと勢いよく振りかざす。
「きゃあ!?」
女性はいきなりカラスが突進してきそうになった事に加えて強風が吹いた事から、小さな悲鳴を上げた。霊は苦しそうな声を上げながらも、天に上っていく。それを見て安心したアイザワは、すぐに女性を見た。
「あさちゃん、大丈夫!?」
しかし、その声は女性に届かない。カァーカァーという声にビクッとした女性は、おどおどしながらも「カッカラスさん、ちゃんと前見て飛ぶんだよ……っ!?」とだけ言って去っていった。
アイザワは、一瞬キョトンとしたものの走って遠ざかっていく女性を見ながら地面に降り立つ。隣にやって来たタカハシは、深い溜息をついた。
「あのな、確かにあれは悪さをしようとしていた霊だ。だが、あんな事をしたら人間は驚いて仕方ねぇだろ。あの子はお前さんにとって大事な子なんだから、もっと慎重にやれ」
「うーん……、だって守りたかったから。……あさちゃん、待っててね。おばあちゃん、必ず立派な死神になってあさちゃんをちゃんと導いてみせるから!」
ここまで死神として成長するのに早五年もかかってしまったが、大切な孫娘を守るためアイザワは声に出して誓う。
今日も、立派な死神になるための修行開始だ。




